豊北町(ほうほくちょう)に入ると、「土井ヶ浜遺跡」の横に「土井ヶ浜弥生パーク」と併記された立て看板が目についた。道路脇に「○月○日オープン」などとよく立てられているあれである。
予備知識としては、「砂丘で発掘された弥生時代の墓の遺構をすっぽり覆った資料館がある」という程度だったから、「パーク(公園)とは大げさな」が実感だった。しかし、二度目の看板で「5月1日オープン」とあることから、どうも史跡公園の類(たぐい)が建設されたようだった。
諏訪からひた走りに走ってきた、移動のためだけの雨中のドライブも終わりに近づいたことに加え、連休初日に、それも最初の目的地に何かがオープンしていることに意気が上がった。
山口県の左肩にあたる土井ヶ浜への道は、中国自動車道からは、美祢(みね)・小月(おづき)・下関の三インターがある。下関からは、国道191号を北上する堅実なルート。小月は高速をフルに利用すると最短距離になるが、県道経由で国道191号に合流する。美祢からは最短距離だが、国道439号の表示が気になる。
国道も三桁になるとすれ違いも難しい「酷道」もあり、しかも400号台になるとかなり絶望的だ。しかし、「美祢・下関間渋滞中」の電光表示板を見ると、迷いながらも美祢で下りてしまった。
とりあえず、道路地図で中間にあたる豊田町を頭に入れ、その町名表示の標識を頼りに向かう。その豊田と豊北と併記された標識も、豊田町を過ぎると「豊北」の文字だけが残った。
この時は読み方も分からず、どこにあるのかも分からないまま439号の表示だけをを頼りに、「とにかく海に出るまで。191号に突き当たるまで」と西に向かった(走り終わってみれば、439号は、地域の幹線道路らしく極普通の国道だった)。
191号に合流すると、「土井ヶ浜」と名の付いた海水浴場やキャンプ場の看板が幾つも現れ、遺跡が近いことが分かった。一時は開館時間内に間に合うだろうかと心配したが、結局は1時間で439号を走りきった。
大型の標識と濡れて黒く引き締まった新設の取り付け道路に導かれて、難なく資料館入り口に着いた。ここまで、建物を見るまで、「新しい史跡公園内に古びた資料館があるだけ」と大した期待がなかっただけに、真新しい「人類学ミュージアム」と名が付いた施設を見ると胸が弾んだ。
満杯の駐車場では、家族連れが、春の嵐をものともせず行き交う。所々水がたまっている歩道を雨風に悩まされながら、「4月30日竣工・5月1日オープン」と書かれたアーチをくぐった。芝は張りたてとあって、隙間の砂がまだ市松模様になっている。
「人類学」と「博物館」の関連づけに悩みながら入場したが、建物の規模の割に豪華な広いホールに圧倒された。開館二日目で、しかも連休中とあって、1台だけの入場券券売機の前には長い列が続き、馴れない購入者に男性職員が付きっきりだ。
「弥生へのいざない」と名前がついた全長6メートルの立体創作影絵の通路を歩くと、「弥生シアター」に導かれる。ここは早い話が映画館で、古代の舟をイメージした客席から「遥かなる弥生・土井ヶ浜幻想」の映画を鑑賞できる。
案内書によると、250インチのスクリーンに投影された画像は最新映像システムとある。その詳細は不明だが、大型のプロジェクターにありがちな走査線も目立たない。(最近の資料館・博物館にはビデオやプロジェクターが設置されているが、その多くは解像力が低くノイズもあり見るに耐えない)
内容は、前半に発掘当時のフィルムや影絵を組み込み、後半を、巫女と仮想した「鵜を抱く女(後述)」をメインに当時の扮装をした人々を登場させ、古代土井ヶ浜の生活を実写として再現している。観月ありさに似た巫女も好感が持て、構成もなかなかよい。
展示室は、発掘された貝の装身具・土器等が置かれているのは当然だが、世界の原人を始め、日本人のルーツとして縄文人と弥生人の違いを骨格から追っている。写真・ビデオや頭蓋骨のレプリカを体系的に分かりやすく展示しているのも特徴的だ。
これらが、人類学ミュージアムを唱っている由縁なのだろう。パソコンの質問に答えると、自分の祖先が弥生か縄文か分かるコーナーも子供達には人気があった。
最近各地で多くなった体験コーナーは、ここでは土器の文様付けといっても縄目ではなく、粘土に貝の断面や表面の凹凸を使う弥生式だ。また、土器の輪郭を印刷した紙に、ぬり絵感覚で弥生の文様をデザインできる一画もある。いつも縄文を見慣れている自分には新鮮だった。
レプリカといっても、本物のゴホウフラ貝を使った貝輪を自分の手にはめることができるコーナーがある。しかし、盗難防止に付いている鎖が何か奴隷をイメージしてしまう。
公園内では弥生の竪穴住居が復元されている。周囲は稲作の始まりということで田をイメージした池があり、大規模な休憩所もあった。
写真で見覚えがあるドーム状の資料館があり、入口の陶板に書かれた説明文は、中国語・ハングル・英語だった。
ドームへ向かう通路の両側にはパネル写真が展示されている。「縄文人と弥生人の合葬」「父と子」「足首を意図的に切断された二十才代の女性と八ヶ月の胎児」「英雄」と、何れも当時の葬制が興味深い。
お墓の見学というと、観光の分野では全くのマイナーな部類に入るが、ここでは「縄文人と弥生人の遭遇」の一端が想像できるスケールが大きな遺跡だ。
かつて、と言っても数日前まで機能していたらしい受け付けはその使命を終えていた。覗いた室内はガランとしていて空の倉庫同様だった。
ドーム入り口の床からは、砂丘を真上から見下ろせる。丁度グラスボートの透明な床から魚が泳ぐ海底をのぞくような感じだが、ここではラクダが歩いている姿はない。
「第1号石棺」は、説明にあるように石を組み合わせた棺桶、即ち組合式石棺の全景が見える仕組みだ。当然だがそこには動かぬ先住民がいるわけで、半分砂に埋もれた骨格だけの人間が口を開けている。
「拒絶反応が起こらないように、ここで骸骨に少し順応させてから一気に見せようという親心あふれる設計」というわけではないと思うが、とにかくその関門を通過すると、砂上のあちこちに人骨が見えるドーム下部の全景が露(あらわ)になる。
緩やかに傾斜のついた砂丘を、天井からスポットライトが照らしている。とにかく、ドームに覆われて閉鎖された空間のあちこちで人骨が横たわる砂丘の墓は異様だ。
ドームの壁面に沿って、砂丘から浮いた状態で見学路が円形に作られている。その通路は薄暗い。突き当たりから始まる橋状の回廊は、下が見えるように中央部が透明になっている。足元の照明が暗く下(砂丘)が明るいため、床が抜けているようで心許ない。恐る恐る足を乗せ、アクリル板の存在を確かめてから渡ることになる。
「英雄」は、骨に鏃(やじり※矢の先)が残されていたことから、模造の黒い矢が何本も刺さっている状態で横たわっている。
胸に鵜(う)を抱いた状態で発掘された「鵜を抱く女」を、資料館では特別な人物・卑弥呼のような巫女ではないかと想定していた。確かに、鵜のような異質の副葬品を見ると、一気に当時の昔へと飛んでしまう。
単なるペットならその旅はたちまち現世へ戻ってしまうが、世界各地で鳥が黄泉と現世の橋渡しをすると考えられていたから、しばしその前で勝手な想像をふくらませた。改めて顔だった骨を見つめてみたが、遠く大陸へ向けた虚ろな視線からは、生前の姿形は浮かばなかった。次の、集骨された墓には頭蓋骨だけが集められていた。
骨相が異なる、即ち、縄文人と弥生人の合葬は何を意味するのだろうか。性別は説明になかったが夫婦なのだろうか。北海道で発掘されたイモ貝で作られた貝輪は沖縄以南でしか棲息しないことから、古くから南北(縄文人と弥生人)の交易があったのは間違いなく、通訳として活躍したのではないかとの説明も面白い。
一部だが砂丘上に作られた通路があり、砂上の一角に方位を示すコンパスが置いてある。「顔(頭)が皆大陸の方に向いている」との説明には興味を強く引かれた。渡来直後で「望郷の念止み難く、死んで故郷に帰る」なのか、この地に土着して長い年月が経ち本来の意味が忘れられても習慣として残ったのか、縄文一色の八ヶ岳山麓から訪れた者にとって、違う世界を見ているようだ。
出口には「浄めの塩」自販機が設置されていた、ということはなく、その必要性は全くない。展示されている人骨は全てレプリカだからだ。しかし、子どもの中には、「気色わるい」と西日本風の言葉が聞かれるほど精巧に作られている。
福岡の「金隈遺跡資料館」も、丘陵に作られた土壙・石棺・甕棺が密集した墓の発掘現場をそのまま覆った建物だった。そこでは「一体だけ本物の人骨が置かれている」と説明していたが、どのような基準で選ばれたのか分からない。「展示品になって(死後も)目立ちたい人いませんか」と各人に聞いても答えてはくれないだろうし…(手を挙げたら怖いね)。
総数三百体にも及ぶとあるこの弥生の墓は、大陸や半島をも含む非常にスケールの大きな遺跡だった。同じ山口の「萩・秋芳洞の旅」より、(私の趣向を押しつけるわけではないが)「土井ヶ浜・人類学の旅」を勧めたい。
平成5年5月