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稗之底古村址(稗之底村と大先神社) 長野県諏訪郡富士見町

稗之底村
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』

 享保18年(1733)に編纂された『諏訪藩主手元絵図』から、〔立沢村〕の一部を転載しました。左の茶線が村境ですが、その右側(乙事村)には、立沢村側の呼称と思われる「稗底畑平」を書いています。上部には「棒道(ぼうみち)」・左には「泉ノ沢(千ヶ沢)」を描き込んでありますから、“絵図”であっても稗之底の位置関係がよくわかります。


稗之底古村址 20.5.10

 立沢の集落から千ヶ沢橋を渡った先で車を降りました。森の“底”を歩く自分を想像していましたが、未だに空は広く、八ヶ岳の広大な裾野に畑や花卉栽培のハウスが見えています。ようやく、林の中にポツンと見える案内板を見つけました。沢だと思ったのは諏訪では「汐(せぎ)」と呼ぶ用水路で、それに沿う小道を伝ってその前に立ちました。

富士見町指定史跡 稗之底古村址(※抜粋)
 稗之底村は、境方十八ヶ村に数えられる古村であった。僅かな田畑を耕して生計を立てていたが、ついにこの地を捨てて去らざるを得なくなった。こんにち跡地は埋もれ、特定するのは困難であるが、大先神社・屋敷平・稗之底の地名を残している。

 「古村」の“跡”というのも哀しい史跡ですが、同じ裾野に住む者とあっては一度は見ておきたい諏訪の歴史でした。
稗之底村「大先神社」 豊富な水量ですが、人工川なのでせせらぎが柔らかく耳に届きます。汐の左側に神社の入口がありますが、目をやるだけで通り過ぎ、その先の地形を確認することにしました。
 「中出口」とある湧水口がありますが、出水量は少ないようです。上部に水神の石祠が二つありますが、奉納者や年号等の彫りはありません。戻って、改めて幟枠の間を通り、崩れかけた石段を上りました。

大先神社

稗之底村「大先神社」 ちょっとした平地があり、山際に、目測1mの大石と脇侍のような石祠が坐しています。すでにネットで公開されている写真で馴染んでいたので、初めて来たような気がしませんでした。
 情報で得た“十把一絡げの大先神社”では満足できないので、ここが大先神社である確証を磐座や祠に求めました。しかし、シンボルとも言える磐座には剣の形が彫られているだけで、石祠にはノミの整形痕しかありませんでした。

「稗之底村跡自然探索路」

稗之底村古村跡
樹下に連なる石 

 その道標に誘われて、「しばらくの間」と限定した上で下ってみました。林間に連なっている石を見て「これは!?」と踏み込んでみると、方形の石囲いが隣接しています。明らかに人の手による配列です。
 「斜面に平地を作り、下方の三方に石を積んだ。長い年月で土砂が全て流れ去り石囲いだけが残った」としましたが、人の営みがあったことを推定できる“遺留品”を求めても、茶碗の欠片(かけら)さえもありませんでした。

 方向感覚を失ってしまいました。稗之底村跡自然探索路に戻れません。“せっかく迷ったので”「自然の中を探索」するのもよいだろうと、次々に現れる気になる石を確かめることにしました。そのリレーの果てに、…見つけました。クリンソウの群落です。その先には、まだ白い袍(ほう)が残っているミズバショウです。「なぜ、こんな所に」と思いましたが、明るく開けた先の道に出ると田圃があり人家が見えました。生え方に規則性があるようなので、湧水を活かして植えたのでしょう。

西出口湧水口

 二週間後に、再び稗之底古村址へ行ってみました。緑が増えた分だけ気持ちが安らぎました。
西出口湧水口 「西出口」とある二つの湧水口です。誤解を受け易いので説明すると、上部の二箇所から湧いた水が「」の字に合流して手前に流れます。写真では見えませんが、右の湧水口を見守るように石祠があります。「享保十七年(1732)・正月」と彫られていました。
西出口の水神「稗之底村古村跡」 左側の湧水口にも石祠が二つありました。
 左は高さ45cmで、年号はありませんが「六月十七日・植松氏」と彫られています。稗之底関係の古文書に「植松」さんがよく出てきますから、その本人が奉献したのでしょうか。
 右の積石も、最下部に拳大の穴(切り込み)があることから、祠と見て差し支えないでしょう。高さが約85cmという無骨な形は、あり合わせの石をできるだけ手を掛けないようにして作った結果と考えられます。
享和元辛酉年 側面の銘がある部分だけは平らに仕上げてあり「享和元(1801)二月吉日」と彫られています。ところが、干支の「辛・酉」の下に印章のようなものが彫られていますが、何を表しているのかはわかりません。一番近いのは、水神に見られる「とぐろを巻いたヘビ」でしょうか。
 これについては、後日談になりますが「年」の筆字とわかり、享和元年と繋がりました。それにしても、石造物に刻まれた「年」の“筆記体”を初めて確認できたことになり、チョッとした感動を覚えました。

稗之底村の航空写真

稗之底村航空写真 自宅に戻ってから、目の前だけではなく空から見たらどうだろう、と探したのが、昭和53年撮影の旧国土地理院の「国土交通省・国土画像情報」です。モザイク(田畑)の傾きから、八ヶ岳裾野の等高線がわかります。
 約30年前の写真ですが、周辺を歩き回った限りでは現在とほとんど変わっていないようです。一つ気になるのが、大先神社の南西にある「裸地」です。現地と思われる場所は低い灌木と草に覆われており、周囲とは違うことだけが確認できただけでした。調査が行われた跡なのでしょうか。

文献に見る稗之底村

 諏訪郡富士見町『富士見町史 上巻 資料編』は、富士見町に関係する古文書を収録した資料集です。ここから「稗之底」の文字が見られる古文書を幾つか拾ってみました。

『稗之底村家数人別書上』

 稗之底古村址にある案内板でも紹介している宝暦13年(1763)の古文書を、読み仮名を加えて転載しました。

差上申一札之事

一、高三拾六石三升 諏訪因幡守領分信州諏訪郡 稗之底村
  此反別五町五反三畝弐拾三歩 石盛下山六斗
右稗之底村之儀、八ヶ嶽下ニ而(にて)地所至(いたってさむく)作毛生立兼(さくげおいたちかね)、其上野山刈尽(つくし)渡世難儀仕(つかまつり)、正保年中立沢新田村(へ)引越、其後明暦年中以(をもって)前之(の)村方罷帰(まかりかえり)家作仕候得共(つかまつりそうらえども)、前書之通(り)渡世難仕(つかまつりがたく)(つき)、乙事村引越住居仕中馬稼(ぎ)等仕候、依之(これによって)家数人別(にんべつ)之儀(は)乙事村(こめ)相認(したため)差上申所、少(すこしも)相違無御座候(ござなくそうろう)、以上

 宝暦十三癸未四月十三日
名 主 庄右衛門 
組 頭  甚兵衛 
百姓代 兵左衛門 
米倉幸内様
高橋八十八様

 これについて、立沢文化財保護委員会『立沢村の歴史』の〔稗之底廃村と立沢〕がわかりやすいので転載しました。

 稗の底村は新田ではなく、慶長以前に開かれた古村であった。ところが、この地は、土地高く気温が低きに過ぎ、霧が多く作物の実りが悪いこと、又、猪、鹿、狼などが作物をあらし、人畜に危害を及ぼして生活しにくくなったこと、などの理由により、正保年中(一六四五年頃)、村の人は全員、立沢へ移って来た。そして立沢で十年間ほど暮し、明暦年中(一六五五年頃)、一部の人は旧村に引き上げて家を建て耕作を始めたが、寛文年中(一六六五年頃)に全く乙事村へ退き廃村となったのである。

石盛

 赤マークした【石盛下山六斗】ですが、始めは「山の下に石を盛って(石垣を作り)田を広くし、米6斗を増収した」と独りでうなずいていました。その後、一反当たりの米の収量が「石盛(こくもり)」と知り、また深入りをする羽目に…。
 「石盛」は年貢の基準となるランクで、上田(以下「田」は略)・中・下・下下等に分けられ、各「2落ち」になる、とあります。『富士見村史』に、『稗之底村家数人別書上』に近い宝暦2年の御射山神戸村の石盛が載っており、「下下田」が「11(1.1石)」とあります。畑にもランクがあり、最下位の「下山畑」が「6(斗)」でした。
 30進法が混在する、稗之底村「五町五反三畝弐拾三歩」を換算すると、(ほとんど変わらなかった)「55.377反」になります。石高をこれで割ると、一反当たり「6斗5升」になります。一つ上の「下畑」が「7(斗)」ですから、付加価値の低い畑に換算しても最下位の「石盛下山六斗」になります。改めて計算してみて、「作毛生立兼」が実感として理解できました。

『稗之底村再興一件につき乙事村口上書』 文政4年(1821)

一、稗之底村之儀、八ヶ嶽之麓(して)地所至寒く而、作毛実入兼(いりかね)、其上当村之水神山尾崎明神之森より(より)怪異成事共有之(これあり)、住居難成、

 「水神の森に怪しいことが起こった」と興味を引く文面です。

『稗之底村再興一件につき町にて書留帳』 文政4年(1821)

一、水神森より異へん(変)成儀と申儀は何事に候やと御尋有之(これあり)、古人の申伝へ、白きにわ鳥出、屋根へ登おどし(脅)なといたし候よし、

 藩の役人から、「(口上書にある)“怪異”とは何か」と問われ、「言い伝えでは、白鶏が屋根に登って住民を脅した」と回答しています。今で言う“白色レグホン”に相当しますが、当時としては恐れるに足りたニワトリだったのでしょう。

『信濃国高嶋領郷村高辻帳』

 富士見町『富士見町史 上巻』に載っている宝永8年(1711)の『高辻帳』では、乙事村が140石5斗で、廃村になったはずの稗之底村が36石3升とあります。さらに、乙事村は時代によって石高の変動がありますが、稗之底村は常に36石で固定しています。
 読み進めると、「(高辻帳に)一旦書き上げた村そのものを抹消するようなことは難しいことだったのであろう」としています。そのため、廃村になっても帳簿上では存在し続け、実体を伴わないために同じ石高で記されたと解説しています。

稗之底村の石幢(せきどう)

六地蔵石幢 稗之底村から引き揚げるときに移したと伝わる石幢が乙事にあります。諏訪神社へは何回か行きましたが、それ以外はどこに何があるのかさっぱりわからないので、行きがけに富士見町図書館に寄って「公民館隣の法隆寺観音堂前」と情報を得ました。
 「観音堂のみが残っている」との記述通り、公民館右隣の高台にその御堂がありました。石幢の前に立つと、「醫王山」と読める観音堂から御詠歌が流れ伝わってきました。
 「道路拡張時に破損」との記述通り、龕(がん)が新しくなっています。明暦2年(1656)銘は、摩滅が進み確認できません。「信(州)」の一文字だけはわかりました。

明暦二丙申十一月 信州□□
今井廣亀著『諏訪の石仏』

 馬と大八車しか浮かびませんが、乙事まで運ぶ道中の想いはどうだったのでしょう。すべてに区切りを付けての移住ですから、明かりは見えていたのかも知れません。

大先神社例祭 20.9.3

 富士見町図書館で「御射山社」関連の資料を探していたら、『高原の自然と文化-10-』に「穂屋祭今昔(御射山祭)」と並んで「大先様祭り」があるのを見つけました。9月1日の例祭日は、抜粋ですが「世話人四名とお茶番六名で境内の草刈りと清掃を行い、御幣や注連縄を新しく張り替えて、細々と祭事を続けています」とあります。
 こうなれば“とことん”です。真っ新(さら)な注連縄の写真を撮ろうと大先神社へ出かけました。露地栽培の菊が同じ高さで揃っているのがなぜか不思議です。濃い緑の頂点に、「まだ開くのは早いかしら」と迷っているかのような半開きの花がポツポツと見られます。「やっぱり菊は黄色に限る」と立ち止まって、まだ縮こまっている花芯を見つめました。風の具合か嗅覚の衰えか、秋の香りは感じません。この状態ではまだ菊香を振りまくまでに至っていないらしく、秋を先延ばしにできたような思いでした。
 道端ではツユクサなどまだ夏の花が巾を利かせています。その中にもミズヒキソウやツリフネソウの赤の群落があり、確実に秋は進行していました。「稗之底古村跡」の案内板がある入口には、例祭が行われた証拠である新しい注連縄が揺れていました。二ヶ月ぶりでした。

稗之底村「大先神社」 前回と同じ境内ですが、一昨日の出来事を知っている目には、参道は草が刈られ石段は落ち葉が掃かれ壇上は掃き清めてあるのがわかります。
 大先様には注連縄が掛けられ、左右の祠と共にまだみずみずしさを保っている冬青(ソヨゴ)の幣帛が置かれています。その前には30円、右の祠には10円が供えられていました。
 「大先神社世話人の義務と申し送りを忠実に果たしているだけ」と思います。しかし、絶えてしまっても誰もクレームをつけないであろう「その一日」が、今でも続いていることに驚きました。

 まだ「稗之底村」への興味を持続している方は、以下のリンクを御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 各種の文献で見る「稗之底村の大前神社」