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小野神社「藤池」 塩尻市小野神社 27.10.20

 小野神社と矢彦神社についてあれこれ書いている内に、“シリーズ物”になってしまいました。断続という形になりますが、今回は小野神社の「藤池」を取り上げてみました。

藤池

 『GoogleMap』では、[]が小野神社と矢彦神社の境界線です。これを見ると、境界が矢彦神社側に寄っていることがわかります。
 神社分割の際には「小野神社側が広かったので、その代わりの土地を譲った」とありますが、どうも、藤池を小野神社に残した(または、取った)ことで差が出たと理由付けができます。小野神社には、藤池を手放すことができない事情があったのでしょう。
 下写真では、左の踏み跡が矢彦神社との境界です。そのため、結界を含めた右側が小野神社の境内となります。小野神社と矢彦神社の間にあるのが、神社によくある弁天池とも見てしまう藤池です。

小野神社・矢彦神社「藤池」

 池の中にある小島の名称を知りませんが、藤池ですから、取りあえず「藤島」と呼ぶことにしました。

これは古い「文治二年 藤沢前司」

文治二年 私が注目したのは、「文治二年 藤沢前司」とだけ彫られた、上写真では手前の苔むした石です。
 調べると、文治2年は1186年でした。年表では、文治5年に「源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした」とありますから、私も一目置いてしまう年代物です。しかし、この文字だけでは、この石が果たす“役目”は不明です。黄色のケルヒャーでクリーニングすれば未発見の文字が見つかるかもしれませんが、…それはできない話です。
 「前司」を、辞書で筆頭に挙がる「前任の国使」とすれば、藤沢姓の国司がいたことになります。しかし、調べてもその名は存在しません。そうなると「藤沢前司」は姓名ということになりますが、官職と紛らわしい名を使うことは(まず)ないでしょう。元号に干支もないので、大展開を予想したこの古碑も、徐々に胡散臭くなってきました。

神号碑と祠

弁才天と池生社 島にある石祠を拡大したものです。身舎の側面には「小野住要玄」。背後に「享保十六辛歳 五月吉祥日」が読めますから、小野に住む「要玄」さんが1731年に奉献したということでしょう。
 左の小さな石碑ですが、「弁才天」と彫られているのが確認できました。初めは「右の祠は弁才天社です」と説明する案内碑としていましたが、この祠について書かれた文献がないので、「二柱の祭神が並立しているのでは」という考えが浮かびました。
 隣の矢彦神社は、小野郷が分割されるまでは一つの境内に小野神社と並立していました。そのため、両神社の中央に位置する藤池は共通のものだったと考えてもおかしくありません。その名残が、現在見る神号碑と祠なのでしょうか。小野神社側にある藤島への橋は(なぜか)矢彦神社側にありますから、突飛な発想としても頷いてしまう部分があります。もしかしたら、(関係者は誰も口に出しませんが)今でも藤島の半分は矢彦神社の飛地であるかもしれません。

「御鉾石−藤池−霧訪山」ライン

小野神社境内図 小野神社資料館で小野神社の境内図を目にし、写真に撮って持ち帰りました。ただし、作成年を確認することは忘れました。

 自宅で眺めると、池の上部に「小野」とあるのを見つけました。その周囲を注視すると、右側に木に巻きついた藤が描かれています。
 ここで、石碑の「沢」と共にかなり「藤」を意識しているように思えたので、「諏訪大社上社の藤島神社を意識したもの」と短絡してしまいました。小野神社の祭神が建御名方命で、ここから諏訪へ渡って現在の諏訪大社を創建したという由緒があるからです。
 「藤」はここまでとして、やや離れた場所になりますが、藤池の前には「御鉾社」と「御鉾石」があります。左の縦線が矢彦神社との境ですから、両社の中央(境)に当たるこのエリアが、小野神社・矢彦神社の“原点”とも思えてきます。
小野神社・矢彦神社と霧訪山 両社背後の延長線の先が霧訪山(きりとうやま)ですから、原初は、御鉾石を基点とした祭祀を行ったと考えることができます。すなわち、「御鉾石−藤池−霧訪山」のレイラインです。その後に人格神が“設定”されるようになり、現在の小野神社・矢彦神社が成立したという変遷です。

弁才天社と池生社

 境内図にある池中の祠には、何かの文字(内)が書かれています。拡大すると、期待した「藤島社」ではなく「池生社」でした。前記の「神号碑と祠」を持ち出すと、矢彦神社の弁才天社と小野神社の池生社が相殿(並立)という図式が浮かび上がってきます。小野神社の祭神は建御名方命ですから、「池の中にある神社だから池生社」という作為も感じられますが、やはり、御子神「池生命」を据えたと考えた方が自然でしょうか。

再び「文治二年 藤沢前司」

 ネットで閲覧した『信府統記』なので、鈴木重武/編『信府統記 第十八巻』〔松本領古城記〕という表記になりました。ここから、「塩尻與」の一部を転載しました。

○ 北小野古城地 小野村より東の山なり、此所に小野大明神の森あり…、石橋なり其裏に文治の年号を彫付たり、…

 『信府統記』が編纂されたのは江戸時代中期ですから、それ以前に石橋の修理または撤去されたときに、裏にある銘文を見つけたのでしょう。しかし、これだけの記述では、藤池にある碑に結びつけることはできません。それでも、「文治」という極めて古い元号から、何らかの関連があるのは間違いありません。
 改めて藤池畔にある「文治二年 藤沢前司」碑を考えると、とても橋の部材とは見えません。しかし、その碑が立っている場所に意味があると考えれば、やはり、『信府統記』に出る「石橋」は、藤池に架かっていた橋とすることができます。
 当時でも古い石橋という認識があり、何らかの由来を残そうと同じ銘文を碑に彫って、橋があった場所に立てたと考えてみました。こうなると、何らかの官職「司」であった藤沢氏が石橋を寄進したということになります。しかし、藤沢氏は神氏にも繋がる古族ですが、持てる知識ではこれ以上の進展が望めないので、相変わらず「文治は古い」で終わることになりました。

「文治二年 藤沢余一盛景」

 『吾妻鏡』の〔文治二年十一月八日〕の条に、藤澤余一盛景が登場します。諏訪市『諏訪市史 上巻』〔中世のあけぼの〕では、「諏訪社領であった黒河内・藤澤郷の領主であった藤澤余一盛景は…」と詳細は省きますが、その内容を解説しています。文治二年と藤沢氏の名が共通していますから、余一にかなり近い人物が前司と想像できます。当時は誰もが知ることで、銘はこれで十分としたのでしょう。