諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

経沢守屋神社 福島県会津若松市湊町経沢

守屋神社の伝承

 『新編会津風土記』に載る〔經澤(へざわ)村〕から、[守屋神社]を平仮名に直して転載しました。

守屋神社 境内十六間四方免除地 村より二町余未(ひつじ※南南西微西)の方山腰にあり、鎮座の年代詳ならず、鳥居・幣殿・拝殿あり、原村丸山主計が司(つかさ)なり

経沢守屋神社
経沢守屋神社(本殿後方の瑞籬が御陵)

 原村の丸山主計(かずえ)が社務を兼任したと解しましたが、肝心の由緒が書いてありません。
 これでは「会津に、なぜ守屋神社なのか」がわからないので、小島一男著『会津の歴史伝説』から、〔聖徳太子と守屋様〕を転載しました。

 上経沢(かみへざわ)には鎮守様の守屋神社が祀られており、下経沢には東田面(たづら)村の経沢口に古くから大森山太子院照光寺があった。
 照光寺は院号が示すように、聖徳太子を本尊とした太子守宗の寺で、何百年もの間、経沢村の菩提寺であった。十世良月和尚のとき、蒲生氏郷(がもううじさと)公の指示によって浄土宗に転宗。さらに保科正之(ほしなまさゆき)公のときに若松高厳寺の末寺となって東田面の菩提寺となった。
 聖徳太子の御尊像はこのとき以来、ひと山越えた下経沢石田の太子堂に移られることになり、それからというものは鎮守様の祭礼と、太子様の祭礼が何回も催されるようになり、経沢村はお祭りの村とまで言われるようになった。
 ところが、これがきっかけとなり、なぜか上村と下村とが反目するようになり、刃物まで持ち出す争いにまで及ぶこともしばしばあった。
 ある年の夏、修験(しゅげん)の六部が村を訪れ、「この村には妖気が漂い、殺気を含んでいる」と告げた。古老たちは心配をし、祈祷をして貰ったところ、「宗敵、政敵の間柄にある守屋様と、太子様がこの村を護(まも)っておられるため、ことごとく意見が合わないのでもめごとが起きる」と、神霊からのお告げがあった。六部も、「太子様を東田面の本寺にお移しになり、祭礼も今後は東田面村で行うようにしては…」と告げた。そこで村人らはこの六部の意見を受け入れ、西村総出で太子様をお移しになり、盛大な祭典を行った。
 照光寺はこのときすでに浄土宗になっていたが、村民らは聖徳太子をお移しした記念として“太子院照光寺”と元の院号の銘を刻み、大梵鐘(ぼんしょう)を鋳造して奉納した。名工の鋳たその梵鐘の音は、その響き美しく湖上を渡り、遠くは磐梯山から天鏡湖(てんきょうこ)周辺の村々にもきこえ、向い浦でもこの鐘のおかげで、明け六ツ刻を知ることができたという。だがこの名鐘は、惜しいことに享保年間(1716-1736)の火災で失われ、今の梵鐘は二代目である。
 上経沢にある守屋神社の祭神は、守屋大連命(もりやおおむらじのみこと)である。守屋様は物部尾輿(もののべのおこし)の子で、五七二年以降大連として朝政に参与、崇仏派の大臣蘇我馬子(おおおみそがのうまこ)と対立し、用明天皇の没後穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとはかったが、皇子は馬子に殺され、守屋様は馬子・厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみおうじ:聖徳太子)らの兵に攻められ敗死した。このとき守屋様の娘と臣下の者が難をのがれ、流浪(るろう)の末にたどりついたところが、陸奥の山深いこの経沢の里だったのである。
 姫は大連(おおむらじ)夫婦の遺骨を経沢村の南、夏狼ヶ嶽(かろうがたけ)中腹に手厚く葬ると御陵を造営し、その麓で一生をすごすことにした。こうして祖宗の神霊を祀ることによって、姫の心にもようやく安らぎが戻ってきたようであった。
 それから何年かが経った。舒明天皇が没すると、蘇我入鹿(そがのいるか)は馬子の娘を生んだ古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇位につけようとして、有力な対立候補であった聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼそうとした。王は追手の手をのがれ、物部の姫を頼ってはるばると会津へと落ちてきた。ところが姫は、これをてっきり敵の手がのびてきたものと勘違いし、もはやこれまでと、祖霊を祀った陵よりも巽(南東)の方へ三町ほど離れた六間四方ばかりの小さな草原で自害して果てた。
 王はこれを聞かれると、心さいなまれ身の置きどころもないほどであった。哀しい姫の霊を弔(とむら)うためにこの地にとどまる決心をなされ、下経沢の石田の山に太子堂を建立し、御父太子を祀るとともに、物部の姫主従の廟所参りに明け暮れるようになった。
 またこれと前後して、物部氏生き残りの臣永山氏もまた陵の前に一社を造営したが、これが守屋神社である。白鳳元年のことであったという。御陵は神社の裏手の高壇に二ヶ所以上現存しており、注連縄が張りめぐらされている。
 なお聖徳太子の王子御尊像は、後世に太子堂から上馬渡(かみまわたり)村の虚空蔵堂にお移りになった。

 神仏の代理戦争まで織り込んであり、言い伝えとしてはよく作られています。これで、私が会津まで出掛けた理由が理解できたかと思います。

経沢守屋神社 29.4.19

 猪苗代湖畔にある諏訪神社を参拝した後、カーナビの指示通りに湖岸から内陸部へ進みます。集落から外れ、その先は袋小路という場所で、右手の山裾に鳥居が確認できました。

守屋神社(経沢)

 湖岸には雪が残っていましたから、山一つ違うこの地も「未だ萌え出でず」と納得できます。しかし、対になった社号標に「守屋神社」が読めても、強風に雨粒が混じる様相では、その先に進む気力が萎えます。

経沢守屋神社 先行した車から降りた一団が、鳥居横の畑で農作業を始めました。高齢者がいるのを見ては、私も気合いを入れるしかありません。
 挨拶代わりに、主(あるじ)と思われる男性に「この辺りに、守屋姓の人はいますか」と問いましたが、あっさりと否定されてしまいました。額束(がくつか)に「守屋」とあるのを仰いでから鳥居をくぐります。

経沢「守屋神社」 スギ葉で覆われた石段を登った壇上に、拝殿がありました。灯籠は「守屋社」ですが、拝殿の掲額は横書きの「守屋神社」でした。
 その右に大木がそびえています。会津若松市が設置した小パネル『自然景観指定緑地』に「指定樹木 スギ1本」とあるので、ネットでよく引っ掛かる「経沢守屋神社の大スギ」とわかりました。

守屋神社拝殿 本殿は軽量鋼板で覆われているので、形状がわかりません。拝殿に戻って格子の間から覗くと、こちらも御簾が下がっていて下部しか拝観できません。左右に随身像があり、壁にも多くの額があって気になりますが、暗くてその詳細はわかりません。

守屋神社「陵」 本殿の後方(写真では手前)にある囲いは、事前の情報でわかっていた「物部守屋の娘の墓」とされる陵(みささぎ)です。
 その真後ろに立つと、本殿に対して中心線が少しずれているのが気になります。その脇に何かが並んでいたとも思えますが、長い年月でそうなったと考えたほうが無難でしょう。

 経沢集落の人にとっては、私は、闖入者以外の何者でもありません。由緒などを尋ねて警戒心を和らげることもできますが、寒風を押しての農作業中とあっては、それも憚(はばか)られます。必要でない写真を何枚か撮りながら、さりげなく立ち去りました。

守屋神社について(少々…)


白河街道と猪苗代湖に挟まれた守屋神社

 守屋神社がある上経沢は三方を山に囲まれており、落人伝説があってもおかしくありません。しかし、よくある平家ではなく、物部氏です。伝承としても余りにも古すぎて、私には突拍子もない話となってしまいます。

 ここで、長野県諏訪(現諏訪大社上社)の話になります。

 こうして見ると、神長は神氏に従って前宮に来、すでに祭祀の形の整っていた洩矢の祭祀のやり方を学ぶため、千鹿頭神と数年を過ごしおよそのことが分かった段階で松本へ追いやったと思われる。千鹿頭神のいた宇良古は、当時は諏訪の北の境で、彼は更に奥州に追われたと伝えられる。
高部歴史編纂委員会『高部の文化財』〔神長は前宮にいた〕

 この説によれば、諏訪から追放された千鹿頭神が諏訪湖にも似た猪苗代湖岸に住み着き、始祖の洩矢神を祀ったのが「洩矢神社」とすることができます。社名の相違は、「長い年月で物部守屋と習合して守屋神社となった」と説明がつきます。私はこの“話”※ が大好きなので強引に結びつけてみましたが、むしろ、こちらの方に可能性があるでしょうか。

※ http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/tikatousin.htm

 会津若松市湊公民館『公民館だよりNo.51号』に載る〔守屋神社〕を抜粋して転載しました。

※ www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2014052600031/files/20140701.pdf
 守屋の死去後、娘の那加世(なかよ)と家臣は、東国へ逃れたとされています。経沢の伝承では、経沢に来た時、娘が村西の尾根に守屋の墓を造ったとされています。さらに、物部一族の永山氏が白鳳元年(672)に社殿を建てたとされています。ただし、守屋神社と守屋の墓とするものは、全国各地にあることから、真相は不明です。
 守屋神社の多くは、製鉄のタタラと関係が深いもので、経沢の守屋神社も周辺から鉄のカスを拾うことができることから、古代に製鉄の神として祀ったものと思われます。なお、原の守屋神社は、経沢の分社です。