諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

熊野神社と応永の狛犬 山梨県西八代郡市川三郷町

 「日本最古」を謳う場合は、その前に「◯◯では」と付けるのが一般的でしょうか。これで、多くの“古”が「最古」と名乗りを上げることができます。

 ネットで「日本最古の狛犬」を見つけました。これには「国産・石造・銘のあるもの」などの冠詞が付いていました。狛犬については「神社の付属品」程度の興味しかありませんが、それでも、たった二文字のキャッチコピー“最古”には逆らえません。すっかり惹きつけられてしまいました。

熊野神社と狛犬
熊野神社本殿の蟇股「獅子」

 その狛犬が“棲む”三珠町が合併して市川三郷町になったと知ったので、改めて「市川三郷町 狛犬」で検索すると、多くのサイトやブログが表示します。写真もかなりの量に上(のぼ)るのでわざわざ見学に行く必要がないくらいですが、それでも自分の目で見たいという欲求には勝てません。
 長野県の諏訪でも、富士見町・原村は隣が山梨県ということもあって、酒宴の席では「石和(いさわ)温泉」がよく話題に上ります。その方面の“自慢話”には興味がありませんが、高速道路が開通してからはさらに身近となっている山梨県なので、さっそく出かけることにしました。

 その前に「最低限の知識を」ということで、文化11年に成立した『甲斐国志』に“このこと”が載っているのか探してみました。以下がその抜粋です。
〔熊野権現〕大塚村
黒印社領一石五斗八合、社地本宮二千八百八十坪、新宮龍口千九百三十二坪、那智淺利村境熊野原千二百九十六坪、除地供典一石、祭礼田三段三畝十五歩、新宮社地の下に神田と称する所四町許りあり、是處昔の神領なりし由、那智社に石造の狛犬一対を置けり、銘に応永十二乙酉年(1405)大公性見、小公藤次郎と刻せり、
甲陽図書刊行会『甲斐国志』

 大塚村の熊野権現には「本宮・新宮・那智」の三社があるので、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を村内各地に勧請したことがわかります。その中の那智社にその狛犬の記述がありました。

熊野神社

 前日降った久しぶりの大雨が原因か、境内の土は水が浸み出してきそうなほどの弾力性があります。それをそっと踏みしめながら、拝殿の前に立ちました。「みたまの湯」から歩いて来たので、下写真では手前から境内を横切ったことになります。

熊野神社

 拝殿の下部がコンクリート製で渡り廊下の壁もモルタルなのが残念ですが、耐久性を考慮すればやむを得ないところでしょうか。
熊野神社本殿 大棟に武田菱が飾られた本殿を周回しながら観察すると、身舎(もや)側面の蟇股に、甲羅があるので亀と思われる彫刻があります。反対側には存在していませんが、剥がれた跡があることから「蟇股状の彫刻」であることがわかりました。瑞垣と同じように各所で傷みが進んでいるようですが、熊野神社の“ウリ”は「最古の狛犬」です。“アラ”を探すことは止めて、その狛犬を見下ろしました。

応永の狛犬

熊野神社と狛犬 上の写真では反対になる方向から、身舎の前に陣取る二頭の狛犬を撮ってみました。鉄筋の檻で囲ってあるのが異様ですが、狛犬が夜な夜な徘徊するのを止めさせるためではないことがわかります(噂はありますが)。ワイド側で撮ったので、手前の狛犬は、肉眼で見るよりややデフォルメ化しているかもしれません。

熊野神社と狛犬 上写真では奥に置かれている狛犬です。色が残っているのがよくわかりますが、右足がありあわせの“義足”であるのが痛々しく映ります。前に置かれた石塊が折れた足のようなので復元できる可能性もありそうですが、「町」指定の文化財では現状を維持するだけで精一杯ということかもしれません。銘の通りだとすれば「六百才の狛犬」となりますから、何回も本殿の左右に周って見つめました。
 境内や山際の斜面には、大型の石祠が目につきます。小型の石祠もおびただしい数に上がるので、明治期の合祀によって、村内の神社にある境内社がここに運び込まれたということがわかります。

熊野三社と熊野神社の狛犬

 旧三珠町役場で現在は役場三珠庁舎に近接して図書館があるので、熊野神社と狛犬の詳細がわかれば、と寄ってみました。以下に、三珠町誌編纂委員会『三珠町誌』の〔神社〕と〔文化財〕の章から熊野神社と狛犬の記述を拾ってみました。

熊野三社(大塚南区)
▽ 祭神 伊弉冉尊 御一座
▽ 本殿 竪八尺五寸、横七尺
南熊野宮(大塚、道林)
▽ 祭神 速玉男命 御一座
▽ 本殿 竪四尺、横三尺
北熊野宮(大塚北区)
▽ 祭神 事解男命 御一座
▽ 本殿 堅三尺、横三尺
(右神前に石之駒犬二つ之有、年号応永十二已酉年二月
大公惟見 小公藤二良と銘之有候)
(中略)
 以上の通り慶応四年には建物も南熊野社、北熊野社と別宮になっていたが、明治四十三年に道林の神田北区の北熊野宮を、東村の現在地に合祀し 盛大に祭典を挙行することになり、さらに大正三年十月には本殿の屋根を銅瓦に茸きかえ、ついでに、三社合祀の碑を建立した。
(碑文は省略)
 くだって昭和四十九年、金川曾根広域営農団地農道整備事業で、境内の東部を道路が通ることになり、神域の樹木を数十本伐採したために著しく風致を損した。そこで拝殿のいたみも甚しかったので木材及び寄附金をもって現在の拝殿を新築し、三月吉日を選ぴ盛大に祭典を執行した。
 旧、北熊野社にあった石の狛犬像も明治四十三年に東村の現在の熊野社本殿前に遷し、昭和四十九年三月、拝殿竣工を機に金網をかけた。(中略)
 随神門には木造の随神さんをお祀りしてあるが、けだし町内随一といえよう。拝殿左手の木祠や、弁財天の石祠も立派なものであるし、枝垂れ赤松等年代を経た樹木が無言の神徳を伝えている。

 『甲斐国志』では「那智社」ですが、ここでは「北熊野宮」になっています。また、石工の名前が「惟見・藤二良」と違いが見られます。

彫刻 熊野神社の狛犬 この神社の本殿前にある一対の石造狛犬(こまいぬ)は、前足が折れているが、これはもと那知杜にあったもので「応永十二乙酉二月一日」(一四〇五)の刻銘をもち、年号をはさんで右に「大公性見」左に「小公藤二良と示されている。高さ一尺三寸余(四二センチ余)硬質な安山岩製、一見はなはだ古風なこの狛犬は前足を前に張り、顔を正面に向けて突っ立つ東大寺式のものとは相違して、体を前方にぐっと乗り出した形態はむしろ犬に近い。顔面の様子といい、極度に太い前脚といい、粗削りの感がある。しかし首に垂れ毛、尾の盛り上がった旋毛の具合などから、笑えない古拙への親しみがわく。
 古い時代のものは、その例少なく熊野神社の狛犬は、在銘遺品としては全国的にも屈指のものである。東大寺の石獅子をへだたること約三百年、この間に日本化されたというよりは、むしろ別系統と見るべく、狛犬の原始型を知る上に重要な遺物である。
 「大公性見」「小公藤二良」はこれを作った「大工」を「大公」と書き「小工」を「小公」としたのである。これは「石工」を「石巧」と記した天明二年の長昌院の宝匡印塔(南区)と同様であろう。木造建築に限らず、金属工芸でも、石造美術関係でも同じことであるが、製作者を「大工」といい、そのもとに「小工」があって実際の仕事に当たった場合が多い。
 上述のごとく、狛犬の原始型であり、しかも在銘としてはわが国屈指という点後世に伝えたい逸品である。
(山梨県政六十年誌から) 

 これを読んで、称号を思い浮かべた「大公・小公」の意味がわかりました。

熊野神社の狛犬(大塚)
 熊野神社には、現在三十三社が合祀されているが、この狛犬も元は北原にあった那智社に奉納されていたものだと言う。
 那智社のあった北原は、その当時、松、杉、檜などのうっそうとした森林におおわれており、森の中は真夏の真昼でもなお暗く、ひんやりとレていて、那智社を祀るにふさわしい森であった。近隣にもない那智社の森の大木は、良くきこりにねらわれて、盗伐されることがしばしばあったが、その都度、狛犬がほえて盗人を追い払っていた。
 ある秋の月もない夜、盗伐に入ったきこりは、森の中でも一番の大木を伐り倒そうと一心に斧を振っていた。里からは離れていても、斧の音が森にひびき、きこりは気があせった。と突然、那智社の狛犬がほえはじめた。大木だから仲々切り倒せなかった。きこりは社前にかけ上り、ほえている狛犬に切りつけた。狛犬は前足を切られたが、なおもほえ続けたので、きこりは斧をそこに投げ捨てたまま逃げかえってしまった。
 今、熊野神社にある狛犬は雌雄とも前足が折れているが、これはこの時に斧で切りつけられたものであるといわれている。
小林善英(談)  

 図書館には、民話・伝説『吠えた狛犬』として「樵は祟りで死んだ」など幾つかのパターンがある本や冊子がありました。