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文献で知る稗之底古村址 長野県諏訪郡富士見町

 享保18年(1733)に編纂された『諏訪藩主手元絵図』があります。稗之底がある〔乙事(おっこと)村〕には副題の「大先神社」が描かれていないので、その神社がある〔立沢村〕を転載しました。

稗之底村の絵図
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』(部分)

 これを眺めると、村境は泉ノ沢(現千ヶ沢)沿いの茶線ですから、越境した隣村(乙事村)の事物まで描いていることになります。この内政干渉とも取れる絵図から、立沢村と(立沢村の呼称である)「稗底畑平」とに何らかの関係があることが匂ってきます。

文献に見る稗之底村

 諏訪郡富士見町『富士見町史 上巻 資料編』は、富士見町に関係する古文書を収録した資料集です。ここから「稗之底と大先神社」が見られる古文書を幾つか拾ってみました。

『稗之底村家数人別書上』

 稗之底古村址にある案内板でも紹介している宝暦13年(1763)の古文書を、読み仮名を加えて転載しました。

差上申一札之事

一、高三拾六石三升 諏訪因幡守領分信州諏訪郡 稗之底村
  此反別五町五反三畝弐拾三歩 石盛下山六斗
右稗之底村之儀、八ヶ嶽下ニ而(にて)地所至(いたってさむく)作毛生立兼(さくげおいたちかね)、其上野山刈尽(つくし)渡世難儀仕(つかまつり)、正保年中立沢新田村(へ)引越、其後明暦年中以(をもって)前之(の)村方罷帰(まかりかえり)家作仕候得共(つかまつりそうらえども)、前書之通(り)渡世難仕(つかまつりがたく)(つき)、乙事村引越住居仕中馬稼(ぎ)等仕候、依之(これによって)家数人別(にんべつ)之儀(は)乙事村(こめ)相認(したため)差上申所、少(すこしも)相違無御座候(ござなくそうろう)、以上

 宝暦十三癸未四月十三日
名 主 庄右衛門 
組 頭  甚兵衛 
百姓代 兵左衛門 
米倉幸内様
高橋八十八様

 これについては、立沢文化財保護委員会『立沢村の歴史』の〔稗之底廃村と立沢〕がわかりやすいので転載しました。

 稗の底村は新田ではなく、慶長以前に開かれた古村であった。ところが、この地は、土地高く気温が低きに過ぎ、霧が多く作物の実りが悪いこと、又、猪、鹿、狼などが作物をあらし、人畜に危害を及ぼして生活しにくくなったこと、などの理由により、正保年中(一六四五年頃)、村の人は全員、立沢へ移って来た。そして立沢で十年間ほど暮し、明暦年中(一六五五年頃)、一部の人は旧村に引き上げて家を建て耕作を始めたが、寛文年中(一六六五年頃)に全く乙事村へ退き廃村となったのである。

 「石盛下山六斗」ですが、始めは「山の下に石を盛って(石垣を作り)田を広くし、米6斗を増収した」と独りでうなずいていました。その後、…一反当たりの米の収量が「石盛(こくもり)」と知りました。

 「石盛」は年貢の基準となるランクで、上田(以下「田」は略)・中・下・下下等に分けられ、各「2落ち」になる、とあります。『富士見村史』に、『稗之底村家数人別書上』に近い宝暦2年の御射山神戸村の石盛が載っており、「下下田」が「11(1.1石)」とあります。畑にもランクがあり、最下位の「下山畑」が「6(斗)」でした。
 30進法が混在する、稗之底村「五町五反三畝弐拾三歩」を換算すると、(ほとんど変わらなかった)「55.377反」になります。石高をこれで割ると、一反当たり「6斗5升」になります。一つ上の「下畑」が「7(斗)」ですから、付加価値の低い畑に換算しても最下位の「石盛下山六斗」になります。改めて計算してみて、「作毛生立兼」が実感として理解できました。

『口上書と書留』

一、右同所当村西出口水神之森之内ニ山尾崎明神之祠有之(これあり)、是ハ稗之底村之氏神(と)申伝候、

西出口水神の森に山尾崎神社の祠があり、稗之底村の氏神であると伝えられている」と読めます。

一、稗之底村之儀、八ヶ嶽之麓(して)地所至寒く而、作毛実入兼(いりかね)、其上当村之水神山尾崎明神之森より(より)怪異成事共有之(これあり)、住居難成、

 「水神の森に怪しいことが起こった」と興味を引く文面ですが、「当村之水神は山尾崎明神」と書いてあります。

 去(さる)辰年五月西出口之森之立木何れの者か大切拂(払)神祠を山上ニ引越し居所手入仕候(つかまつりそうろう)

 句読点がないので、複数の異なった解釈ができます。とりあえず「見ず知らずの者が立木を広く伐採し、祠を山の上に移している現場に踏み込んだ」としました。「山」に該当するのは、高台の「大先神社境内」しかありません。

一、水神森より異へん(変)成儀と申儀は何事に候やと御尋有之(これあり)、古人の申伝へ、白きにわ鳥出、屋根へ登おどし(脅)なといたし候よし、

 藩の役人から、「(口上書にある)“怪異”とは何か」と問われ、「言い伝えでは、白鶏が屋根に登って住民を脅した」と回答しています。今で言う“白色レグホン”に相当しますが、当時としては恐れるに足りたニワトリだったのでしょう。

『信濃国高嶋領郷村高辻帳』

 富士見町『富士見町史 上巻』に載っている宝永8年(1711)の『高辻帳』では、乙事村が140石5斗で、廃村になったはずの稗之底村が36石3升とあります。さらに、乙事村は時代によって石高の変動がありますが、稗之底村は常に36石で固定しています。
 読み進めると、「(高辻帳に)一旦書き上げた村そのものを抹消するようなことは難しいことだったのであろう」としています。そのため、廃村になっても帳簿上では存在し続け、実体を伴わないために同じ石高で記されたと解説しています。

『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に収録されているこの書は、著者が不明とあって信憑性が薄いと言われています。しかし、他の資料と読み比べると、年号や表現が一致しています。古文書を参考に「年代記」をまとめたとも考えられるので、あえて載せました。前半部はそのままの転載で、後半は私が読みやすいように意訳したものです。

一、池之袋村 (稗之底村は立澤村へ引ルと云・大形瀬村はとち之木村へ引ルと云)此所ニ境十八ヶ村高有之候得共別本に有此所ニ不記

一、乙事村 (略)正保二年高三拾六石三升稗之底村名主共ニ乙事村ヘ引ル故當(当)時ニ而も御公役様御出之節は壹(一)人出張乙事村役人稗之底村役人と申上ル家數(数)人別は立澤村へ引ル植松氏是也
 明暦年中帰参す又寛文年中退転す稗之底村鎮守十五社明神大崎大明神武田信玄公御祈願の御書御朱印貳(二)通有之候

一、池之袋村 ここに境十八ヶ村の石高(こくだか)が書いてあるが、稗之底村は立沢村、大形瀬村はとち(とち)之木村へ引き揚げたと別本にあるので、ここには記さない。

一、乙事村 (略)正保二年(1645)に、石高36石3升の稗之底村は、名主と共に乙事村ヘ引き揚げた。そのため、当時は御公役様が来たときは、乙事村の役人が一人出張し(私が)稗之底村役人だと申し上げた。戸籍は立澤村へ引き揚げた。これは植松氏のことである。
 明暦年間(1655─1657)に稗之底村へ戻ったが、(結局立ちゆかず)寛文年間(1661─1672)には再び乙事村へ戻った。稗之底村鎮守十五社明神大崎大明神に御祈願した武田信玄公の御書御朱印が2通有る。

 ここに、「稗之底村鎮守十五社明神と大崎大明神」が出てきました。素直に読むと「村の鎮守が十五社」となります。
 上記の資料から各時代の様子をまとめると、以下のようになりました。ここで確認を入れておきますが、山尾崎明神は大前神社の別称です。

 鎮守・氏神・水神にしろ、山尾崎明神が(平地の)西出口の森から(山手の)現在の大前神社がある場所に移転したことになります。

大前神社の磐座は山の神か

稗之底村「大前神社」

 各資料には「祠」と書いてありますから、左右のいずれかが十五社神社と大前神社(山尾崎明神)ということになります。そのため、定説では磐座を大前神社としていますが、これは大山祇命を祀る「山の神」ということになります。また、彫り込んだ「剣」は山の神のシンボルですから、まさしく符合します。

 『諏訪藩主手元絵図』の「立沢村」では、稗之底畑平(稗之底村跡)に「山神社」を書いています。この山神社が(大前神社とされる)磐座だとすれば、絵図が作られてから90年後に「神を山上ニ引越し」とあるように祠の移転があり、今見る大前神社の景観になったのでしょう。
 この絵図を現代の地図に当てはめると、両神社の場所が「逆」という声が挙がりそうです。しかし、当時の絵図は方角や距離が正確でないことに加え、見通せない場所は“感覚”で位置決めするしかありません。旧稗之底村を見る立沢村民の一般的な意識は「このようなもの」であったと思われます。