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新井駒形社(駒形神社)の石祠 茅野市湖東 21.7.25

 米澤村村史編纂委員会『米澤村村史』から「鬼面の石祠」です。

(略) 米沢地区に隣接する湖東地区新井の駒形神社の石祠には、「寛元二年申辰正月」(1244)と彫られている。この石祠の建造年代が明瞭なのは、土中に埋没していたものが後世に掘り起こされたというので、風雨による浸食が少なかったからである。一二四四年というと鎌倉時代で、かつての大塩の牧当時のものであることから、湖東と同様に大塩の牧が一望できる塩沢・北大塩の高台に建つ鬼面石祠(北大塩区瀬神社境内)も、その頃ではないかと推測される。
 駒形神社の信仰は、馬の像そのものを崇拝するものであり、鬼面の石祠は馬に関わりがあり、鬼面の籃塔は牧の馬が死んだ場合の供養塔のようである。(略)

石祠の鬼面 ここに「鬼面」が出てきたので、少し書いてみました。右は、茅野市鎮座の塚原鎮守神社にある境内社の「鬼面」です。「陰影がハッキリして立体感がある」という選んだ理由は別として、破風の妻飾りとして彫られた「鬼面」は、道祖神の祠にもよく見られます。これは魔除けとするべきで、馬との関わりはないでしょう。そのことより、古いものを何よりも尊(たっと)んでしまう私は、「鎌倉時代の石祠」に強く惹かれました。

新井鎮守「胡桃沢神社」

 古祠見たさに、それがどこにあるのかわからないまま湖東区の新井へ出掛けました。道端で「駒形神社は、胡桃沢(くるみざわ)神社の境内にある」と聞き、諏訪市の湖南真志野(こなみまじの)にある、御柱を8本(二重に)建てる同名の胡桃沢神社が頭に浮かびました。両「胡桃沢」の関係も気になりますが、今は駒形神社です。

胡桃沢神社
新井鎮守「胡桃沢神社」

 ところが、その境内には該当する祠はありません。仕方なく、川に沿って旧家が続く道で、目に付いた人から順に聞き取りを始めました。これで「上がり!」を確信しましたか、皆さん一様に「知らない」と言います。その中で、ようやく話に乗ってくれる人がいました。「名刺無しで来れば、警戒して誰も話さない」と初っぱなからお小言を頂きましたが、それでも“この土地の事情”を話し終えると、私の「望み」を受け入れてくれました。ところが、「祠は津島社の中」で、扉を開ける呪文は「(胡桃沢神社の)宮司の紹介」でした。

 一人の男性が近づいてきます。新井地区の有力者らしく、私に「郷土研究家」と恥ずかしくなるような肩書きを(勝手に)付けて、盛んに「私の望み」を取り次いでくれました。その最後に、私にはすでに付け加えることが残っていないので、「よろしくお願いします」と頭を下げました。
 強力なバックアップのお陰で、津島神社の社殿内にあるという石祠の写真を見せて貰う手はずが付きました。しかし、家まで付いていきましたが見つからず、後で連絡するということになりました。色々とありましたが、この場所に「たまたま集まった3人」ですが、まさに駒形明神が導いてくれたとしか思えない出会いでした。

760年前の「駒形神社の石祠」

 彼らの顔がおぼろげになった頃、「写真が見つからないので、代わりに資料からコピーした」と連絡がありました。さっそく、缶ビール6本のカートンを下げて駆けつけました。
 資料を頂いた時に「佐久諏訪電気鉄道の線路工事で駒形神社の祠を胡桃沢神社に移したが、その下に大きな室(むろ)があった。神社に関係するものか、ただの(野菜)貯蔵庫かなのかは不明」「祠は長らく胡桃沢神社の境内社・津島社の床下に置かれていたが、現社殿の新築で中に納めた」と話がありました。下が、その史料から切り取った祠の写真です。

駒形神社の石祠

 左の「寛元」は、チョークをなすって文字を見やすくした、と説明があります。他の資料には、「正元元年(1259)」とだけある石祠の存在も書いてありました。
 この写真を見て、現在の「流造」と似たような造りであることに驚きました。これでは屋根の形などで時代を推測するのは不可能です。『諏訪史料叢書』の〔金石文〕には、この二棟の祠は載っていませんから、「後の時代に造り直した時に、旧祠の銘をそのまま写したのではないか」とも思ってしまいます。ただし、この大きさの石祠で真っ先に破損紛失するのが屋根を支える向拝柱なので、「セット」で残っているのは「土中に埋没していた」結果と言うのは頷けます。

駒形神社旧跡地

駒形神社旧跡 「胡桃沢神社の下100m・ビニールハウス・右が駐車場」が駒形神社跡と聞いていたので、写真を撮りに出かけました。
 ただし、正確な場所を指せませんから、安全率を掛けた広範囲をカメラに収めました。“ビニールがないビニールハウス”の先端と、わずかに写った家の間に「白く」見えるのが「軌道(線路)跡」です。湖東小学校の校庭沿いの道で、今でも「電車道」と呼んでいるそうです。

『湖東村史』に見える「駒形神社」

 図書館で、昭和36年発行という湖東公民館刊『湖東村史』を見つけました。セピアを通り越した茶色に変色しているのはやむを得ないとしても、ページをめくる毎に独特の匂いが鼻をつきます。これだけ変質したのは当時の“紙事情”だろうか、と息を止めて「駒形」に関する項目を拾いました。

 馬の神様は駒形・蒼前(そうぜん)・馬頭観世音の三種があった。駒形の信仰は馬の像そのものを直に崇拝するもので、最も原始的な信仰である。嘉禎3年(1237)の『根元記』に「北大塩 十五諸大明神・山大明神・タキノコンケン・キタリ所権現・ミツノ御山・コマカタ明神」とあり、北大塩に駒形明神の鎮座することを記している。
 蒼前は元中国の馬の神様である。蒼前は一体葦毛四ッ白の事で、中国では之を馬の霊異なるものと認めておった。この信仰がいつ頃日本に入って来たかよく分からないが、東北地方はこの信仰が一般に普及している。湖東地方でも明治の頃までは、厩の神様をソウデン様と云い、之を崇拝しておった。ソウデンはソウゼンの訛りである。馬頭観世音は仏教渡来以降に崇拝された仏様であり、(後略)

 『湖東村史』は謄写印刷なので手書きです。「蒼前」は「馬偏の聡と揃」になっていますが、変換できないので一般的に用いられる「蒼前」にしました。調べると、「チャグチャグ馬コ」で知られる「蒼前神社」がその代表格でした。「葦毛四ッ白」は正確には分かりませんが、ネットの検索で「足は白毛だが、体は白い毛に黒色や濃褐色などの差し毛がある。8歳に達すると白馬になる」としました。

 新井には、今から約七百年前大塩の牧に勤仕した人々が祀ったと思われる駒形社が残っている。しかし、今の部落の祖先の人たちが村づくりを始めたのは、それから四百年も後のことだ。昔、大塩の牧がおかれていた頃には、人も住み家もあったのがいつしか絶えて、新しい百姓がよそから移り住み、新しい村をつくったのである。
 新井(荒居・荒井とも書いた)の新しい開墾の始まった年は、承応二年(一六五三・諏訪郡村々新田御改高)か、明暦四年(一六五九・諏訪郡諸村並旧蹟年代記)だといわれている。いずれにしても、一七世紀のなかば過ぎということで間違いはないだろう。(後略)
 農業に縁の深い馬を祀って、日本各地の馬産地に駒形社がある。(略)新井胡桃沢社境内の駒形社は、大塩牧に働いた牧人が祀っていたのを、江戸時代に新井新田の草分けが再興したのだ。ほっち(発地)が沢・はなまき(花牧)原・野馬取(逮)沢・市在など、牧にゆかりのある地名に囲まれたこの地に、駒形社があるのは偶然ではないだろう。

 『南大塩の歩み』には、「発地とは、貢馬の馬を集めて京都に向かう出発点の地名であるといわれる」とありました。

大塩の駒形神社(国史跡 駒形遺跡)

 「佐久諏訪電気鉄道」や「大塩牧」に興味がある人は自分で調べてもらうことにして、後日「大塩の駒形神社」を撮りに出掛けました。

北大塩駒形神社

 何と、「国史跡・駒形神社」とある標柱が立っています。「誰に断って勝手に」というのは冗談ですが、それほど、ここ大塩に「国指定史跡」があるのが意外でした。その裏には、つい最近の「平成10年指定」とありました。「石祠一つの駒形神社が史跡とは」と、国の“椀飯(大盤)振る舞い”に驚きましたが、後で、神社ではなく「史跡・駒形遺跡」の読み違いであることに気が付きました。また、周囲の休耕田は減反ではなく、国が買収した土地と知りました。
 余りの暑さに、背後にある桑の木陰に入って、この辺り一帯が官製牧場「大塩牧」だったのか、と眺めました。写真の右端に、田んぼの畦に小さく黒く見えるのが「諏訪明神駒繋ぎ石」でしょうか。その前の道を下ると「史跡・行屋跡」がありました。