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物部守屋墓 大阪府八尾市 20.11.22

 何かで、「物部守屋が祭られている。その玉垣は全国の神社から寄進されている」と読んでいました。個人や団体ではなく“神社が寄進”とあるのがミソです。
 崇仏派の蘇我氏に滅ぼされた物部守屋ですが、神道擁立を旗頭にした彼の墓を整備することに際して、全国の神社が協力したことはごく自然な流れでしょう。その玉垣の一柱に「諏訪大社」もあるはず、と具体的な情報をネットで調べてみると、神社ではなく「物部守屋の墓」でした。
 古墳ではない“墓”とあってやや気勢を削がれましたが、鳥居があるので「県外の神社」として紹介することにしました。

物部守屋大連墳

物部守屋墓

 この写真は平板で面白味がありませんが、目的が「玉垣」ですから、あえて左右対称で撮ったものをトップに挙げました。入口右の石柱に「神社本庁」、左に「大阪府神社庁」と読めます。HP『やお文化協会』の「史跡など まちの風景 あれこれ」では、以下のように紹介しています。

「物部守屋墳」 奈良街道、すなわち国道25号線に面した八尾市内で一番交通量の多い道路脇にある。この地は物部守屋大連を葬ったところで、『河内鑑名所記』や『河内名所図絵』には、小さな塚上の丘の上に一本松のある姿がえがかれている。明治初期、堺県知事小河一敏が、立派な墓碑を建立。表に「物部守屋大連墳」と刻し、周囲に玉垣を作った。

物部守屋墓にある「諏訪大社」 上の全景写真では、右側面に並ぶ玉垣です。順に読んでいくと「信濃國一之宮諏訪大社 宮司加藤茂」とあったので、まずは“一安心”しました。この名前がなかったら、はるばるここへ来た甲斐がありません。宗像大社を挟んで、木曽の御嶽神社もありました。ここへ来る目的としては“不純”ですが、このサイトは「諏訪大社と諏訪神社」ですからやむを得ないでしょう。

守屋池

物部守屋首洗い池 このすぐ近くに、太子町の「叡福寺」に対して「下の太子」と呼ばれる(とある)「大聖勝軍寺」があります。その山門前に「守屋池」があり、「秦河勝が物部守屋の首を洗った池」と伝えられています。
 事前の情報では、いずれのサイトも写真が同じアングルなのが不思議でした。しかし、実際にこの前に立つと、右側が生け垣なので碑と池全体を撮るにはこの位置しかないことがわかりました。代わり映えしませんが、「落ち葉で覆われた守屋池」とタイトルを付けて差を付けました。

鏑矢塚

物部守屋旧跡「鏑矢塚」 国道を挟んだ小さな飲み屋街の入口に、これもまた“よく見るアングル”になってしまいましたが「鏑矢塚(かぶらやづか)」があります。ところが、「史跡」の前は和洋中華の看板が不法占拠しており、見苦しい状態になっています。せめて「だるま」のオーナーが、店の名を「鏑矢」に改名してくれればありがたいのですが…。八尾市のHPには「市の史跡」として載っていませんから、“私設の史跡”かもしれません。
 「迹見赤檮(とみのいちい)が樹上の守屋を射抜いた。その鏑矢が落ちたところにその矢を埋めた」と案内にありますが、命中率が低くしかも音を発する鏑矢をなぜ使ったのでしょうか。それに、源為朝ならともかく、あの形では射抜くことは難しいはずです。至近距離から、当たれば衝撃が大きい鏑矢で木から落とすことを狙ったのでしょうか。そんなことをあれこれ想像してしまう「鏑矢」塚でした。

弓代塚

 「矢」と来れば、今度は「弓代塚」です。ネットの情報では「龍華(りゅうげ)小学校の近くにある送電線鉄塔の敷地」でしたが、その場所へ行ってみれば、何と送電線が三列も空を覆っている「送電線銀座」でした。その鉄塔下を順に廻りますが、「小学校の近く」には見つかりませんでした。
大聖勝軍寺 いったん戻って、大聖勝軍寺の境内で落ち葉掃除をしているお年寄りに尋ねましたが、首を振られてしまいました。思い余って、「山門前にその案内の碑があるからには」と庫裏のチャイムを押しました。住職夫人でしょうか、こちらの困惑顔を察したのか丁寧に教えてくれました。
 先ほど通ったので見覚えがある民家と資材置き場の隙間のような路地入口に、「史跡 弓代塚」の石柱がありました。鉄塔の下ばかり見ていたので全く気が付きませんでした。その突き当たり、事業所と境するフェンスの手前に「史跡 弓代」がありました。ただの空地ですから「塚」を入れなかったのでしょうか。ここに立ってみると、確かに鉄塔が近くに見えます。サイトの記述は間違っていませんでした。

物部守屋旧跡「弓代塚」 石柱の横に、小さく「迹見赤檮発箭地(とみのいちいはっせんち)」と彫られています。箭=矢ですから、「矢を発した所」となり、サイト検索では一様に表示した「物部守屋を鏑矢で射たときの弓を、記念として埋めた」という記述とはニュアンスが異なります。「射た場所に弓を埋めた」ということでしょうか。

 「矢の飛距離」を考えると俄(にわか)に色あせる「史跡」ですが、これはこれで楽しい「物部守屋終焉の地巡り」でした。ここから、物部氏の支族の誰かが諏訪(伊那)に逃れ、氏族の長である「守屋」を祭った「物部守屋神社」を建立した(のかもしれない)と考えると、…もう、八尾市まで来た甲斐がありました。


‖サイト内リンク‖ 物部守屋を祀る「物部守屋神社」