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稗之底村の大先神社

稗之底村「大先神社」

 崩れかけた石段を登り切ると、ちょっとした平地が現れます。境内とはとても言えない狭い敷地ですが、その奥に、注連縄が張られた大先神社の磐座(いわくら)を中心にして、石の祠が二棟置かれています。
稗之底村の謎 その磐座は遠目では自然石ですが、目前で観察すると、表面の一部が「剣」の形に加工されていることに気が付きます。柄に当たる部分に穴が開いているので、「こんなことをするのは自分だけだろうな」と、畏れ多くも木の枝を突っこんでみました。枝の長さは約20センチですが、突き当たった感覚はありませんでした。
 この剣状の彫り込みを見たばかりに、「この石は山の神を祀ったものではないか」と疑問がわき、稗之底村の「底」に首を突っこむ羽目になりました。手持ちの資料では、「大先神社は、山王崎社・山尾崎社・山大前社・大崎社などの別称がある」とあります。いずれも「さき」と読む、稲荷社に多い「先・崎・前」が含まれています。祭神は、これも稲荷社に多い、稲の神「稲倉魂命」です。しかし、どうしても「剣」が結びつきません。私には「祭神・大山祇命」に見えてしまいます。そうなると、左右の祠のいずれかが大先神社の可能性が出てきました。

資料で見る稗之底村の神々

『諏訪藩主手元絵図』

 享保18年(1733)に高島藩各村の地勢を編纂した『諏訪藩主手元絵図』があります。以下に、諏訪史談会編「復刻版」から「乙事村」の一部である“北の隅”を転載しました。
稗之底村「水神」 この絵図では「稗之底」と書かれ、「右三ヶ所祠石宮一尺六寸」と書き込みがある水神が並んでいます。資料を付き合わせれば、左から「西出口・中出口・東出口」の水神でしょうか。
 ここには人家が描かれていないので、この時代での稗之底村は地名としか扱われていないことがわかります。むしろ、水利(権)を公にする目的で「水神・稗之底」を書き込んだのでしょう。

『富士見町史 上巻 資料編

 これは、富士見町に関係する古文書を収録した資料集です。ここから「稗之底」の文字が見られる古文書を拾ってみました。

一、右同所当村西出口水神之森之内ニ山尾崎明神之祠有之(これあり)、是ハ稗之底村之氏神(と)申伝候、

西出口水神の森に山尾崎神社の祠があり、稗之底村の氏神であると伝えられている」と読めます。

一、稗之底村之儀、八ヶ嶽之麓(して)地所至寒く而、作毛実入兼(いりかね)、其上当村之水神山尾崎明神之森より(より)怪異成事共有之(これあり)、住居難成、

 「水神の森に怪しいことが起こった」と興味を引く文面ですが、「当村之水神は山尾崎明神」と書いてあります。

(さる)辰年五月西出口之森之立木何れの者か大切拂(払)神祠を山上ニ引越し居所手入仕候(つかまつりそうろう)

 句読点がないので、複数の異なった解釈ができます。とりあえず「祠を山に移して、その場所を整備した」としました。「山」に該当するのは、高台の「大先神社境内」しかありません。

一、水神森より異へん(変)成儀と申儀は何事に候やと御尋有之(これあり)、古人の申伝へ、白きにわ鳥出、屋根へ登おどし(脅)なといたし候よし、

 前出の『口上書』にある「怪異」を、言い伝えでは「白鶏が屋根に登って住民を脅した」と書き留めています。

『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に収録されているこの書は、著者が不明とあって信憑性が薄いと言われています。しかし、他の資料と読み比べると、年号や表現が一致しています。古文書を参考に「年代記」をまとめたとも考えられるので、あえて載せました。前半部はそのままの転載で、後半は私が読みやすいように意訳したものです。

一、池之袋村 (稗之底村は立澤村へ引ルと云・大形瀬村はとち之木村へ引ルと云)此所ニ境十八ヶ村高有之候得共別本に有此所ニ不記

一、乙事村 (略)正保二年高三拾六石三升稗之底村名主共ニ乙事村ヘ引ル故當(当)時ニ而も御公役様御出之節は壹(一)人出張乙事村役人稗之底村役人と申上ル家數(数)人別は立澤村へ引ル植松氏是也
 明暦年中帰参す又寛文年中退転す稗之底村鎮守十五社明神大崎大明神武田信玄公御祈願の御書御朱印貳(二)通有之候

一、池之袋村 ここに境十八ヶ村の石高(こくだか)が書いてあるが、稗之底村は立沢村、大形瀬村はとち(とち)之木村へ引き揚げたと別本にあるので、ここには記さない。

一、乙事村 (略)正保二年(1645)に、石高36石3升の稗之底村は、名主と共に乙事村ヘ引き揚げた。そのため、当時は御公役様が来たときは、乙事村の役人が一人出張し(私が)稗之底村役人だと申し上げた。戸籍は立澤村へ引き揚げた。これは植松氏のことである。
 明暦年間(1655─1657)に稗之底村へ戻ったが、(結局立ちゆかず)寛文年間(1661─1672)には再び乙事村へ戻った。稗之底村鎮守十五社明神大崎大明神に御祈願した武田信玄公の御書御朱印が2通有る。

 ここに、「稗之底村鎮守十五社明神と大崎大明神」が出てきました。素直に読むと「村の鎮守が十五社」となります。

 上記の資料から各時代の様子をまとめると、以下のようになりました。ここで確認を入れておきますが、山尾崎明神は大前神社の別称です。

 鎮守・氏神・水神にしろ、山尾崎明神が(平地の)西出口の森から(山手の)現在の大前神社がある場所に移転したことになります。

大前神社の磐座は山の神か

稗之底村「大前神社」

 各資料には「祠」と書いてありますから、左右のいずれかが十五社神社と大前神社(山尾崎明神)ということになります。そのため、定説では磐座を大前神社としていますが、これは大山祇命を祀る「山の神」ということになります。また、彫り込んだ「剣」は山の神のシンボルですから、まさしく符合します。

稗之底村「山神社」 『諏訪藩主手元絵図』の「立沢村」では、稗之底畑平(稗之底村跡)に「山神社」を書いています。この山神社が(大前神社とされる)磐座だとすれば、絵図が作られてから90年後に「神を山上ニ引越し」とあるように祠の移転があり、今見る大前神社の景観になったのでしょう。
 この絵図を現代の地図に当てはめると、両神社の場所が「逆」という声が挙がりそうです。しかし、当時の絵図は方角や距離が正確でないことに加え、見通せない場所は“感覚”で位置決めするしかありません。旧稗之底村を見る立沢村民の一般的な意識は「このようなもの」であったと思われます。