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法性神社 上伊那郡辰野町 20.11.10

 法性(ほっしょう)神社は二年前に参拝しました。その時は同じ辰野町にある三輪神社・宮木諏訪神社と巡拝したので、記憶が分散してまとめきれずにいました。「いつの日にか再訪」が今日になり、辰野は温暖だから紅葉も、と欲張って有賀峠を越えました。
 再訪であっても、拝殿や本殿の立派な造りに改めて見入りました。記憶になかったケヤキの大木の下では、軽トラで乗り付けた男性が落葉拾いに精を出していました。紅葉には遅かったのですが、ギンナンが落ちていたので帰りの楽しみとしました。

法性神社本殿

 本殿に文化財の指定はありませんが、彫刻が凝っていて見応えを感じます。私の力ではそれを文字に替えても伝わらないので、通常より大きな写真を載せて、それに任せました。

法性神社の神紋

 本殿に相殿があるのに気がつきました。暗い上に距離があるので画質がよくありませんが、左から「幣帛・梶・宝珠」です。「三部屋」の中央が「諏訪梶」ですから、主祭神が建御名方命とわかります。しかし、左右の神紋からは配祀の祭神は読み取れませんでした。

法性神社の御柱19.6.17 法性神社では御柱を建てます。左の二之御柱は平成19年6月に撮ったものですが、三年の経過で早々に切断してありました。メド穴が見えるので、強度不足から早めの「御柱休め」としたのでしょう。私から見れば(その分短くなりますが)「メド穴の部分を取り除いてから建てれば」と思ってしまいますが、これが法性神社の伝統なのでしょう。

法性神社「御柱」21.11.15 適当に撮ったのですが、二年前の「拝殿と玉垣」と同じアングルなのに驚きました。しかし、御柱の“株”を比べると、なぜか別物のようにも見えます。今となっては確認できませんが、多分朽ちて“半減”したと思われます。この現状では、町外から参拝した人は、御柱が建っていたとは思ってもみないでしょう。

法性神社の境内社 境内の縁に沿って、木祠と石祠が新旧入り混ざって並んでいます。山際から車の走行音が伝わってくるので、境内社の左右端へ等距離という位置に立ち、一回だけ(一括して)頭を下げてから畑中の小道を上ってみました。何と、その音源は「中央自動車道」でした。こんな近くを通っているとは思ってもいませんでした。

 後は、お土産にギンナンを拾って帰るだけです。袋を取りに駐車場に向かうと、鳥居をくぐったことで一区切り付いたのでしょう、おばあさんが立ち止まるのが見えました。手に提げた袋を見て同業者とわかりましたが、イチョウは一本だけなので「山分け」というわけにいきません。お年寄りの生き甲斐を奪っては、と採集権を放棄しました。

 その代わりに鳥居前の道をうろついていると、レリーフを埋め込んだ石造物があるのに気が付きました。肖像はともかく、この辺りには似つかわしくない軍艦の絵に「どれどれ」と銘文を読むと、戦艦大和と運命を共にした「有賀幸作艦長」の記念碑でした。ここで、彼が辰野町の出身と初めて知りました。法性神社の近くに生家があるのでしょうか。神社とは関係ありませんが、何か新発見をしたような気持ちでした。

法性神社「神庫の竜」 神庫に何が収蔵してあるのかより、こて絵(鏝絵)が気になります。取りあえず撮っておいた写真を自宅で見ると、余りの複雑さに、竜というより“龍”でした。また、髭が針金状のもので宙に浮かせてあるので、立体感が際立っています。
 これは「こて絵」と呼ばれていますが、正確には漆喰で作ったレリーフです。ここは「こて絵のサイト」ではないので、解説はこの辺で…。

法性神社の「由緒」

 朝日村史編纂会『朝日村史』の〔宗教〕から「法性神社」の一部を転載しました。ここでは、かつては「里宮社」が社号であったことがわかります。なお、この中に明治の社殿造営についての記述がありますが、時代が前後してわかりにくくなっているので、別項としました。

祭神 健御名方命 御産子命 天照大御神 誉田別命
 延暦二十一年(802)坂上田村麿が東征の際武運長久を祈って伊那に五社を造営したが、その一つであるという伝承がある。元暦二年(1185)に信濃権守大祝盛高が再建した。盛高の再建のときの文書の写(平出区蔵)を見ると、

 伊那平井弖(ひらいで)里神祠新造之号里宮社
 法性大明神仰修希者 日月星辰 風雨以時国豊民安
 四海泰平 怨敵退散 累代産子 武運令長護無疑
 依而神文如件
  元暦二乙巳年三月      信濃権守大祝神盛高

となっている。後、弘治二年(1556)に武田晴信(信玄)が再建して壱貫弐百文の地を寄進した。天正六年左馬允が祭事の復活をしたが、その後神官は廃絶して巫女と高徳寺が奉仕したが、巫女が絶家したので再び神官が奉仕するようになった。寛政八年(1796)吉田家へ願い、諏訪法性大明神の社号をうけた。
 明治五年十一月村社に列したが、明治四十一年三月「神社合併並社号改称願」を出して、平出北原にあった八幡社と、境内にあった御社宮司社と伊雑皇社を合祠して、従来の社号の「法性社」を「法性神社」と改めた。
 祭日には永禄年間(1558-1570)から「湛の神事」というのがあり神官が乗馬して氏子は狩衣帯刀で幡や矛弓箭を携えて供奉し、神輿が村中を廻った。これは現在も同様の形式で行なわれている。

 祭神の一柱「御産子命」は、平出区誌刊行委員会『平出区誌』では「みしゃごのみこと」と振り仮名があるので、「産子神→ミシャグジ」としてみました。しかし、「御食津・御饌津神(みけつがみ)」の別称に「三狐神(さんこしん・さぐじ)」があります。神紋の「宝珠」を当てはめると「(御)産子神→三狐神→御食津神→稲荷神」となりますが…。

法性神社の祭神「御産子命」とは

 この「御産子命」の“取り扱い”に悩んでいたら、『信州デジくら』で、明治11年書上とある『上伊那郡村誌』に載る〔朝日村〕を見つけました。「…」は省略した部分です。

http://digikura.pref.nagano.lg.jp/kura/id/03ADM110A35300-jp
里宮法性社 本村の丑寅にあり…
     南 豊鍬入姫命
祭神三柱 中 建御名方命 なり、
     北 御産子命
 上古御社宮司大明神の由、本駅(辰野駅)東に一つの塚あり、是を御陵ヶ塚と称し里老の言う往昔建御名方尊の御子神御産子神宗廟の地なりと、…
 中古に至りて永禄年間見宗寺開基により、御社宮司社今の墓所に近きを以て本宮の地に遷座す、宮趾を俗に會の免と言う、亦、本宮の南に一社あり、豊鍬入姫命を祭り伊雑皇大神宮と申す、以上三柱神を併せ祭れり、…

 ここに、伝承ですが「建御名方尊の御子神が御産子神」とあり、(天津神ではない)諏訪の神であることがわかりました。

本殿の神紋

 『朝日村史』の祭神は「現在の祭神」ですから、本殿を造営した明治11年とは事情が異なっています。一方の『上伊那郡村誌』は少なくとも明治11年以前の編纂となりますから、相殿の扉にある神紋は、ここに載る「三柱神」に対応するものと考えて間違いないでしょう。ありがたいことに方角も書き入れてあるので、
 (南)宝珠紋−豊鍬入姫命(伊雑皇大神)
 (中)諏訪梶−建御名方命
 (北)幣帛紋−御産子命
と確定しました。
 その後の変動は明治41年の合祀となるわけですが、「天津神とミシャグジ」のルームシェアリングは最悪の組み合わせですから、豊鍬入姫命の部屋に天照大御神・誉田別命を合祀したということでしょう。
 ところが、現在の祭神に豊鍬入姫命の名は見えません。過密状態になったので追い出されたのでしょうか。『平出区誌』の〔法性神社の祭神〕では以下のようにありました。

主祭神建御名方命
誉田別命
御産子(みしゃごの)
合祀神社御社宮司社(境内社)
伊雑皇社(境内社)
八幡社(上平出より合祀)

 歴史の経緯(『上伊那郡村誌』)とは異なっていますが、豊鍬入姫命(伊雑皇大神)が見えます。“途中から急に顔を出した感のある天照大神ですから、豊鍬入姫命(伊雑皇社)では知名度が低いので、同じ女神では圧倒的に存在感がある天照大神とすり替えたことも考えられます。

「平井出湛えの神事」

 平出区誌刊行委員会『平出区誌』では、「平井弖の外縣廻湛(そとあがたまわりたたえ)」が「平井出湛えの神事」として、昭和35年頃まで続けられていたと書いてあります。もちろん古来の神事の内容とは変わっていますが、それが昭和の半ばまで行われていたことに驚きました。これも、法性神社は御社宮司大明神社だったとありますから、なるほどと頷いてしまいます。

棟梁中村清之丞

 以下は『上伊那郡村誌』の〔朝日村〕から、社殿造営の部分を抜き書きした続きです。

 社殿については古いことは分らないが、寛文十三年(1673)と享保十年(1725)に建替えられたというが詳らかでない。明治十一年八月社殿の建替えが行なわれた。
 本 社 間口三間 奥行二間三尺
 拝 殿 間口五間 奥行二間三尺
 神楽殿 間口九間 奥行四間三尺
 鳥 居 高さ二問 開一間五尺
 このときの棟梁は平出の中村清之丞であって、本殿の龍の彫刻は同人の作である。

法性神社「鳳凰」 社殿造営の棟梁と彫刻は、地元平出村の中村清之丞とあります。
 手持ちの写真に、向拝の貫に「竜」・身舎の目貫に「鳳凰」の彫刻が写った写真があります。ところが、竜の上半身が欠けているので、鳳凰だけをトリミングしたものを紹介します。

番外! 戦艦大和

 「辰野 戦艦大和」で検索すると、ズラズラと表示します。「辰野 法性神社」の比ではありません。もう何年も記憶の最下層に埋もれていた中学生の頃を思い出しました。当時は、大和ではありませんが、すでに吉村昭『戦艦武蔵』を読んでいましたし、雑誌『丸』に載っていた、「武蔵」に次ぐ大和型三番艦「空母信濃」の写真にしびれていました。プラモデルは出始めの頃で、もっぱら「ソリッドモデル」という木製の模型を夢中になって作っていた時代です。『少年サンデー』の創刊号を、村で一軒の文房具兼本屋で買ったことも思い出しました。
 今は「宇宙戦艦」の時代ですが、当時の大和三兄弟(船だから三姉妹?)には「超弩級」の冠が付いていました。ところが、その「ど」が変換候補にありません。『Kotobank.jp』で調べると、

ど‐きゅう〔‐キフ〕【×弩級】 《「弩」は1906年に建造された英国戦艦ドレッドノート号の頭文字の当て字。当時としては巨大な戦艦だったところから》並はずれて大きい等級、またはレベル。「超―」

とあります。知らずにいても一向に差し支えない“知識”ですが、「そうだったのか」と、うなずきながら大きく息を吐き出してしまいました。