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皇大神宮社 茅野市安国寺 23.7.26改

 茅野市から杖突峠越で高遠に向かう国道152号は、いきなり急坂で始まります。その登り口にある安国寺の集落は、平成10年にバイパスができてからは「ひっそり」という言葉が書けるほど車の通行がありません。

皇大神宮社と安国禅寺

 「安国寺」の信号からその旧国道に入ると(写真では左から右)、道沿いに安国禅寺の鐘楼門が現れます。その左にある鳥居が「皇大神宮社」ですが、鐘楼門の存在感が余りにもありすぎて、「皇大神宮社の参拝」という目的意識がないと目に入らないかもしれません。
 鳥居脇にある案内板です。

皇大神宮社
 江戸時代の諏訪藩主手元絵図には、この社は「鎮守」と記されている。安国寺村の産土神であったことをうかがわせ、祭神は天照大御神である。一書によれば諏訪明神・秋葉神・妙義神・三宝荒神・金毘羅神・北野天満宮・愛宕神・水劔神など諸神を合祀したとあるが、境内には御鍬社と天満宮の石祠があり、元禄十六年(一七〇三年)の石燈籠二基が現存している。明治二十六年に拝殿が建設され、例祭は九月十七日であった。十月一日の甘酒祭は村中を楽しませ、子供たちによる火祭の場所でもあったが、戦後しばらくして廃絶した。
昭和五十四年八月 安国寺史友会 

皇大神宮社 樹下と板垣に囲まれた環境に暗さと湿気を感じます。その中央の基壇上に並んだ祠二棟ですが、どちらが案内板にある「御鍬社・天満宮」なのかわかりません。
 それより、身舎が、諏訪では「籃塔(らんとう)」と呼ぶ形であることに違和感を持ちました。籃塔は墓地に見られる「屋形塔」のことで、屋根は方形の「入母屋造」ですから向拝柱はありません。籃塔は個人または両親を祭るもので、中に石像が納められているのが基本だそうです。訓読みが「かご」なのは、見ての通りということでしょうか。籃塔の説明にそれてしまいましたが、やはり、屋根は神式の「流造」ですが身舎が籃塔とは、神祠としては異様です。これが本来の姿なのでしょうか。向拝柱は後世の補完とわかりますが、身舎は長い歴史の中で「入れ替わった」としか考えられません。
皇大神宮社の灯籠 案内板に書かれている二基の燈籠があります。形はうり二つですが、(多分)安山岩とアズキ色が特徴の神宮寺石です。
 竿(柱)の銘を読んでみましたが、その部分が石垣側にあることや、文字が所々えぐり取られているのでよく判読できません。写真に撮って自宅で検証することにしました。
 灯籠の竿は自然石の上にコンクリートで固定されていますから、台石は失われたようです。「この辺り一帯が湖になるほどの大洪水が何回もあった」ことを思い起こすと、台石は大破または行方不明、竿のキズは流れてきた大石が当たった跡とも思えます。この祠も同じ運命(濁流)に洗われたはずですから、「復興時に行方不明の身舎を籃塔のものと入れ替えた」とする一つの作為が「私の疑問」に答えてくれそうです。もちろん、このような形状の神祠もあり、私だけが疑問に思っているのかもしれません。


 〔泰平山 安国禅寺の由来〕では「度重なる宮川の氾濫と戦乱によって次第に衰微した」〔安国寺前の古戦場〕では「安国寺門前のこの辺一帯で両軍の大激戦があり、七百余人の戦死者を出して」と、それぞれ安国寺境内と向かいの道脇にある案内板が訴えています。しかし、全身に感じる“頭上の脅威”下ではその惨状まで思い及ぶ余裕はありません。前宮までの帰り道で再び頭を焼かれ、シャツとズボンが体に貼り付く不快感を思うばかりでした。

元禄十六年の灯籠

 自宅で竿の銘を読んでみました。一部削れていて読めない文字もありますが、二基の灯籠を見比べて、案内板にある「元禄十六年」が確認できました。ここでまた「?」が浮かんできたので、比較できるように並べてみました。「…」はコンクリートで覆われていて、「」は障害物があって見えない部分です。
 右「元禄十六癸未 奉造立御前二燈之内… 正月十日」
 左「元禄十六  奉彫刻御前二燈之…… ……………
「二燈之内…」から二基の灯籠がペアで造られたのはわかりますが、なぜ「造立・彫刻」「寶(宝)前・神前」と書き分けたのでしょう。しかし、一番の謎は「奉彫刻」です。こんな銘文は初めて目にしました。更に謎を深めているのは「六正月」です。思いがけない“伏兵”の出現に、これらをどうまとめようかと悩みました。

奉彫刻
 ネットで検索すると、“普通”に表示しました。皆さん石造物の銘文をそのまま書き写しているだけなので、何の疑問も湧かないのでしょう。意味は「字の如し」でしょうが、現在の灯籠には彫刻と言えるようなものは見当たりません。当時は「造立・彫刻」は同じ意味で使われていたのかもしれません。

二燈之内… 奉納したのは二名か二団体(またはその複合)と推定できます。コンクリートの接着剤を剥がせば解決できそうですが…。

皇大神宮社「天正月」「天正月」 左写真は、右側の灯籠を「元号年干支・月日」で並べたものです。右は「元禄十六癸未」で間違いないでしょう。左は「六」の上が削れていますが「天正月十日」と読みました。左側の灯籠が「元禄十六天」になっているからです。
 初めは「天正月(てんしょうがつ)は旧暦11月の異称」としましたが、何か腑に落ちません。私にとっては初見の「天」をネットで調べると、意外にも極普通に使われています。比較すると「年と天」が同義語のようなので、ここでは、年の代わりに「天」を使っていることになります。
 こうなると紀年銘の“文法”では「元禄十六癸未天(年)」となるはずですが、その「天」が月日の上に跨がっています。空きスペースが十分あるのに、なぜこのようなレイアウトにしたのでしょう。目をつぶってしばし天を仰いだ後、「字数を合わせた」のではないかと脳内の豆球が光りました。しかし、数えると「6・5」で揃いません。改めて一字ずつ眺めると、「正」を「十一」と読むことで計算が合います。その気で見詰めると「十一」で間違いないように見えるから不思議です。以下のように修正して清書しました。

 元禄十六癸未
奉造立御寶前 二燈之内□□
 天十一月十日

 左の灯籠は「元禄十六天」と彫られています。干支と天(年)が入れ替わるのはよくあるので「癸未十一月十日」となっていると思われますが、写真では円筒の周辺部なので判読できません。字数から見て間違いないようですが、これでは「5・7」という配列になってしまいます。こちらには「見た目のバランス」が適用できないので、「奇数で合わせた」とこじつけるより他ありません。結局、「今まで何を書いていたのか」ということになりました。

 元禄十六
奉彫刻御神前 二燈之内□□
 癸未十一月十日

 結論として、「造立・彫刻」「宝・神」とあるように、「二燈の差別化を図った」と考えるのが妥当としました。すっかり「天に振り回された」私(とこれに付き合ってくれた閲覧者)ですが、「よくここまで紹介してくれた」と御利益を期待しても、相手が灯籠とあっては「余り突っつくな」と小言をもらうだけでしょうか。
 失った時間は余りにも大きかった…。

『安国寺区誌』

 安国寺区誌作成委員会『安国寺区誌』は、「村の鎮守」に「安国寺区の鎮守は皇大神宮であり、祭神は天照大御神と伊邪那岐神である」と書いています。続いて「安国寺村鎮守のいわれ」として、「明治の初めに県へ上申した資料によれば」として以下を挙げています。

 当安国寺村社は皇大神宮伊雑(いざわ)皇宮二神を祀る所にして、(中略)降て暦応二己卯年、勅詔を以て安国寺を建置せらるるや伊雑皇宮を同寺にて深く信仰し、干沢城の除災を祈願し修行す。故に例祭神事共全て同寺の攝兼(兼摂?※兼務)に皈(かえ)す。(中略)
 
文明十四壬寅年五月二十五日より、り霖雨洪水のため上川暴漲(ぼうちょう)、安国寺塔堂悉(ことごと)く流亡。依って官現今の地をとし安国寺再建す。其の時寺域の西北隅を晝(ちゅう)し神殿を建て、伊雑皇宮並に皇大神宮を遷座し以て合わせ祀る。現今の社壇之れなり。是より当社の神事挙げて安国寺兼摂す。(中略)
 寛永元甲子年月日不詳大洪水、社壇並に安国寺建物再び流亡既に廃絶に皈せんとす。(中略)同十八年辛己社壇再建稍(やや)旧慣を存せり。(中略)伊雑皇宮は俗に御鍬様と称し耕作の守護神にして里民厚く信仰し、(後略)

 「神社の例祭・神事共全て安国寺の兼務」とあるので、前述の“籃塔風神祠”も「ありかな」と許容しました。寺方が神祠を造ると「こうなる」ということでしょうが、そうはいっても…。もしかしたら、全国でもこれが唯一の事例かも知れません。
 案内板には「境内には御鍬社と天満宮の石祠があり」と書いてありますが、『ここ』に「伊雑宮(=御鍬様)・皇大神宮を合わせ祀る。現今の社壇これなり」とあるので、二棟の祠は「伊雑宮・皇大神宮」そのままで良いと思えます。しかし、前宮周辺の古蹟に全て足跡を残している「安国寺史友会」の言動(案内板設置)は重みがあって完全に否定できません。

「皇大神宮社絵図」 『安国寺区誌』の「第三節 鎮守」にある「皇大神宮絵図(安国寺区蔵作者不明)」とある絵図です。明治26年に造られた拝殿が描いてあるのでそれ以降の時代でしょう。「時代は明治」とあって関心は薄かったのですが、皇大神宮社の右に祠()があることに気がつきました。
「皇大神宮社の境内社」 鳥居は現在ありませんが、絵図には「木祠」で描いてある場所に、御柱が建つ石祠があります。身舎の裏に「昭和四十三年十月・安国寺中」と彫られていますが、現時点では社名不詳です。
 案内板に「諏訪明神以下の諸神を合祀したとある、」と「疑問」を投げかけているような記述があります。境内社を主祭神の祠に合祀するのは無理がありますから、この祠を「境内社の総社」としました。これで、私(だけ)がこだわる多くの謎が解けたように思えました。