私の本棚に、学生社刊〔日本の神社〕シリーズの一書『諏訪大社』があります。著者は、元諏訪大社宮司の三輪磐根さんです。
そのカバーにある写真は諏訪大社上社の「本宮一之御柱」ですが、何と、「本一」と彫られています。発行が昭和53年ですから、49年に建てられた御柱でしょうか。私の“御柱人生”においては、文字が彫られたものなど見たことがないので、現在は禁止されているのでしょう。
左は、それを等倍にしたものです。雑というか、荒い“書体”から、斧(よき)で刻んだものとわかります。これは、私の美学のみならず、誰もが「これはない」と声を挙げるでしょう。
御柱の曳き建ては氏子の奉仕・負担で行われますから、諏訪大社の意向が届き難いのも事実です。大社側も「まさかこんなことをするとは」と想定外だった(油断した)と思われますが、この面が御柱の正面なので、6年間このままにするしかなかったのでしょう。
ところが、昭和62年刊行の『茅野市史 中巻』にも、御柱の中程に彫られた「本一」を見つけました。61年に建てられた御柱と思われますから、少なくとも、この間の3回は「本一」と刻まれたことが想像できます。諏訪大社は異を唱えなかったことになりますから、そういう時代もあっということでしょう。私と言えば「御柱祭って何」という昭和5、60年代ですから、当然この「本一」御柱は見ていません。
信州・市民新聞グループ発行の『おんばしら 諏訪大社御柱祭のすべて』に、〔刻字は禁物〕があります。その一部を転載しました。
前出の「本一」と同年ですから、上社の御柱を見た下社の氏子(斧衆)が「ウチでも」と真似をしたことが想像できます。資料不足で何とも言えませんが、他に例を見ないので、この年以降は禁止されたのでしょう。
ところが、その後、「秋一」と刻まれた御柱の古写真を何回か目にしました。上社・下社とも、そんな“こと”をしなくても、誰が見ても「本一・秋一」とわかるのに「なぜそんなことを」というか疑問が付きまといます。
写真は、下諏訪町立図書館『下諏訪町デジタルアルバム』からダウンロードしたものです。「昭和37年諏訪大社の御柱祭で建御柱の一風景。御柱の上の方に人の姿が見える。どの柱など詳細は不明」とありますが、下部に「春一」が刻まれています。