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沙田神社 松本市島立区 21.10.25

沙田神社の一ノ鳥居 この写真は、奈良井川の堤防上から撮った沙田神社の一ノ鳥居と参道です。
 創建当時の景観を知る術はありませんが、現在の奈良井川から始まる参道が奇異に映りました。難読の沙田(いさごだ)と相まって何か曰(いわ)くがありそうですが、今持てる知識では想像もできません。

沙田神社参道 二ノ鳥居からは参道の両脇にケヤキの大木が並び、角柱の灯籠にも風情を感じます。ところが、竿に刻まれた「明治37年・国威宣揚記念燈」を読んで、一気に評価が下がりました。それでも、参道並木が陰を長く延ばしているのを見て、一枚撮ってしまいました。正面は「御仮屋殿」です。

沙田神社の御柱 社殿を内側に囲んだ場所に黒木の御柱が建っていました。写真は「沙田神社一之御柱」で、かなりの大きさです。
 境内の隅に「御柱献木者芳名」碑があります。読むと、予備知識通り、「御柱は波田町からの寄進」でした。

沙田神社の本殿 拝殿の内部は、通常は扉が閉まっているので見ることはできません。ここでは、例祭日に撮った、天保四年の絵馬や輪島塗の奉納額が懸かっている写真を載せてみました。最奥が本殿ですが、渡殿が長いので扉しか見えません。

 拝殿前にある『沙田神社略記』で、祭神が(出が脱字という)彦火々見尊(ひこほでみのみこと)・豊玉姫命・沙土煮命(すいじにのみこと)とあるのを読んでから、本殿が仰げる場所に立ちました。

沙田神社本殿 神明造の本殿は千木が「内削ぎ」なので、主祭神は女神の豊玉姫命になるのでしょうか。しかし、“沙田”の神社名から、豊玉姫より「沙土煮命」との関係が濃厚と思われます。それより、「諏訪の神様を祀っていないのに御柱を建てるとは何事か!?」との思いが大きくなります。ここで、生半可な知識で“追求”するのも大人気ないので、「御柱がある沙田神社」として参拝を終えることにしました。

沙田神社の由緒

拝殿鬼板 拝殿の鬼板です。神紋は、菱形を三つ重ねたもので「三階菱」と言うそうです。神紋と言うより、社殿の造営に関わった小笠原家の家紋を表に出したということでしょうか。
 その拝殿前に掲げられた『信州三之宮式内 沙田神社略記』から、由緒と祭典の一部を抜粋して以下に紹介します。


由緒 …波田村地籍鷺沢嶽に往昔より鎮座せる奥社その附近一丁(町)七段歩の山林は当神社の御旧跡地として、毎年例祭には該山より萱を刈取仮殿を造り、萱穂・柳葉六十六本を六十余州になぞらえて邪神を鎮め平げ天下泰平を希(まれ)ねがう神事が古式により行はれ今日に至っている。
祭典 …式年御柱祭卯酉の年・山出式四月中の酉の日・曳建例祭当日。右の御柱祭は社殿建替の意にして、仁寿(にんじゅ)年間より約四百年を経て子々孫々古式豊かに続けられている。

 自宅でじっくり読んでみましたが、「 」の部分がよく理解できません。「萱穂・柳葉…」は、由緒書によくある「引用原典の過省略」が原因で、「なぞらえて」以下に何か抜けたものがあると考えてみました。「仁寿年間より…」は、「仁寿から400年後に御柱祭が始まった」という意にも取れます。それより、仁寿は「851〜853年」ですから、「千二百年を経て(現在まで)」の誤記としてみました。しかし、ここで『略記』を勝手に替えることはできません(毎度お馴染みの突っつきが…)。

 谷川健一編『日本の神々』に、小松芳郎さんが執筆した『沙田神社』があります。以下の文が大変参考になるので、分けて転載してみました。

 例祭はかつて七月二十六・二十七日にいとなまわれたが、現在は九月二十六・二十七日に行われる。この例祭について『式内社調査報告』は次のように述べている。
 「毎年例祭に、鷺沢嶽より萱を刈取来てお仮屋殿(拝殿前にあり)の正面に仮殿を作る。此の仮殿の御神座の真下に大きな桶を置き、この桶に水を少し入れる。由緒不明なれど恒例なり。宵祭典の行事終了し後直ちに古例の神事に移り御神爾を仮殿に遷座し奉る。
沙田神社「御仮屋殿」
御仮屋殿に作られた「仮屋」

 冒頭の「かつての例祭7月26・27日」は、諏訪神社(以下諏訪大社と表記)の「御射山祭」と同日です。そのため、諏訪大社との類似性を見ながら読み進めると、「御仮屋殿の前に萱で仮屋を作る──御射山社にススキで仮屋(庵)を作る」と「本殿から仮屋へ御神爾(神体)を遷座──諏訪大社上社本宮から御射山社の仮屋へ御霊代が遷座」となります。
 また、「奥社(旧跡地)──沙田神社」も、諏訪大社下社の例をとると、余りの遠隔地故に移転した「旧御射山社(霧ヶ峰)──御射山社(武居入)」の関係となります。

 献饌後宮司祝詞奏上。次に萱穂柳葉六十六本を六十余州に数をとり御手祀とし邪神を鎮め平げ天下泰平の神事古式を行う。その次第は宮司以下神職一同神前に座し、先づ宮司萱穂と柳葉数本を執持ちて左右左と祓い次の神職に手渡す。次の神職も同様に祓い次に手渡す。かくて十数回の祓を終り最後に宮司以下神職全員にて四拝八平手を打ち拝礼をなす。次に舞楽の献奏あり終って御本殿に遷座し古例の神事を終る。氏子総代も全員参列する。
萱穂と柳葉
沙田神社の御手祀(御手祓?)

 これを読んで、私が“苦言”を呈した『神社略記』にある「萱穂・柳葉六十六本を六十余州になぞらえて…」の“難解さ”は、「御手祀とし」を省略したために意味不明となったことがわかりました。
 それはそれとして、「萱穂と柳葉数本を執持ちて…」は、諏訪大社下社の遷座祭では「神職が楊柳の幣帛を小分けにしてリレー形式で宝殿に納める」ので、類似性があります。
 これに「御柱」が絡まりますから、“今”でも「沙田神社は諏訪神社」ということになります。しかし、以上の諸事を私が挙げてみても、沙田神社の祭神三柱の座が揺るぐことはありません。

 尚仮殿御遷座の際、他の神饌とともに甘酒と生瓜の切ったものを献饌するのが古例とされている。また神事を七月に行った頃には、二十一日より二十六日迄その山に入ることを禁止されていた。
神饌「甘酒と生瓜」
沙田神社例祭の神饌「甘酒と胡瓜」

 甘酒はともかく、「生瓜を切った神饌」を初めて知りました。何か曰くがありそうですが、その故事はわかりません。
 最後になった「御神座の真下に大きな桶を置き、この桶に水を少し入れる」が“意味深”です。これについては、少し調べてみた「沙田神社の御仮屋殿」をご覧ください。


‖サイト内リンク‖ 「沙田神社の御仮屋殿」

天明4年の沙田神社御柱祭

『菅江真澄民俗図絵』 菅江真澄が書いた『委寧能中道(いなのなかみち)』に、沙田神社の見聞記があります。祭りの様子を具体的に書き留めてあるので、江戸時代の「建て御柱」がどのようなものかがよくわかります。
 信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』から、参考として「神無月の21日」の項を転載しました。読みやすいように“改変”してあります。
 左の絵は、岩崎美術社『菅江真澄民俗図絵(上)』から、挿絵として描いた「沙田神社御柱三本立つ」です。旧暦の神無月は現在の11月ですから、「紅葉」で描かれています。

廿一日 沙田 いさごたと読みて式内の御神なり の神社(かみやしろ)は、松本のほとりに在り、(中略) やおら広前にい(出)づれば、かの押し立てる柱の丈は、五丈七尺に足れるに、大綱小綱四ところ(所)に付けて、其の綱どもを、高き木のうれごと(末毎)に引き掛けて、引き上げん設(もう)けをしたり。
 まず、此の木を伐らんとては、七とせ(年)の先つ年より、願いかね(叶え)とて、釘・かすがい様のもの(※薙鎌?)を打ちおきて、御柱の料と定めて、杣、山かづら(蔓)も斧打ちもらし、こたび(此度・このたび)ぞ伐りて、太山をば曳きい出しける。
 かくて供え奉るに、匠一人出て、手斧所々に、ホトホトと当てて、打ち浄めて去りぬ。かしこ(彼処)の木の股には、案内高く結い上げて、男二人、三人、紅の手拭を横鉢巻とし、采配振り、拍子取り、この声を計り鼓(つづみ※太鼓)に合わし綱よつ(四っつ※4本)ながら、あまた(数多)して引けば、下よりは、叉手と言うものして捧げ上げるに、冴え渡る神無月の空に、身に汗して押し立つるを見る人。
 その昔は引く綱切れて、あまた身を危(あや)まち、身罷れる(みまかれる※死ぬ)もありたりし。木の枝や裂けん、綱や切れなん、いざあなた(彼方)に移りいなんと、こと(異)方に退き離れ群れ立つを見て、いな(否)、さる事は露(にも)あらじ。一ノ綱には神の乗りて坐(おま)しませば、身の精進善からぬ人こそ知らね。内との清らなる心しては、いささかの咎めあらんかはとて身じろぎもせで、一人御柱の横たう下に振り仰ぎたるは、しれもの(痴れ者)かなと、人毎に指差し、男女、幼き童抱えて、遠くに逃げ去りて、こと(異)処に集う。
 程のう押し立てければ、又一つの柱も、引き上げて、みつ(※三本)ながら、ゆめ(努)こと(異)なう立てたる時、皆しぞ(退)きてけり。かくて神の御前に、
うない(髫髪※幼女)女が拾う落ち穂も山となる
栄を祈れ沙田の宮

『菅江真澄民俗図絵』沙田神社の御柱 左は、前出の『菅江真澄真澄民俗図絵(上)』から「沙田神社御柱のひきあげ」です。
 諏訪大社の「建て御柱」は、同じ人力でも、ワイヤーと滑車を利用した現代の「柱建て」をしています。一方、現在でも古式を引き継いでいる「生島足島(いくしまたるしま)神社」と同じ方法が、この見聞記の中に見ることができます。
 また、江戸時代でも“御柱命(向こう見ず)”の男がいて、持ち上げる柱の下に留まる姿が書かれています。「お祭男は、いつの時代でもいる」ということでしょうか。

多くの謎を含む沙田神社

 沙田神社は式内社を謳っていますが、多くの式内社がそうであるように、正確には“比定されている”神社です。それだけ創建が古いということですが、その長い歴史故に(誰も言いませんが)多くの謎を秘めています。諏訪社ではないのに御柱を建て、例祭では彦火々出見尊・豊玉姫命・沙土煮命の三柱を祀っているというのに幣帛が一枚(本)しか上がっていません。また、「信濃国三之宮」というのに、松本藩の地誌『信府統記』の〔島立興〕にある「島立村」には「沙田」の名はありません。“不思議”と言うより、私にはスッキリしない神社に映っています。

三之宮は、産ノ宮? 三宮?

 氏子の一人に訊いたことがあります。地元では「産ノ宮」と考えていると返ってきました。文字としての史料に何かないかと探してみると、式内社研究会『式内社調査報告』の〔沙田神社〕に【神職】の項がありました。ここに載る『三宮神主根元浅澤系圖』の一部です。

此浅沢氏は…筑摩郡稲倉山浅間郷に住居ありて、後に嶋立郷を開き、西之山より三宮の社を御勧請有りて…

 ここでは三社(彦火々出見尊・豊玉姫命・沙土煮命の祭神)を勧請したとあるので、「三宮(さんみや)」とするのが正解でしょうか。試しに、西の方角を地図で見ると、新島々駅の近くに「大明神山」がありました…。

 沙田神社では9月26・27日に例祭が行われます。その見聞記は以下のリンクで御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 「沙田神社例祭見聞記」