伊那市の「磯波社(坂下神社)」を参拝したこともあって、長野市松代町鎮座の玉依比売命神社を調べ直してみました。古名(別称)に「磯並三社大明神」とあるからです。
検索ワードをとっかえひっかえする中で、長野県『信州デジくら』に「享和元年の写」とある『信濃国埴科郡池田宮縁起』を見つけました。しかし、資・史料をそのまま写真(デジタル)表示するサイトなので、当然ながら筆字の羅列です。その存在をブックマークするだけで終わらせようとしましたが、このところ(俗)世間から遠のいた暮らしをしている私です。春まだ浅い原村ですから、“コタツトップ”には最適の題材として、その解読に励むことにしました。
全てを“変換”した時点でお披露目と考えていましたが、永久にその機会はないだろうと悟りました。そこで、早くも諦め、現状を暫定として発表することにしました。今後は、補足や写真を加える予定がありますが、まだ…。
“混乱”を避けるための《例言》です。
海津城鎮守 池田宮 式内
玉依比売命神社旧縁
往昔此神当国に鎮らせ給うは神代出縁にして、地神三代天津彦々火瓊々杵尊神勅によりて此豊葦原の中津国に天降り、日向国高千穂の峯に宮所を定ら連(れ)、天津日嗣(ひつぎ)と云い給う、勢速振(いはやぶる)神等皆升々生まれしに、其宮所を覓(もとめ)給う、
元来、国・郡・県・郷という事を定ましき勅令(みことのり)に随(従い)志(し)給いにて、其所々に鎮坐(しずまりましこの)所、後代今の宮地と定り、常盤堅盤(ときわかたわ)の神地宮所と成り、往事旧記国録に識り伝える所也、同此社頭を、今同じ村の同高き古地一川という所に鎮(しずまる)跡あり、
一、元和年中真田信之朝臣同国上田城より御当城へ入部の砌(みぎり)の正月二日於いて、庭上丹(に)て霊石を求め給う、三寸斗(ばかり)青石中に穴有、評議の上児霊石に決上して、同七日、数代余池田長門城代役にて、池田の宮へ社参して、此霊石を神前に奉納、時に神主改数の名今にいたりて第三の石と呼び唱るは此霊石也、
此旧例を以て池田長門、代々当時藩改役池田波江迄、毎年正月七日改石神事の当城主代参相勤、改石と成、見届申して近来の恒例とは成に申也、
一、神主・祠官・神宮寺寄居(よりい)、神祭祈念終りて東條村役人荒町村役人立合せ、五穀の判事開封いたして、其吉凶を定む、前年封印の供物に其名を書記し、其定は早稲・中稲・晩稲(おくて)・大麦・小麦・大豆・粟・木稗(きび)等即ち八包也、瓶の内より取出し上中下三段(たん)の見量を究(きわめ)別(わけ)、当作の吉凶は当社の神筮(しんせん)神慮の至極(しごく)也、
旧年の供物共儘に天(て)色不染を上と名附かし、黄じみ入り更(ふけ)り(※黴びる)出るを中とし、全て腐(くされ)出るを下と名付る、中は別に“あたる(中る)”と訓解して是を作毛は“よ路し記(よろしき)”と定む、其上又前年の如く供物は包み八種一固(かため)に右の瓶に入れ箱に納め封印、事堅して、社壇に誨筮(かいぜい)の神例也、右の霊石は別箱に重入連(れ)、是又厳重に封印仕(し)其年の数量を書記、
当日御造酒一封御◯一揃えに相参る神主御城主へ直献の旧例也、物に当作毛吉凶三段は添書記、一同に指上来る事是全義代名易の神事也、
元来霊石改数の起源より第一石の数唱(となえ)は天下泰平の石少し高声に、第二は国家安全、第三の石は城主御武運長久、第四石は五穀成熟諸民快楽と呼唱の伝語也、
夫(それ)より数量増減の段を相改申事に及て、段又改数の内に増量有をば生石と唱、外より拾い納るをば其年の来り石と唱納む、其妙験有事努々(ゆめゆめ)疑に怠りなき、
神主 対馬守 藤原重年謹言
池田宮児霊石由来を、松代藩臣馬場廣人方へ申遣
神主より写申事也、
寛政十年極月 院萋并(並)
享和元辛酉霜月 吉沢好道写
最後の最後に来て《レ点、一・二点》が出てきました。その中で、文法通りに書き下すと微妙な表現になる部分を、上記(※)のように書き直してみました。
宮司が読み上げる数を記録しているシーンです。
手前にある“黒い物体”が、海津城の庭で偶然に見つけたという「城主御武運長久の石」で、現在の名称は「真田家奉納の石」になっています。
児玉石神事と並行して行われる、現在の名称「御判神事」です。
今年の結果を筆記していますが、来年用の供物を瓶に収めた直後の写真です。余った“御飯”は、皆で試食していました。