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千鹿頭神社考(神田・林千鹿頭神社) ver1.11.14

 千鹿頭神社の考察としましたが、少しディープな内容が含まれます。よろしければ、お付き合いください。

虚空蔵・御射山社・服神社・御手払ノ宮

 諏訪大社上社の摂社である御射山社は「(はらやま)様」とも呼ばれ、祭神の国常立命は本地仏である虚空蔵菩薩のほうで知られています。その御射山社は、諏訪市から離れた富士見町に鎮座しています。

千鹿頭神社「境内社」 平成22年に、松本の千鹿頭神社を参拝しました。本殿の後方に祠二棟が並立しているのを見て、それを「境内社も、神田と林で二社並立」と考えました。
 また、林側の消えかけた案内板を読んで、そのどちらかが「(はらしゃ)」と推定しました。その時は、振り仮名「はら」から「はら→原山→御射山(みさやま)」と連想しただけで終わりました。

千鹿頭大明神
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』(部分)

 享保18年(1733)に編纂された、高島藩の村絵図『諏訪藩主手元絵図』があります。〔神田村〕を開くと、「千鹿頭大明神」から離れた後方に社殿と鳥居が描いてあります。
 それに「虚空蔵」と書いてあるのに気が付き、前出のキーワード「服・原・虚空蔵・離れた」から、「服社は御射山社と同体」と閃きました。
 こうなると、千鹿頭山の尾根上に、「諏訪神社―御射山社」に対応する「千鹿頭神社―御射山社」を造営したとしか考えられません。
 ただし、これは高島藩(諏訪)の絵図から読み取ったものなので、松本藩(側)からは「笑止千万」との声が挙がるかもしれません。

 昭和5年と新しいのですが、旧里山辺村が作成した絵図です。彩色のあるなしで、中山村(神田)と里山辺村(林)の社殿を描き分けています。

「千鹿頭社境内及境外山林并附近鳥瞰図」
「長野縣東筑摩郡里山邊村村社千鹿頭社境内及境外山林并附近鳥瞰図」

 昭和ではつい最近と言えますが、社殿配置は『諏訪藩主手元絵図』と同じです。ここでは社殿後方の祠を境内神社、服神社と書いていますから、木造の祠が服社と確定しました。また、絵図の詳細さから、この時点では現在並んでいる石祠はなかったことになります。

 松本藩の公式記録である享保9年(1724)『信府統記』からの抜粋です。

千鹿頭大明神 林村
 千鹿頭山は古え鶴がみねと云い(略)本社は両社共に大明神にて諏訪勧請なり、(略)
 本社の後に御手払ノ宮と云て今にあり、是は林六郎を祝えり、其の後回禄(かいろく※火災)度々にて縁起焼失したれば、家伝に残れるを記すのみ、
 祭礼は七月廿七日なり、此日は林六郎の妻誕生ありし日なりと言伝う、
鈴木重武・三井弘篤編『信府統記巻六』〔松本領諸社記〕

 「本社の後」とありますから、現在の木祠「服社」が林六郎を祭神とする御手払ノ宮となります。また、『信府統記』は前出の『鳥瞰図』と同じ林側の記述ですから、服神社=御手払ノ宮となりました。

 参考として、『諏方大明神画詞』から御射山祭の段の一部を取り上げてみました。

(7月)廿七日早旦、…下向の後、四御庵(よつみいお)の前にて大祝(おおほうり)御手払い、衆人展転して是に随う、山谷に響きを伝え、馳馬頻(しき)りに驚く、…
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』

 御射山祭を締めくくる大祝の柏手は、「御手払い」と呼ばれています。これが直に「御手払ノ宮」に通じるとは言えませんが、服神社=原山社=御射山社の関係を思わせます。

御符社と祭神林六郎

 冒頭の写真では服神社の左に並んでいる石祠ですが、ここまでの絵図や史資料には登場しません。そのため、この石祠は、昭和5年以降に、どこからか移転設置したと考えることができます。時期は不明ですが、その移転の経緯が以下の文言から見えてきました。

御符社跡
御符社跡

 まず、『千鹿頭神社』の案内板は「明治四十一年、御符社の祭神林の里長六郎公が合祀祭祀された」と書いています。
 また、麓の林集落にある『御府古墳・御府社跡』では、「明治四十一年に千鹿頭神社に合祀されるまで、独立社の御府社として祭られていた」とあります。

 これは、明治41年に「境外にある御府社の祭神六郎公を千鹿頭神社に合祀した」ということですから、江戸時代の『信府統記』にある「本社の後ろに御手払ノ宮と云て今にあり、是は…林六郎を祝えり」とは整合性がないことになります。
 いずれにしても、空社となった御符社を廃棄するには忍びがたいとして、服社の隣に設置したことは十分考えられます。ただ、祭神不在のはずですが幣帛が入っている(祭祀を行っている)現実を見れば、また矛盾することになります。

林千鹿頭社では、本社と摂社の式年造営が行われた

 史料『林千鹿頭神社御柱入用書上』から、抜粋“校正”したものを転載しました。慶長二十年(元和元年・1615)二月なので、まだ松本藩小笠原氏の時代です。

林之郷千鹿頭大明神御先祖の御産土(うぶすな)にして御座候、当年御柱立申候入用の事(略)
一、御宝殿弐社立申候入用 三拾石
  同御宮移しに 三石
一、御柱の騎馬打申候、馬五疋五官の祝(ほうり)乗り申候
一、槍三十丁・弓三十丁・鉄砲三十丁・長刀一枝
松本市『松本市史第四巻旧市町村編』〔里山辺〕

 直接には関係ありませんが、諏訪神社(現諏訪大社)上社と同じ「五官の騎馬行列」があり、御柱の警護も諏訪の本社に負けない規模の御柱祭だったことがわかります。
 重要なのが「弐社立(建)・御宮移し」です。「二社」をどう解釈するか悩みますが、本社と服社(御射山社)以外には考えられないとし、「林千鹿頭社では式年造営が行わ、遷宮があった」と読み取ってみました。

千鹿頭神社は、諏訪市の千鹿頭神社から勧請

有賀の千鹿頭神社 諏訪市有賀にある千鹿頭神社(左)の社有文書に『板垣信方奉書』があります。
 永禄8年(1565)に武田家の家臣である板垣信方が大安寺に宛てたものの控えですが、ここに神田村が載っています。

諏方郡之有賀之千賀多本社神田神役之事、同郷(有賀村)之内並上原村・埴原田村・筑摩郡神田村之内、自前々之文不可有、相違之由、任御下知如件、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 内容は「有賀の千鹿頭本社の神役・田役は、各村が負担」と読めます。ここに挙がる村には現在も千鹿頭神社がありまから、神田村の千鹿頭神社は林千鹿頭社の分祀ではなく、賦役があった縁から有賀の本社から勧請したということになります。

諏訪から見た「千鹿頭神社と御柱」

 諏訪の文献『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から、「御柱」の項にある「千鹿頭神社」を抜き出しました。

松本領筑摩郡林村 山家(やまべ)組也、諏訪領神田村之間、相殿にて諏訪社・千鹿頭社、御柱は夘酉年四月夘酉二つ有は初の日、三つ有時は中日也、二と三の御柱は松本様大目附様御出役人足山家組より、右一と四の御柱高島様より三千石御代官様の籾見足軽出る、御柱は鉢伏山より出る、嘉永二酉年より出役同心八人、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』

 この時代でも現在と同じで、諏訪側が一と四・松本側が二と三の御柱を分担して建てていたことがわかります。
 それは別として「両村の間に、相殿になった諏訪社と千鹿頭社がある」と読めます。ただし、「相殿」は諏訪側の認識で、実際には諏訪社と千鹿頭社の二社があったと理解すべきでしょう。
 この史料を併せると、名称は「千鹿頭神社」でも、林側は諏訪神社で、神田側が千鹿頭神社ということになります。これは、林側が諏訪社の分社に多い神紋「立ち梶の葉」で、神田側が有賀千鹿頭神社の神紋「諏訪梶」であることからも頷けます。

先ノ宮

礎石は先ノ宮のものか

先の宮と礎石
右奥が先ノ宮

 左に支柱だけ写っているのが『千鹿頭神社先宮の由来』とある案内板です。
 関係する部分は「かっては『先ノ宮』と呼ばれ…当社も当時の面影を伝えるものは数個の残存する《礎石》のみである」で、「写真の礎石は旧先ノ宮」と謳っています。しかし、この礎石は先ノ宮からは余りにも離れ過ぎています。

礎石は千鹿頭神社

 千鹿頭山周辺整備推進委員会設置『千鹿頭神社沿革』では「千鹿頭大神を祀り伝えてきた社であります。古は(※千鹿頭神社は)先の宮 (現在の四阿付近)にありました」とあります。

 里山辺地区景観整備委員会設置の案内板『千鹿頭神社』では、「うらこ山より現在の地に諏訪洩矢神の御子千鹿頭神を移し祀ったと伝えられている」と書いています。

先の宮 『鳥瞰図』を見ると、うらこ山の位置から、旧社殿礎石は、移転した千鹿頭神社のものとしたほうが自然です。則ち、旧案内板からは、現存する礎石は旧千鹿頭神社のものとなります。

 しかし、千鹿頭の緑と環境を守る会・林古城会・山辺歴史研究会・松本市地域文化財連絡協議会の四連合の主張には、私の旗色は悪いでしょうか。

先ノ宮は、「旧千鹿頭神社の服社(御射山社)」

 久しぶりに再訪したら、平成28年と平成30年の新しい案内板が設置されていました。

 かつては先ノ宮(まずのみや)と呼ばれ、大己貴命すなわち大国主命を祭神とした独立社であったが、現在は「千鹿頭神社の前宮」の位置づけとなっている。
(中略)
 なお、領地分割後千鹿頭神社一帯の社は関連小祠に至るまで全て林村・神田村両村二社分立の形式となっているが、この「先ノ宮」のみ何故一社となっているかは不明である。
『千鹿頭神社先宮の由来』
 かつては「服神社(はらがみしゃ)」と呼ばれ、「先ノ宮(まづのみや)」と同時に独立社であったが、「先ノ宮」が《千鹿頭神社の前宮》の位置づけとなるに従って、「服神社」も《千鹿頭神社の後宮》とされたものであろう。
(中略)
  また、二社並立しているのは元和二年(一六一八)に、千鹿頭山の峰を境として松本藩と諏訪藩が分割された翌年、林・神田両村の社が建ったことに起因すると思われる。
『千鹿頭神社後宮の由来』

 ここでは、先ノ宮と服神社を、「千鹿頭神社の先宮・後宮」と位置づけています。新手の名称に反発を覚える中で、借りていた『松本市史』を読み直してみました。

林村千鹿頭社取調書上写(抜粋)

一 摂社
一 奥宮社
一 先宮社
一 王子稲荷社

松本市『松本市史第四巻旧市町村編』〔里山辺〕

 ここでは「宮」としていますが、一般的な解釈では奥宮=後宮とすることには抵抗があります。むしろ御射山社の方がふさわしいのですが、明治初期と思われるこの文書は祭神に「大己貴命」を挙げているので、何とも…。

 松本市民でない私は既述の通りで、「旧千鹿頭神社―服神社の配置を、そのまま現在の千鹿頭神社に移しただけ。今ある先ノ宮は服神社の元(古)宮」と吠えてみました。

最後に、神田村は「かんだ」か「しんでん」か

 長野県『長野県町村誌 中・南信篇』〔中山村〕から転載しました。

【神田】往古神の御戸代、神田の地なれども、世の変に因て名のみ残りて、今本村北の方に当たり、小山頂上に千鹿頭古社存在す。其神田故に村名となる。

 “公文書”では、旧神田村の由来を「神田(しんでん)→神田(かんだ)」としています。

諏訪藩主手元地図「神田村」 それはそれとして、私は、〔服社は御射山社〕で取り上げた『諏訪藩主手元絵図』に注目しました。左は、千鹿頭山の側方にある書き込みを切り取ったものです。

 間違いを恐れずに解読すると「古代地頭神田治部太輔やし記(屋敷)・神田屋敷畑」となり、この時代の地名「神田屋敷畑」は「昔、地頭の神田治部太輔(かんだじぶたいふ)の屋敷だった」と解釈できます。
 こうなると、広大な屋敷と田畑があった「神田(かんだ)屋敷畑」が村名の元になった可能性が出てきます。しかし、松本在住の方なら即座に該当する人名を挙げることができるかもしれませんが、私は相変わらず途方に暮れることになりました。

「千鹿頭神・うらこ山・宿世結神・逢初川」

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