御柱見聞録 /

殿様桟敷跡

 本宮南鳥居の前から茅野市方面に向かってすぐ。前からしか車が来ないという疑問も一方通行とわかれば何でもない道脇の石垣上に、「神宮寺大坊と殿様桟敷(さじき)跡」の案内板があります。

殿様桟敷跡 '02.8.8 案内板も近々「跡」になりそうに錆びていますが、その文字で表された場所は、空地とネギ畑という構成になっていました。
 後半の「御柱桟敷跡」の説明を読むと、「御柱祭りのときは最も見晴らしのよい大坊の前の石垣の上に藩主の畳敷き桟敷を設け、向かい側の民家は見苦しくないようにサワラ垣で隠された」とありました。
 後に、図書館で見つけた本には「高島(諏訪)・高遠両藩の藩主や家老職専用」とあり、図版「殿様桟敷の図」には「さわら垣弐拾四間」と書かれていました。

 諏訪文化社『諏訪大社の御柱祭』に面白い記述がありました。〔四、殿様桟敷が掛った〕の項に「わざと左メドテコを桟敷に引っかけ、その度に殿様も御家老も逃げた」とあり、「ある年に瀬沢村(現富士見町瀬沢)が上手に操作して引っかけずに通ったところ、逃げ腰の殿様より、以後瀬沢村へ左メドを差し許す、の声が掛かりこの時よりメドテコの片方を独占するようになった」というものです。
 ところが、同書の〔メドテコを付けた経緯と功罪〕には、「現存する幾本かの『御柱絵巻』を見ても、江戸時代から明治初期にかけてのものにはメドテコが見えない」「こう見てくると、御柱にメドテコを付けるようになったのは多分、明治も中期以降のことではなかったかと思われる」とあります。古老の話とも一致するので、メドテコを御柱に付けるようになったのはごく最近ということになります。
 『諏訪大社の御柱祭』は共同執筆なので、著者によって違いが出るのでしょう。

現代の殿様桟敷跡

今の桟敷
桟敷跡に設置された平成の桟敷

 殿様はいませんが、現在でもこの参道では、空地という空地には鉄パイプの仮設桟敷が作られます。もちろん有料ですが、民家や店舗の二階桟敷に比べはるかに格安で人気があります。曳子には桟敷は関係ありませんから、もっぱら観光客や地元民の親類縁者が利用すると思われます。

平成22年は、殿様桟敷で旧高島藩主が見物

 平成22年5月4日の『長野日報』の朝刊に、「諏訪家十五代の忠則さん見物 東参道」の見出しで、以下の記事(抜粋)が載っていました。

 諏訪市神宮寺の諏訪大社東参道に、旧藩主諏訪家御桟敷が設けられ、東京都在住で諏訪家15代の諏訪忠則さんが立ち寄った。かつて高島藩主が上社御柱祭の里曳きを見物したとされる御柱桟敷跡に、同市中金子在住で中学校教頭の岩波さんが桟敷を作り、招待した。
 岩波さんは桟敷跡を畑にして活用している。「今までいろんな事情でできなかったが、桟敷にしてお招きしてみた。ゆかりのあるこの場所が本来の役目を果たせた」と満足そう。本宮一の曳行を見物した諏訪さんは「ずっと前から継承されているという点でも世界に誇れる祭りだと思う」と感想を話していた。