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上今井「山神社のお腰掛」 山梨県韮崎市穂坂町

お腰掛 現在でも全国各地に大神神社とか諏訪大社などのように本殿をもたない神社があるが、市内においても「山神社・神明神社・大六天社」などは「お腰掛」と称して木の枠組だけであり、その他にも大石だけで本殿のない神社があるが、これらはみな古い祭祀跡の名残かそれにまつわる信仰からであろう。
韮崎市誌編纂専門委員会『韮崎市誌』から抜粋

上今井山神社参拝 '09.5.13

 字(あざ)「上今井」をとって、上今井山神社としました。名前通りの山中にある神社でした。

上今井「山神社」

 以下は、参道入口にある『山神社の由来』の碑文です。このままでは読めない部分があるので、勝手に調べて読みやすくしました。なお不必要な部分は省いてあります。

 甲斐国巨摩(こま)郡北山筋上今井村「山神大権現」は、慶雲元年(704)に西山大笹池平という地より龍王新町赤坂に鎮座した。その後、神亀元年(724)に神託があり当所湯の沢山に遷座した。
 御神体は五丈五尺(約16.5m)と申し伝えられ、往古より御殿(※本殿)これなく帯縄と称し三十三尋(約55m)の縄を引き、その中央に高一丈四尺(約4.2m)のお腰掛をしつら(設)い、左右に石を立つ、これを「西の王子・東の王子」と称す。
 祭礼前夜より神楽ありて終夜庭燎(ていりょう)を焼(た)く。女人禁制の霊地にして穢火(えか)不浄を忌む。
 祭日未明に、村人軒別に粢粱(粟餅)を苞(づと)にして上組下組二隊に分かれ、これを投げ合い勝敗を決す。世に粢軍(もちいくさ)と言われる所以(ゆえん)なり。

 御神体の「五丈五尺」は、諏訪大社の「一之御柱」と同じ長さです。その長さも気になりますが、「由来」の原典と思われる甲斐国志刊行会編『甲斐国志』から〔山神社〕を転載しました。

一、諏訪明神 上今井村 (略) ○山神 仝村 村南小物成山の中腹に在り。社地方一町許(ばか)り。林中地を掃て祀る。三方に杭を打ち三十三尋の縄を以てして囲む。口を一方に開く。是を御帯縄と称す。当中に高一丈方四尺の枠を立つ。是を御腰掛と称す。その左右に石を立つ。是を西ノ王子・東ノ王子と称す。(後略)

 ここでは「高さ一丈四尺」と書いています。「1丈(約3m)の柱を4尺四方」ですから、『山神社の由来』にある「高さ一丈四尺」は誤記となります。それに気が付く人は皆無でしょうから、ここだけの話としました。

山神社のお腰掛

上今井山神社

 山神社ですから、文政十年の狛犬は「山犬」に見えてしまいます。また、拝殿の後・お腰掛の左右という位置なので、「西ノ王子・東ノ王子」の代理とも思えてしまいます。それにしても奇怪な顔で、お腰掛とともに異界の神社に迷い込んだようでした。
 お腰掛の背後に目をやると、斜面上には小さな基壇があり、一間(1.8m)はあろうかという鉄板製の剣が奉納されていました。

上今井「山神社」のお腰掛 それにしても、何とも説明しがたいお腰掛です。上部から覗き込むと、中央の穴にはイチイの小枝が幣帛として立ててありました。側に丸石がありますが、これは枝を固定する棒を支えるためのものでしょう。


山神社の「縄」 拝殿の右に屋根付の奉納台があります。覗き込むと、大下駄(げた)や縄・ヒモの束が置かれていました。由緒にある「三十三尋の縄」が、今でも奉納という形で残っているのでしょう。カラフルなヒモは、彩度の低い景観に少しでも彩りを…、ということでしょうか。

山神社「神楽殿」 往時には横目で眺めただけの神楽殿に寄ってみました。社殿の周囲を回ると、その左右に「東王子・西王子」を模したような「木の柱」が建っているのに気が付きました。
 参道脇にも単体の柱が見られますから、単純に回向(えこう)柱を連想してしまいます。韮崎の神社には同じような柱が境内に立っているのがよく見られますが、諏訪の「御柱」と違い「囲む」という設定ではありません。「所変われば」と言いますが、何とも不思議な光景でした。

 平成25年になって、4月17日の例祭で奉納される神楽を見学しました。気になっていた「東西の柱」ですが、…単に幟旗を固定するための柱とわかりました。

三十三尋ノ縄

 『韮崎市誌 下巻』〔生活〕の章に、[年中行事]があります。

山神社祭 四月十七日穂坂町上今井の山神社の祭典は、一般には「お山の神さん」として親しまれ、大山祇命を祭る養蚕の神で、守礼を戴いて蚕室に掲げる。また、鼠除けにお縄一房借りて、翌年倍にして返すならわしがある。祭りには、近郷養蚕家の参拝が多い。

 「三十三尋ノ縄」は「ネズミ除け」でした。しかし、私とすれば、かつての神事の名残が「形を変えて残っていた」と思いたいのですが…。