立沢の集落から千ヶ沢橋を渡った先で車を降りました。森の“底”を歩く自分を想像していましたが、未だに空は広く、八ヶ岳の広大な裾野に畑や花卉栽培のハウスが見えています。ようやく、林の中にポツンと見える案内板を見つけました。沢だと思ったのは諏訪では「汐(せぎ)」と呼ぶ用水路で、それに沿う小道を伝ってその前に立ちました。
「古村」の“跡”というのも哀しい史跡ですが、同じ裾野に住む者とあっては一度は見ておきたい諏訪の歴史でした。
豊富な水量ですが、人工川なのでせせらぎが柔らかく耳に届きます。
それを聞きながら先を急ぐと、神社入口の証しである幟枠が現れました。その間を通り、崩れかけた石段を登り切ると、ちょっとした平地の上に立ちました。
山際に、目測1mの大石と脇侍のような石祠が並んでいます。すでにネットで公開されている写真に馴染んでいたので、初めて来たような気がしません。
中央の大石が大先神社の磐座と見て近づくと、表面の一部が「剣」の形(□)に加工されています。しかし、事前に調べた資料では「山王崎社・山尾崎社・山大前社・大崎社などの別称がある」と書き、大先神社は稲荷社としています。
稲荷社に「剣」は似合いませんから、この磐座が「山の神・大山祇命」に見えてしまいます。そうなると、左右の祠のいずれかが大先神社ということになりますが、ノミの整形痕しかありませんから判定はできません。
その道標に誘われて、「しばらくの間」と限定した上で下ってみました。林間に連なっている石を見て「これは!?」と踏み込んでみると、方形の石囲いが隣接しています。明らかに人の手による配列です。
「斜面に平地を作り、下方の三方に石を積んだ。長い年月で土砂が全て流れ去り石囲いだけが残った」と考えました。しかし、人の営みがあったことを推定できる“遺留品”を求めても、茶碗の欠片(かけら)さえもありませんでした。
方向感覚を失ってしまいました。稗之底村跡自然探索路に戻れません。“せっかく迷ったので”「自然の中を探索」するのもよいだろうと、次々に現れる気になる石を確かめることにしました。そのリレーの果てに、…見つけました。クリンソウの群落です。その先には、まだ白い袍(ほう)が残っているミズバショウです。「なぜ、こんな所に」と思いましたが、明るく開けた先の道に出ると田圃があり人家が見えました。生え方に規則性があるようなので、湧水を活かして植えたのでしょう。
享保18年(1733)編纂『諏訪藩主手元絵図』から、〔乙事村〕の“北の隅”を切り取ったものを転載しました。
この絵図では「稗之底」と書かれ、「右三ヶ所祠石宮一尺六寸」と書き込みがある水神が並んでいます。資料を付き合わせれば、左から「西出口・中出口・東出口」の水神でしょうか。
ここには人家が描かれていないので、この時代での稗之底村は地名として扱われていることになります。むしろ、水利(権)を公にする目的で「水神・稗之底」を書き込んだのでしょう。
「西出口」とある湧水口で、上部の二箇所から湧いた水が「Y」の字に合流して手前に流れています。
写真では見えませんが、右の湧水口を見守るように石祠があり、「享保十七年(1732)・正月」と彫られていました。
左側の湧水口にも石祠が二つあります。
左は高さ45cmで、「六月十七日・植松氏」と彫られています。稗之底関係の古文書に「植松」さんがよく出てきますから、その家系の人が奉献したのでしょうか。
右は高さ約85cmという積石状の無骨な形ですが、最下部に拳大の穴(切り込み)があることから祠と見ました。それでも銘がある部分だけは平滑に仕上げてあり、「享和元(1801)二月吉日」と読めます。ところが、干支の「辛・酉」の下に印章のようなものが彫られていますが、何を表しているのかがわかりません。
後日談になりますが、これについては「年」の異体字とわかり、享和元年と繋がりました。私にとっては、石造物に刻まれた「年の変わり字」を初めて確認できたことになり、チョッとした感動を覚えました。
大先神社を左に見てなおも進むと、「中出口東」とある湧水口があります。西出口の水量を見た後ですから、かなり少ないと感じました。
斜面に石祠がありますが、奉納者や年号等の彫りはありません。
中出口東湧水口の直ぐ向こうにあるのが、「中出口西」とある湧水口です。「もうすぐ涸れそう」という状態ですが、今の時期だけかもしれません。
こちらの祠も無銘でした。
稗之底(大先神社)からは、かなり離れた場所にありました。ネット上では「洞(うろ)が開いた立木」の写真が多く公開されているので、すでに馴染みのものとなっていました。
右側は塞がれていますが、左右にある凹みから一定量の水が流れる仕組みになっています。
ここは「林道の脇にあるので交通の便がいい」というのは現在の話で、かつては、刈り払われただけの山道を通って点検や補修を行ったのでしょう。
稗之底村から引き揚げるときに移したと伝わる石幢ですが、どこにあるのかわかりません。行きがけに富士見町図書館に寄って「公民館隣の法隆寺観音堂前」と情報を得ました。
「観音堂のみが残っている」との記述通り、公民館右隣の高台にその御堂があります。石幢の前に立つと、「醫王山」と読める観音堂から御詠歌が流れ伝わってきました。
「道路拡張時に破損」との記述通り、龕(がん)が新しくなっています。銘は摩滅が進み確認できませんが、「信(州)」の一文字だけは読めました。
馬と大八車しか浮かびませんが、乙事まで運ぶ道中の想いはどうだったのでしょう。すべてに区切りを付けての移住ですから、明かりは見えていたのかも知れません。
富士見町図書館で「御射山社」関連の資料を探していたら、『高原の自然と文化-10-』に「穂屋祭今昔(御射山祭)」と並んで「大先様祭り」があるのを見つけました。9月1日の例祭日は、抜粋ですが「世話人四名とお茶番六名で境内の草刈りと清掃を行い、御幣や注連縄を新しく張り替えて、細々と祭事を続けています」とあります。
例祭日が先日とあって、真っ新(さら)な注連縄の写真を撮ろうと大先神社へ出かけました。道端ではツユクサなどまだ夏の花が巾を利かせています。その中にもミズヒキソウやツリフネソウの赤の群落があり、確実に秋は進行していました。
「稗之底古村跡」の案内板がある入口には、例祭が行われた証拠である新しい注連縄が揺れています。二ヶ月ぶりの境内ですが、一昨日の出来事を知っている目には、参道は草が刈られ石段は落ち葉が掃かれ壇上は掃き清めてあるのがわかりました。
大先様には注連縄が掛けられ、左右の祠と共にまだみずみずしさを保っている冬青(ソヨゴ)の幣帛が置かれています。その前に30円、右の祠には10円が供えられているのを見て、四人の奉仕だったことを想像してみました。。
「大先神社世話人の義務と申し送りを忠実に果たしているだけ」と思います。しかし、絶えてしまっても誰もクレームをつけないであろう「その一日」が、今でも続いていることに驚きました。
「稗之底村の文献」については、以下のリンクを御覧ください。