諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

神原神社と神原神社古墳 島根県雲南市加茂町神原 29.8.10

 平成19年に神原(かんばら)神社を参拝しましたが、その記録をまとめきれずにいました。平成29年に出雲の諏訪神社を巡拝したのをきっかけに、写真をハードディスクから引っ張り出し、脳から記憶をたぐり寄せて『神原神社参拝記』を綴ってみました。

神原神社と神原神社古墳
神原神社古墳(移築復元)space神原神社space赤川堤防

神原神社とは

魏志倭人伝
光緒13年冬江南書局重版本

 写真は、神原神社の拝殿に置いてあった、加茂町教育委員会『神原神社古墳』のリーフレットの一部です。何かの役にたつと捨てずにいましたが、ようやく日の目を見ることになりました。
 漢字の羅列は、『魏志倭人伝』です。マーキングした「景初二年」と「卑彌呼」から、神原神社がどのような神社かを思い出した方も多いと思います。
 裏に神原神社の情報が少しだけあるので、〔古墳の概要〕から一部を転載してみました。

 この古墳は大原盆地を流れる赤川左岸の微高地突端にあり、墳丘上には『出雲国風土記』にみえる式内社神原神社の本殿が建っていた。このあたりは斐伊川の中流域、(略)
 神社の記録によると、慶長年間以来たびたび社殿の増改築が行われており、最近では昭和初年に墳頂部を削平して本殿の改築がなされ、そのおり深さ1mあまりのところで石室の蓋石につきあたったという。

 同じく、〔出土品〕の一部です。

三角縁神獣鏡 中国製の青銅鏡で面経23cm。鏡背に四神四獣が表現され、銘帯には次の41字が鋳出されている。

景初三年 陳是作鏡 自有經述 本是京師 杜地
吏人之 位至三公 母人之 保子宜孫 壽如金石兮

は不明)

 中国三国時代の『魏志倭人伝』によると、邪馬台国の女王卑弥呼は、この年(西暦239年)に魏王より各種の賜物とともに銅鏡100枚もらい受けたと記されているが、この鏡はその時の1枚であった可能性が強い。景初3年銘の鏡は大阪府の黄金塚古墳の出土品に次いで、これが全国で2枚目の発見である。

神原神社古墳出土「景初三年」三角縁神獣鏡 ということで、卑弥呼がもらい受けた鏡の一枚ではないかと“大騒ぎ”になったのが、神原神社の“床下”から発掘された「景初三年」銘の三角縁神獣鏡です。ここでは、撮っておいた展示写真を切り抜き、着色して紹介しました。径23cmの“本物”は、島根県立古代出雲歴史博物館で常設展示しています。

神原神社参拝

神原神社 駐車場が見当たらなかったことで、神社の周辺を走り回ることになりました。やむなく堤防道路脇にあった待避所を利用しましたが、結果として、冒頭の写真を紹介できたことになりました。
 改めて鳥居をくぐると、すべての神社を巡ったわけではありませんが、出雲では典型的な神門と拝殿がありました。それに極太の注連縄ですから、遙々(はるばる)「八雲立つ地」に立ったという何か高ぶるものを感じました。

神原神社本殿 神原神社へは、参拝というより、卑弥呼の鏡が発掘された神原神社古墳として駆けつけました。
 そのため、目を転じればそこが神原神社古墳というシチュエーションですから、弥生時代の青銅器が放つ緑青ブルーに限りなく神秘なものを感じてしまう私は、とっくに“神より鏡”という状態に陥(おちい)っていました。拝礼もそこそこに、覆屋の下にある古墳へ向かいました。

神原神社古墳

 探しても、石室の写真がありません。当時のデジカメは電池の消耗が早かったので、移築復元という状態とあって撮らなかったのかもしれません。その代わり、覆屋に展示してあった写真を用意しました。

神原神社古墳発掘写真 オリジナルがすでに変色していたのか、展示中にセピア色になったのかは不明ですが、貴重な発掘中の写真です。
 右の拝殿とそれに連結した渡殿が残っているタイミングで撮った写真ですが、すべての社殿が撤去された写真もありました。

神原神社本殿 同じく、「昭和4年以前・墳丘上の本殿」とある写真です。しかし、上写真と(旧社殿を復元新築したと思われる)現在の社殿を比べれば、“何か違う”というのが私の感想です。
 他の神社の古写真と取り違えた可能性を思いますが、「墳頂部を削平して本殿の改築がなされ」とあるので、当寺の社殿は、写真のような本殿のみだったのかもしれません。

 今「本殿の後方、北西の山中にあるのが、一ヶ所から銅鐸39個が発掘された加茂岩倉遺跡です」と書きましたが、9年前は、神原神社古墳との位置関係が頭にないまま、次の目的地である加茂岩倉遺跡へ向かいました。

神原神社古墳発掘前の航空写真

神原神社「航空写真」 発掘前ということで、国土交通省『国土画像情報』で探すと、昭和40年8月3日撮影の航空写真がありました。手前の集落構成から、正に村の鎮守様と言えるのが見て取れます。
 衛星写真と比較してみると、現在の社殿はやや右に移ったことがわかります。発掘とその保存の長期化で、旧地の隣に新しく社殿を造営したと考えてみました。

神原村の神宝は、加茂岩倉遺跡の銅鐸!?

 『雲陽誌 巻之六』〔大原郡〕から、[神原(村)]の一部です。

 古老伝曰(つたえていわく)天下を造所の大神の神御財(かみのみたから)を積置たまう所なり、則(すなわち)神財(かんたから)郷と謂(いう)べきを今の人あやまりて神原という、【風土記】に載たり、

神寳明神 【風土記】に載る神原社なり、本社五尺四方南向なり、慶長十六年正保三年造立棟札あり、磐筒男(いわつつお)磐筒女(いよつつね)命をまつる、年中四度の祭礼十月十日大祭なり、

 「神宝を積置いた」から、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸を連想しました。

加茂岩倉遺跡
「加茂岩倉遺跡」space発掘された銅鐸(レプリカ)

気になって[岩倉(村)]を開くと、

 民家の西に高さ三丈横七間計の岩窟あり、里老語て云う、むかし神原村に長者あり、此窟を宝蔵とせり、故に岩倉と号す、

家守明神 社なし、瑞籬ばかりなり、(後略)

「(神宝収蔵庫がある)神原村の長者が、岩倉村の岩窟を宝蔵とした」という意味深な伝承を書いています。加茂岩倉遺跡の銅鐸が神原村から運ばれたとすれば、窟ではなく土中に埋納という違いはありますが、『風土記』時代からの言い伝えとすれば、かなりの“精度”です。

 神原神社古墳と加茂岩倉遺跡をマイマップに表示させてみると、直線距離で約1.9km(Googlemapで測定)です。
 まったくの思い付きというここまでの流れですが、予想外の近距離に、あながち見当外れではないことが“実証”できました。
 神宝の管理者が、侵入者に備えて神宝を隣の岩倉村に避難させた。または、横流しで隠匿したとすれば、神原村に神宝が存在しない理由が付き、出雲千七百年の話として興味が尽きないことになります。