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会津の守屋神社をゆく

序章、と言うより予告編…

 長野県伊那市高遠町に、(物部)守屋神社が鎮座しています。その情報をネットから引き出す際に、福島県の会津にも守屋神社があることを知りました。初代会津藩主「保科正之」が高遠藩主であった関係から、守屋神社と諏訪神社を会津へ勧請したと考えました。

守屋神社
space守屋神社(原)space守屋神社(岩瀬)space守屋神社(経沢)

 その後の執拗なまでの検索から、守屋神社が猪苗代湖の周囲に三社あり、何れも「義経伝説」と同じような物部守屋の話を持つことに興味を覚えました。

 鎮座地を調べると、会津の守屋神社は猪苗代湖の南西部に立地しています。高遠の物部守屋神社も諏訪湖の南方ですから、何かの共通性がありそうです。

 ネットに頼るのは限界があります。そこで、司馬遼太郎さんには及ぶべきもありませんが、「会津の守屋神社をゆく」という題目で参拝することにしました。どうせ行くなら桜の時期と考えましたが…。

 会津若松城(鶴ヶ城)の桜がまだ蕾と知って、一週間延期しました。満を持して、少なくとも三分咲きと現地へ乗り込みましたが、“平地”はともかく、私が目的とする神社には残雪があり、さらに強風と雨に祟られた寒い一日になりました。

守屋神社・諏訪神社と猪苗代湖


 今回巡拝した守屋神社と諏訪神社です。近日中に、順不同で巡拝記を連載します。

『新編会津風土記』

 名前だけは知っていましたが、内容はサッパリです。今後に登場するので、ネット辞書から転載して紹介しました。

【新編会津風土記】 会津藩の地誌。120巻。会津藩主保科正之が寛文年間(1661-1672)に山崎闇斎(あんさい)に命じて編修させた『会津風土記』を、子孫の藩主松平容衆 (かたひろ)が享和3年(1803)に増補改訂させたもの。
『コトバンク』から抜粋

守屋神社の伝承

 守屋神社についての代表的な伝承として、小島一男著『会津の歴史伝説』から、〔聖徳太子と守屋様〕を転載しました。

 上経沢(かみへざわ)には鎮守様の守屋神社が祀られており、下経沢には東田面(たづら)村の経沢口に古くから大森山太子院照光寺があった。
 照光寺は院号が示すように、聖徳太子を本尊とした太子守宗の寺で、何百年もの間、経沢村の菩提寺であった。十世良月和尚のとき、蒲生氏郷(がもううじさと)公の指示によって浄土宗に転宗。さらに保科正之(ほしなまさゆき)公のときに若松高厳寺の末寺となって東田面の菩提寺となった。
 聖徳太子の御尊像はこのとき以来、ひと山越えた下経沢石田の太子堂に移られることになり、それからというものは鎮守様の祭礼と、太子様の祭礼が何回も催されるようになり、経沢村はお祭りの村とまで言われるようになった。
 ところが、これがきっかけとなり、なぜか上村と下村とが反目するようになり、刃物まで持ち出す争いにまで及ぶこともしばしばあった。
 ある年の夏、修験(しゅげん)の六部が村を訪れ、「この村には妖気が漂い、殺気を含んでいる」と告げた。古老たちは心配をし、祈祷をして貰ったところ、「宗敵、政敵の間柄にある守屋様と、太子様がこの村を護(まも)っておられるため、ことごとく意見が合わないのでもめごとが起きる」と、神霊からのお告げがあった。六部も、「太子様を東田面の本寺にお移しになり、祭礼も今後は東田面村で行うようにしては…」と告げた。そこで村人らはこの六部の意見を受け入れ、西村総出で太子様をお移しになり、盛大な祭典を行った。
 照光寺はこのときすでに浄土宗になっていたが、村民らは聖徳太子をお移しした記念として“太子院照光寺”と元の院号の銘を刻み、大梵鐘(ぼんしょう)を鋳造して奉納した。名工の鋳たその梵鐘の音は、その響き美しく湖上を渡り、遠くは磐梯山から天鏡湖(てんきょうこ)周辺の村々にもきこえ、向い浦でもこの鐘のおかげで、明け六ツ刻を知ることができたという。だがこの名鐘は、惜しいことに享保年間(1716-1736)の火災で失われ、今の梵鐘は二代目である。
 上経沢にある守屋神社の祭神は、守屋大連命(もりやおおむらじのみこと)である。守屋様は物部尾輿(もののべのおこし)の子で、五七二年以降大連として朝政に参与、崇仏派の大臣蘇我馬子(おおおみそがのうまこ)と対立し、用明天皇の没後穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかったが、皇子は馬子に殺され、守屋様は馬子・厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみおうじ:聖徳太子)らの兵に攻められ敗死した。このとき守屋様の娘と臣下の者が難をのがれ、流浪(るろう)の末にたどりついたところが、陸奥の山深いこの経沢の里だったのである。
 姫は大連(おおむらじ)夫婦の遺骨を経沢村の南、夏狼ヶ嶽(かろうがたけ)中腹に手厚く葬ると御陵を造営し、その麓で一生をすごすことにした。こうして祖宗の神霊を祀ることによって、姫の心にもようやく安らぎが戻ってきたようであった。
 それから何年かが経った。舒明天皇が没すると、蘇我入鹿(そがのいるか)は馬子の娘を生んだ古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇位につけようとして、有力な対立候補であった聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼそうとした。王は追手の手をのがれ、物部の姫を頼ってはるばると会津へと落ちてきた。ところが姫は、これをてっきり敵の手がのびてきたものと勘違いし、もはやこれまでと、祖霊を祀った陵よりも巽(南東)の方へ三町ほど離れた六間四方ばかりの小さな草原で自害して果てた。
 王はこれを聞かれると、心さいなまれ身の置きどころもないほどであった。哀しい姫の霊を弔(とむら)うためにこの地にとどまる決心をなされ、下経沢の石田の山に太子堂を建立し、御父太子を祀るとともに、物部の姫主従の廟所参りに明け暮れるようになった。
 またこれと前後して、物部氏生き残りの臣永山氏もまた陵の前に一社を造営したが、これが守屋神社である。白鳳元年のことであったという。御陵は神社の裏手の高壇に二ヶ所以上現存しており、注連縄が張りめぐらされている。
 なお聖徳太子の王子御尊像は、後世に太子堂から上馬渡(かみまわたり)村の虚空蔵堂にお移りになった。

 神仏の代理戦争まで織り込んであり、言い伝えとしてはよく作られています。スケールも大きく、つい引き釣り込まれてしまいました。