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松島神社 上伊那郡箕輪町中箕輪 24.5.28

臼杵大明神
 「高橋神社」として来たのですが、鳥居額と社号標はいずれも「松島神社」です。少しの間は戸惑ったものの、手にしている(松島神社の)略地図に高橋神社と書き込んでしまったのが原因とわかりました。
松島神社「社殿額」 せっかくなので、同じ箕輪(みのわ)町にあるこの神社にも「お宮参りの扇子」があるのかを確認することにしました。拝殿にその扇子を見て、その儀礼の南限が高橋神社を飛び越えて下がったのが確認できました。

 ふと社殿額を見上げると「松嶋神社臼杵大明神」と読めます。私は、即座に「臼杵」の文字に反応しました。それは、正解か否かは別として、菅江真澄の民俗図絵「社殿の床下に描かれた臼と杵」を思い浮かべたからです。しかし、それを肯定する文字やモノを見つけることができないまま、本来の目的地である高橋神社へ向かいました。

 ネットで「松島神社 臼杵大明神」を検索しましたが、大分県の「臼杵市」の影響が余りにも“甚大”なのでイライラします。ようやく一件がヒットしましたが、差し障りの無い内容なので参考になりません。ネットは諦めて、菅江真澄を知るきっかけとなった図書館へ向かいました。すでに複数回借りている本を開くと、どこの神社とも記憶が無くなっていた絵が「信濃国伊那郡松島の臼杵の宮」と確定しました。

松島神社再訪

 すっかり緑が濃くなっていた松島神社の境内に立ちました。しかし、本腰を入れた今回の再訪でも、その痕跡ですら見つけることができません。これまでかと帰り際に振り返った巨大な社号碑が、諏訪大社元宮司の三輪磐根さんの謹書であることに気がつきました。
 「松嶋神社は諏訪系神社ではないのに、なぜ」と読むと、当時は「長野県神社庁長」という肩書きでもあったことがわかりました。裏に廻ると、由緒と思われる文字がびっしりと刻まれています。碑の背後には大木があるので、その時まで由緒書を兼ねているとは気がつきませんでした。
 高倍率にしたカメラのファインダーで読むと「臼・杵…」の文字が確認できます。これですべてが繋がると、銘文を写真に写して自宅に持ち帰りました。

御神体は石の臼杵

 拡大した碑文を読むと、期待通り『箕輪町誌』にも載っていない内容がありました。以下は、その一部を書き出したものです。

 石器時代の石臼杵が臼杵洞より出土し、これを臼杵森へ御神体として安置し天津彦火瓊々杵命(あまつひこほににぎのみこと)・建御名方命を祭神とし臼杵大明神と崇め、鎌倉時代寛喜元年(1229)北村・町方・坂井三ヶ村の氏子により創建し奉る。降って慶安二年(1649)大猷院公(たいゆういんこう※徳川家光)より御朱印五斗を賜る。長禄・明暦・元禄と修復がなされ、享保三年(1718)領主太田資良知行所陣屋役人の力を得て本社舞屋鳥居を修造。天明元年(1782)澤底村有賀吉左衛門現在の本殿を建立。(中略) 嘉永五年(1852)五月神祇官より幣帛を奉納せられ、又、卜部良芳より松島神社臼杵大明神の神社号と社号額賜る。明治五年村社に列せられ松島神社と称す。(後略)

 「石臼杵」を御神体とした経緯がよくわかりますから、“正しい由緒書”になっています。しかし、憶測好きな私は、「天津彦火瓊々命は、[杵]の文字を『古事記』の神々の中に探し出して“当てはめた(こじつけた)”」と考えてしまいました。

ウスギ洞・臼杵洞

 箕輪町誌編纂刊行委員会『箕輪町誌 歴史編』では、「箕輪町内遺跡一覧」に「ウスギ洞」とあり、縄文中期の遺跡で「石臼・石棒 臼杵神社御神体」とあります。御神体なので無理とは思いますが、例大祭の4月19・20日に公開するのではないかと期待してしまいます。

改めて松島神社

松島神社「拝殿」 「明治25年、平出(の)中村清之丞鞘宮(覆屋)並拝殿を造営し現在に至る」とある拝殿です。
 拝殿前面の木柵には、数は少ないのですが、上伊那郡でよく見られる「お宮参りの扇子」が結わえてあります。この日は、夫婦とその両親四人のお宮参りを目撃できました。

松島神社の本殿覆屋 本殿は覆屋で密閉されているので、シルエットさえも窺うことはできません。拝殿との距離もあるので、例祭などで拝殿の扉が開放されてもその形状はわからないと思われます。
 本殿は箕輪町指定有形文化財です。「天明元年(1781)に牛窪流(うしくぼりゅう)二代有賀吉左衛門が建立したもので、こけら葺き唐破風平屋造である。(中略) 町内唯一の牛窪流として文化財的価値は高い」とありますが、案内板の説明だけではただ虚しさだけを感じてしまいます。

菅江真澄の紀行文に見る「松島神社」

 松島神社の記述は、「委寧能中路(伊那の中道)」ではなく「すわの海」にありました。信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』からの抜粋です。

廿九日 あした(朝)より、そらかきくもりて、ほどなくふり出たり。木の下(木ノ下)の里に、雨やどりすとて、
 旅衣ぬるもいとはじ木のしたに
けうをかぎりのはるさめの空
 ( 旅衣 濡れるも厭わじ木の下に 今日を限りの 春雨の空 )
松嶋のむまや(うまや・駅)の、北村という処に、臼杵のみや(宮)とて御社(みやしろ)のした(下)くらに、石の臼、石の杵をつくりておさめたり。

 三州街道沿いにある木ノ下鎮座の南宮神社については記述がありません。菅江真澄は『百臼(ももうす)の図』を著すなど「臼」に強い関心を持っていたので、松島神社だけが(たまたま)印象に残っていたのでしょう。

『粉本稿』の臼と杵 岩崎美術社『菅江真澄 民俗図絵 下巻』があります。「粉本稿(ふんぼんこう)」から、関係する図絵を余白をトリミングして転載しました。「信濃国伊那郡松島と云う里に、臼杵の宮とて御社(みやしろ)の下つ方に、ささやかなる石の臼と杵とを置くは如何(いか)なる事ならん」と説明があります。絵では木造の臼・杵に見えますから、本殿の中に(石皿と石棒と思える)石臼・石杵を納めてあるのでしょう。
 天明四年の旅なので、菅江真澄は現在の本殿を参拝したことになります。祠のような絵で描いていますが、臼杵が主題なので、社殿は簡素に表現したのかもしれません。

うすき大明神

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に、江戸時代の国学者である松澤義章著『顯幽本記』が収録してあります。

今の伊那郡松嶋村に臼杵大明神と書きて、うすき大明神と唱え来る神社あり。又最(もっとも)古き臼と杵とありて寶物となし来れり故、郷人等は此の二種のある故により臼杵という神號(号)になれりなといえり。

 この後に「臼と杵」を否定する文が続きますが、由緒としては参考になります。

謎の杵

正体不明の杵 社務所の横に杵が置かれていました。カケヤとして使うには作りが華奢ですから、…何でしょう。先が丸くなっていますが、土で汚れているので神事用とも思えません。いずれにしても、“臼杵の由緒”が頭になければ目にも入らない存在であるのは間違いありません。とりあえず“参考写真”として、最後に紹介しました。