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神田千鹿頭神社と林千鹿頭社 松本市神田・林 ver27.3.1

 松本市のシンボル松本城からは東南に当たる千鹿頭(ちかとう)山に、同名の千鹿頭神社が鎮座しています。

神田千鹿頭神社・林千鹿頭神社
広沢寺から見る千鹿頭神社の御柱(内が本殿)

 この写真ではよくわかりませんが、尾根上に本殿が「二つ」横並びに建っています。

(前略) 古は先の宮にありましたが、中世には戦乱によって社殿も焼失し、その後、現在地に移されたと伝えられています。元和四年(1618)、当時の松本藩領であった神田村以南の地(東五千石)が諏訪高島藩領に移され、その境界を千鹿頭山の尾根とされた為、現在の位置に社殿を二分する形となりました。
千鹿頭山周辺整備推進委員会

 案内板で“分裂”の経緯はわかりました。そこで、今の世ではどうなのかと『長野県神社庁』のサイトを閲覧すると、

千鹿頭神社 松本市神田1-16-1
千鹿頭社 松本市大字里山辺5203

現在は同じ松本藩(市)ですが、“同名異社”はそのままでした。

千鹿頭神社は、二社並立 22.4.21

 どうせ行くなら「桜の千鹿頭神社」と決め込みました。40年ぶりの再訪となりましたが、当時の記憶はまったく残っていないので、案内板の指図に従って千鹿頭山を周回してきました。

参道も別・鳥居も別

神田千鹿頭神社の鳥居

 二つ並べた写真では、初めに目が行くのが右の神田千鹿頭神社の鳥居です。色や千鹿頭池という景観に左右されますから、左の林千鹿頭神社の鳥居は裏参道として映ってしまいます。こちらにも案内板と灯籠・神庫がありますから、全くの同格です。どちらの参道から行くのか迷いますが、「林さんなら、左」「神田さんなら、右」という程度でしょうか。因みに、注連縄の房は「林5・神田3」ですから、差別化をかなり意識しているようです。

二つの千鹿頭神社本殿

千鹿頭神社「本殿」

 尾根の真ん中に、本殿が、「左・林千鹿頭神社」「右・神田千鹿頭神社」と分かれています。社殿は大きさや造作などが微妙に違っていますが、基本は「一間社流造」です。社殿の詳細は(今のところ)松本市文化財ホームページ『松本のたから』に詳しいので、二番煎じは止めました。その代わり、私の得意な“重箱の隅を突っつく”目でそれぞれの本殿を見比べてみました。

神田千鹿頭神社本殿

神田千鹿頭神社神紋
神田千鹿頭神社本殿

 本殿の大棟に見られる地区名と神紋です。「~田(神田)」は、一目でどちらの本殿かわかるようにしたものでしょう。お参りに行って、よその神様に賽銭をあげられては困ります。右は諏訪大社上社の神紋「諏訪梶」ですが、「○」があるので、「ここは高島藩の領地」を強調する高島藩主諏訪氏の「家紋」と見た方が妥当でしょうか。
神田千鹿頭神社「鹿の蟇股」 本殿身舎(もや)の蟇股です。の部分に、初めは気が付かなかった上写真の右側と同じ「諏訪梶」と、左右に“千鹿頭”神社を意識した「鹿の番(つがい)」が彫られています。周囲には、十月の花札「紅葉に鹿」でお馴染みのモミジがあしらわれています。向拝柱に結びつけられた竹は(軸が黒い)「黒竹」でした。かなり「差別化」を意識しているようです。

林千鹿頭神社本殿

林千鹿頭神社の神紋
林千鹿頭神社本殿

 「林」を図案化した「丸に林」です。「神田に対抗」して掲げたのか「神田に真似された」のかわかりませんが、「林の千鹿頭神社」を強調しています。神紋は旧諏訪神社(現諏訪大社)の分社に多い「立穀の葉」で、梶の一枚葉を用いています。この紋は、本殿前の萱葺き拝殿にも見られました。
林千鹿頭神社の立穀 向拝の蟇股は「林」ですが、本殿身舎の蟇股は「立穀の葉」です。神紋のみで、「神田」と違い装飾の彫刻はありません。その代わりでしょうか、身舎三面の蟇股には「千・鹿・頭」と一文字づつ彫られていました。
「鹿の彫刻」 本殿の扉は「神田」と同じ格子ですが、ビニールシートで覆われていないので何かが見えます。カメラで拡大すると、何と「鹿の頭」が見えました。角があるので牡鹿です。場所を変えると雌鹿の頭も一部見え、やはりモミジの葉も彫られています。内陣があり、御扉に彫刻があることがわかりましたが、現時点では詳細はわかりません。例祭時の開扉に期待するしかないでしょう。また、こちらの向拝柱にある竹は「青竹」でした。

拝殿も二つ

 諏訪では「之」ですが、ここでは「位」となる一位と二位の御柱の中間に立ち、社殿配置の長軸を狙って撮ってみました。

神田千鹿頭神社拝殿

 本殿が見えない中では正確ではありませんが、写真の中央が「神田と林の境」です。初めは「神楽殿と拝殿の二棟」としていましたが、それぞれに「神田」と「林」の紋があるのに気が付き、右手前が神田千鹿頭神社の拝殿で、奥が林千鹿頭神社の拝殿と理解できました。狭い尾根上なので、大きな拝殿を並立させるのは無理があります。どちらを前(後)にするか一悶着あったことが想像されますが、諏訪側が古くからの松本に敬意を表して本殿から遠い位置にしたのでしょう。
 この写真では左隅に一部写っているのが「林の社務所」です。「神田の社務所」は麓にありますから、千鹿頭神社の総てが分かれていて、それぞれの地区がそれぞれの拝殿で、それぞれの本殿を拝礼する形を取っていることになります。
 塩尻峠の向こうから来た者にとっては、「本殿前の(見苦しい)電柱は神田側に寄っているので、街灯の電気代は神田側が負担しているのだろうか」「両地区の人口(寄付金)による神社維持の格差があるはず」「御柱祭は同じ日なので、どちらが祭りを仕切るのか」などと、一々野次馬的な心配をしてしまいます。

御柱(を建てるの)も別々でした!

千鹿頭神社の御柱 御柱だけは両社殿を(共通として)四本で囲む形式ですが、今日は、すでに神田側の「一位・四位」の御柱が抜かれて横たわっていました。建てる(休める)のは「両地区力を合わせて」ではなく、神田が「一・四」・林が「二・三」と、それぞれが「自分の地区で用材を調達して建てる」という分業制を取っていることがわかりました。

謎の石祠・木祠

千鹿頭神社摂社「服社」 本殿の後方に、何かの意志を持って遠ざけたとしか思えない場所に木祠と石祠が並んでいます。「御柱を建てるのに邪魔だから」とも思いましたが、それにしても離れ過ぎています。両祠を観察しましたが、石祠に「享保十四巳酉年・十一月日立・林村中」とあるだけで、祭神や社名の手掛かりになるものがまったくないので「謎の二社」となりました。
 「林口」の鳥居を撮るために麓まで下りてみました。以下は、鳥居脇に設置してあった山辺歴史研究会・里山辺公民館の案内板から「摂社略記」だけを抜き書きしたものです。

(まづ)の宮 祭神は大己貴神命(大国主命)

(はら)神 祭神は建御名方命(昔鎮守神として尊崇した)

王子稲荷 祭神は蒼稲魂命 林城より深志城へ、そして千鹿頭へ移祀された

宿世結神(しゅくせむすびのかみ) 林六郎公の息女のうらこ姫と言う

 「稲荷社は本殿左の八王子社・先の宮は尾根先・宿世結神は麓」とわかっているので、“謎の祠”の内一社は「服社」となりました。これに「はら」と振り仮名があるのを見て、諏訪人である私はピンときました。「はら」は「原」で、御射山(みさやま)の「原山」に通じるからです。「宿世結神」は見つかりませんでしたが、「服社は御射山社と関連がありそう」との感触を得て自宅へ戻りました。

千鹿頭神社考(とは大げさですが…)

 松本の千鹿頭神社に神田と林の両社があるのは“周知の事実”ですが、ここでは「諏訪大社上社(以降は諏訪大社)」とその摂社である「御射山社」が絡んできます。少しディープな内容なので、ここで“引き返して”も構いません。

服社は御射山社

 話は、一旦、松本から諏訪の地へ飛びます。諏訪大社の摂社である御射山社には「山社(はらやましゃ)」の別称があり、祭神は「国常立命(虚空蔵菩薩)」です。上社を例に取れば、それぞれが「諏訪市・茅野市──富士見町」と離れた場所に鎮座しています。以上のことを頭に入れてから読み進めて下さい。

千鹿頭神社「諏訪藩主手元絵図」 享保18年(1733)頃に編纂された高島藩の村絵図に、『諏訪藩主手元絵図』があります。諏訪史談会の復刻版から〔神田村〕を開くと、前述の林千鹿頭神社の摂社・社と同じ位置に「虚空蔵」と書かれた社殿と鳥居が描いてありました(左図中央の)。これで、「原=服(はら)」と言う推察は“大当たり”となりました。
 服社は「本殿の後方」にありますから、この千鹿頭山の尾根に、「諏訪大社―御射山社」に対応する「千鹿頭神社(千鹿頭大明神)─服社(虚空蔵)」の社殿形式を再現させたことが明らかになりました。
 松本藩の公式記録である、享保9年(1724)『信府統記』の〔松本領諸社記・千鹿頭大明神〕に「御手払ノ宮」の記述があります。

本社の後ろに御手払ノ宮と云て今にあり、是は林六郎を祝えり、其の後回禄度々にて、縁起焼失、家伝に残るのみ記す、祭礼は七月廿七日、此の日林六郎の妻の誕生ありし日なりと云い伝う、
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』から転載

 「本社の後」とありますから、謎の祠二棟の一社が林六郎を祭神とする御手払ノ宮となり、「7月27日」は御射山社の例祭日と重なります。
 次に、『諏方大明神画詞』から御射山祭の段の一部を取り上げました。

(7月)廿七日早旦、…下向の後、四御庵(よつみいお)の前にて大祝(おおほうり)御手払い、衆人展転して是に随う、山谷に響きを伝え、馳馬頻(しき)りに驚く、…
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

 御射山祭を締めくくる大祝の柏手は、「御手払い」と呼ばれています。そのため、『信府統記』に出る「御手払ノ宮」が、服社と同じく、御射山社の代名詞であることが極めて濃厚になりました。

千鹿頭神社では式年造営が行われた

 松本市『松本市史』から、『林千鹿頭神社御柱入用書上』を転載しました。慶長二十年(元和元年・1615)二月なので、まだ松本藩小笠原氏の時代です。ここに「本殿を二社建て遷宮した」と書いてあります。

林之郷千鹿頭大明神御先祖の御産土(うぶすな)にして御座候、当年御柱立申候入用の事 (略)
一、御宝殿弐社立申候入用三拾石、同御宮移しに三石 (略)
一、御柱の儀馬打申候、馬五疋五官の祝乗り申候
一、槍三十丁・弓三十丁・鉄砲三十丁・長刀一枝 (略)

 直接には関係ありませんが、諏訪神社(現諏訪大社)上社と同じ「五官の祝制」を敷き、御柱の警護も諏訪の本社に負けない規模の御柱祭だったことがわかります。
 重要なのは「弐社」と「同(弐社の)御宮移し」で、二柱の祭神を新造した二棟の社殿に遷座したと読めることです。こうなると、藩領分割の3年前でも、「二棟の社殿が並立していた可能性が出てきます。式年造営(建替)は6年のサイクルなので、社殿は簡素な木祠という規模です。狭い尾根上であっても、余裕を持って横並びの社殿を建てることができます。

やはり、千鹿頭神社は二柱(祭神)二社

 『信府統記』の〔千鹿頭大明神 林村〕に、「本社は両社共に大明神にて諏訪勧請」とあります。すでに神社が分離している時代ですが「林村の千鹿頭神社は二社(棟)ある」としているので、慶長20年の「御宝殿弐社立申」からも、原初から社殿が二社並立していたと考えることができます。

原初から、千鹿頭神社は二社並立していた?

 諏訪市有賀にある千鹿頭神社の社有文書に『板垣信方奉書』があります。永禄8年に武田家の家臣である板垣信方が大安寺に宛てたものの控えですが、ここに神田村が載っています。

諏方郡之有賀之千賀多本社神田神役之事、同郷(有賀村)之内並上原村・埴原田村・筑摩郡神田村之内、自前々之文不可有、相違之由、任御下知如件、

 内容は「有賀の千鹿頭本社の神役田役は、各村が負担」というものです。ここに挙がる村には現在も千鹿頭神社がありますから、神田村の千鹿頭神社も、有賀の本社から勧請したということになります。
 注目すべきは「永禄8年(1565)」です。前出の『林千鹿頭神社御柱入用書上』が「慶長二十年(1615)」なので、永禄から慶長の頃には、すでに林村と神田村に千鹿頭神社が二社存在していた可能性があります。これが、「御宝殿(本殿)弐社(棟)」に繋がります。

諏訪から見た「千鹿頭神社と御柱」

 諏訪の文献『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から、「御柱」の項にある「千鹿頭神社」を抜き出しました。

松本領筑摩郡林村 山家(やまべ)組也、諏訪領神田村之間相殿にて諏訪社・千鹿頭社、御柱は夘酉年四月夘酉二つ有は初の日、三つ有時は中日也、二と三の御柱は松本様大目附様御出役人足山家組より、右一と四の御柱高島様より三千石御代官様の籾見足軽出る、御柱は鉢伏山より出る、嘉永二酉年より出役同心八人、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 この時代でも現在と同じで、諏訪側が一と四・松本側が二と三の御柱を分担して建てていたことがわかります。それは別として「両村の間に、相殿になった諏訪社と千鹿頭社がある」と読めます。ただし、「相殿」は諏訪側の認識で、諏訪社と千鹿頭社の二社があったと理解すべきでしょう。この史料を併せると、名称は「千鹿頭神社」でも、林側は諏訪神社で、神田側が千鹿頭神社ということになります。これは、林側が諏訪社の分社に多い「立穀(梶)の葉」で、神田側が有賀千鹿頭神社の神紋「諏訪梶」であることからも頷けます。

 いずれにしても、原初から「二社の形態」があったからこそ、尾根の中央に藩境が引かれても、一村一社への移行がスムーズに行われたのでしょう。

昭和五年の服神社

「長野縣東筑摩郡里山邊村村社千鹿頭社境内及境外山林并附近鳥瞰図」 山辺学校歴史民俗資料館に展示してある、正式名『長野縣東筑摩郡里山邊村村社千鹿頭社境内及境外山林并附近鳥瞰図』を見る機会がありました。左は、その一部です。
 「三ノ御柱」の後方に「境内神社、服神社」とある木祠が描かれています。耐久性から現在ある木祠が絵図にある木祠と同一のものかはわかりませんが、現在もその位置にある木造の祠を「服社」とすることができます。また、服社の左にある石祠が「御手払ノ宮」と確定し、両社とも林村が祀る神社となりました。

神田村の「御射山社(虚空蔵)」は、原初から存在しなかった!?

 『鳥瞰図』では、ペアで本殿と拝殿が描かれています。ところが、服社は木祠で描かれていますが、神田側にはありません。すでに退転したと考えましたが、神田側では原初から御射山社を“設定”しなかった可能性を思いました。「千鹿頭神」社では、御射山社は必要ないからです。一方の林側ですが、名前は千鹿頭神社でも祭神が諏訪明神ならば御射山社が“付属”しますから、摂社服社として現在まで残ったことになります。

現在は、木祠と石祠が並んでいる。

神田村は、「かんだ」か「しんでん」か

 長野県『長野県町村誌 中・南信篇』〔中山村〕から転載しました。

【神田】往古神の御戸代、神田の地なれども、世の変に因て名のみ残りて、今本村北の方に当たり、小山頂上に千鹿頭古社存在す。其神田故に村名となる。

 “公文書”では、神田(しんでん)から神田(かんだ)としています。

諏訪藩主手元地図「神田村」 それはそれとして、私は、〔服社は御射山社〕で取り上げた『諏訪藩主手元絵図』に注目しました。左の写真は、千鹿頭山の左上にある「書き込み」を切り取ったものです。読めない字が幾つかありますが、間違いを恐れずに解読してみました。

 「古代地頭神田治部太輔やし記(屋敷)・神田屋敷畑」となり、この時代の地名「神田屋敷畑」は「昔、地頭の神田治部太輔(かんだじぶたいふ)の屋敷だった」と解釈しました。「治部太輔」は官職名で、こちらは“少”ですが、石田三成の石田治部少輔が知られています。しかし、松本在住の人なら即座に該当する人名を挙げることができるかもしれませんが、私は相変わらず途方に暮れることになりました。
 こうなると、旧神田村は千鹿頭神社の神田(しんでん)が由来というのが定説ですが、俄に、広大な屋敷と田畑があった「神田屋敷畑」が村名の元になった可能性が浮上しました。

「千鹿頭神・うらこ山・宿世結神・逢初川」

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