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『信濃国埴科郡池田宮縁起』 Var_27.5.24(99.9%完)

 『信濃国埴科郡池田宮縁起』は、文末に「松代藩士馬場広人が、寛政10年に書かれた縁起書を享和元年に書き写したもの」とある、玉依比売命神社の由来書です。
磯並三社大明神
「磯竝三社大明神」

 伊那市の「磯波社(坂下神社)」を参拝したこともあって、長野市松代町鎮座の玉依比売命神社を調べ直してみました。古名(別称)に「磯並三社大明神」とあるからです。

 検索ワードをとっかえひっかえする中で、長野県『信州デジくら』に「享和元年の写」とある『信濃国埴科郡池田宮縁起』を見つけました。しかし、資・史料をそのまま写真(デジタル)表示するサイトなので、当然ながら筆字の羅列です。その存在をブックマークするだけで終わらせようとしましたが、このところ(俗)世間から遠のいた暮らしをしている私です。春まだ浅い原村ですから、“コタツトップ”には最適の題材として、その解読に励むことにしました。

 全てを“変換”した時点でお披露目と考えていましたが、永久にその機会はないだろうと悟りました。そこで、早くも諦め、現状を暫定として発表することにしました。今後は、補足や写真を加える予定がありますが、まだ…。

『信濃国埴科郡池田宮縁起』暫定書き下し文

 “混乱”を避けるための《例言》です。

五穀の判事(五穀御判事)
式内玉依比売命神社の故地

海津城鎮守 池田宮 式内
玉依比売命神社旧縁

 往昔此神当国に鎮らせ給(たま)うは神代出縁にして、地神三代天津彦々火瓊々杵尊神勅によりて此豊葦原の中津国に天降り、日向国高千穂の峯に宮所を定ら連(れ)、天津日嗣(ひつぎ)と云給う、勢速振(いはやぶる)神等皆升々連しに、其宮所を覓(もとめ)給う、
 元来、国・郡・県・郷という事を定ましは、勅令(みことのり)に随(従い)(し)給うて、其所々に鎮坐(しずまりましこの)所、後代今の宮地と定り、常盤堅盤(ときわかたわ)の神地宮所と成り、往事旧記国録に識る所也、同此社頭を、今同じ村の同高き古地一川という所に鎮(しずまる)跡あり、

 既に人皇七代孝霊天皇の御𡧃までは川中島四郡は多分湖水也しか、爰(ここ)に一人の異人鎮る、え(得)に釣する事を営む、或時此磯を歩岩上に座して釣をたるし、沖の方より大魚一つおよぎ来れり、大きさ一丈余り金の鱗輝き水中星をちら須(す)(が)如く夕陽に光翻える、
 其形とす此大魚一声を放(はな)して曰(いわく)、異人釣を止めよ、我は誠に霊勅を請て諸神会(もろかみつどい)神力を以て此湖水の流尾を切り開き陸と承すの神勅也というて形は失(うしない)にけり、夫(それ)よりして程無く湖水干潟と成て、今の世埴科・更級・高井・水内の四郡と成也、
 別此玉依姫の神は海帝第二の御娘、人皇の初祖神武天皇野(の)御母、人体の乳祖にして、その源秘の伝有る事国学の送授也、玉の徳より別連(れ)し女神にて、三徳兼備の事神道の旧伝に明々也、筆記(ひっき)に遷あらす其神慮、総(すべ)ての九徳を以て伝に語し磐石に申す、升々以て不変堅硬(けんこう)を解脱(げたつ)す、
 抑(そもそも)一川の旧地より見定給うは人皇十七代仁徳天皇の頃と伝え為て、今の池田の宮地定りしは其後にして、寛喜改元の年とあり、其のそれ迄は磯波の社跡に鎮座し給う也、
 神作(しんさく)微妙の跡名跡申し事数々也、今日人体の仮業と不測の作形を以て其名を止(とど)む、
 昔湖水の乾し砌に泥土凝て児子(しし)の玉と承る、身心魂魄(こんばく)の如し形、宮定(継)、大小の数量穿形し是物児霊石と名付る、全体玉依の神作に固(かため※まとめ)て此石を昔古(おうこ)珠寄石抔(など)(となえ)し事申伝えり、
 神霊の集会給う御璽(しるし)也、同国諏訪郡一ノ宮にも霊石の名有り、神体を磯並大明神と祭り奉承、
 当社は御正体玉依比売命申也、左の相殿は天照大神、右の相殿は建御名方命、是を池田三社大明神と祝称し奉る、
 玉依比売の霊祭云して毎年正月七種(草)の未明より霊開の神事を行事、往古より社家の伝来有て起述(のべ)り、中古寛喜二年改数大石五つ・中石七つ・小石九つ、合廿一石、其後年々数移て慶長九年に数改る、此度六十四也、右年来、箱之内にて自然に増量有、年々其数量納改む、誠に神力の弥(いよいよ)増所也、元来大社揮営にして其伝記四町四方余と有、
 文明十年七月より八月迄洪水にて山沢押出し此池田宮へ押寄、湖水の如く泥水満て源田と成、宮今は廣沢河原成、
 遙に遠く成る往古、釣為連(なされ)し異人は猿田彦の命也とて、今瀬関大明神と崇祭す、大魚は竜神と化して虚空に飛去りぬ、今社中に辨財天と崇祭、又池田宮の社地を天王山と唱るは往古祇園の社跡有しを、今は其相殿に斎い納、正に御旧跡の地也、
 天文年中信玄の時代、海津の城地定まりし時当城の鎮守たるべきの旨高坂弾正掟書有り、

一、元和年中真田信之朝臣同国上田城より御当城へ入部の砌(みぎり)の正月二日於いて、庭上(ふ)と霊石を求め給う、三寸斗(ばかり)青石中に穴有、評議の上児霊石に決上して、同七日、数代余池田長門城代役にて、池田の宮へ社参して、此霊石を神前に奉納、時に神主改数の名今にいたりて第三の石と呼び唱るは此霊石也、
 此旧例を以て池田長門、代々当時藩改役池田波江迄、毎年正月七日改石神事の当城主代参相勤改石と成、見届申して近来の恒例とは成に申也、

一、神主・祠官・神宮寺寄居(ききょ)、神祭祈念終りて東條村役人荒町村役人立合を、五穀の判事開封いたし、其吉凶を定む、前年封印の供物に其名を書記し、其定は早稲・中稲・晩稲(おくて)・大麦・小麦・大豆・粟・木稗(きび)等到る八包也、瓶の内より取出し上中下三段(たん)の見量を究(きわめ)(わけ)、当作の吉凶は当社の神筮(しんせん)神慮の至極(しごく)也、
 旧年の供物共儘に天(て)色不染を上と名附かし、黄じみ入(ふけ)(※黴びる)出るを中とし、全て腐(くされ)出るを下と名付る、中は別“あたる(中る)”と訓解して是を作毛は“よ路し記(よろしき)”と定む、其上又前年の如く供物は包八種一固(かため)右の瓶に入箱に納め封印、事堅して、社壇に誨筮(かいぜい)の神例也、右の霊石は別箱に重入連(れ)、是又厳重に封印仕(し)其年の数量を書記、

  当日御造酒一対御誨(みおしえ)一揃に相参神主御城主へ直献の旧例也、物に当作毛吉凶三段は添書記、一同に指上来る事是全義代名易の神事也、
 元来霊石改数の起源より第一石の数唱(となえる)は天下泰平の石少し高声に、第二は国家安全、第三の石は城主御武運長久、第四石は五穀成熟諸民快楽と呼唱の伝語也、
 夫(それ)より数量増減の程を相改申事及て、役又改数の内に増量有をば生石と唱、外より拾い納るをば其年の来り石と唱納む、其妙験有事努々(ゆめゆめ)疑に怠りしき、

 凡慶長の改元(1596)より今寛政九年(1797)正月に至り、生石八十有余、是生石の増すを吉事とし、減せるを凶と定む、封箱の内に増減有事自然の神験也、猶(尚)、来り石は弥(いよいよ)増て当社の霊宝と奉納、萬々歳神変不測の妙用也と斉納奉者也、茲固(ここにかたく)永代於神前無怠慢抽丹精を祈願事

神主 対馬守 藤原重年謹言 

池田宮児霊石由来を、松代藩臣馬場廣人方へ申遣
神主より写申事也、
 寛政十年極月  院萋并(並)
 享和元辛酉霜月 吉沢好道写

「神前於永代怠慢無丹精を抽祈願奉事也」

 最後の最後に来て《レ点、一・二点》が出てきました。その中で、文法通りに書き下すと微妙な表現になる部分を、上記()のように書き直してみました。

平成25年度の神事

真田家奉納の石神筮の発表
 改数が終わると、宮司が今年の動向を話します。
  が、海津城の庭で偶然に見つけたという「城主御武運長久の石」です。現在は「真田家奉納の石」となっています。


五穀の判事(五穀御判事)御判神事
 児玉石神事と並行して行われる、現在の名称「御判神事」です。今年の結果を筆記していますが、来年用の供物を瓶に収めた直後の写真です。余った“御飯”は、皆で頂いていました。