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七久里神社 飯田市山本 27.7.16

飯田市山本 中央自動車道に、三遠南信自動車道(未開通)の関係で新しくできた[飯田山本IC]があります。その直近にある七久里神社は「二本御柱」があることで知っていましたが、ようやく自分の目で確認することができました。

七久里神社参拝

七久里神社「掲額」 カーナビの案内に従ったら、境内に横付けとなりました。やはり正式な参道を、と二つの鳥居をくぐって一旦境外に出たら、目の前は中央自動車道でした。
 改めて一之鳥居・二之鳥居をくぐるという手順を踏んで、拝殿へ向かいました。ところが、御柱がある諏訪神社として来たのですが、拝殿に懸かる神号額では、諏訪明神は“脇役”でした。

由緒に載る和歌が…

 境内にある、「一、神社名 七久里神社」とある案内板から一部を転載しました。

二、由緒 本社の御鎮座は、長慶天皇の御代、天授二年(一三七六)といわれ、この年、後醍醐天皇の御子宗良親王(信濃宮)は、本社の御神前に幣を奉って、「七十路の齢をたもつこれやこの七久里の社の恵なるらむ」とよまれ、民草の幸福と世の平和とをお祈りされた。

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 慶長十三年(一六〇八)十一月社殿を復興し、安永三年(一七七四)六月再興したことが、神座の銘に詳しい。本社は古より神徳顕著の故をもって代々武将領主の崇敬篤く、例祭に際しては領主松平家は天和元年(一六八一)より、領主近藤家は貞享二年(一六八五)より共に金幣供進の儀があり、その祭事は最も崇厳を極めた。
 明治四年村社に列し、同四十年勅令により神饌幣帛供進神社に指定され、同四十二年湯川八幡社を合併し、同四十四年城山稲荷神社を合祀した。

三、祭神 誉田別八幡神
相殿 建御名方諏訪神・建速素盞男津島神

末社 大国主出雲神・稚産蚕霊神・大山祇山神・大山咋日枝神・倉稲魂稲荷神

 (訳ありで)****の部分を別掲としたのが、以下の文です。

 また古記にのこされているものとして「後拾遺和歌集」の相模内侍の歌に「尽きもせす恋に涙をわかすかなこや七久里のいてゆ(出で湯)なるらむ」とあり、「堀川百首」の基俊朝臣は「いかなれは七久里の湯の湧くがごと いつる泉の涼しかるらむ」と歌っている。また「二條天皇大后宮家集」「夫木集」あるいは「八雲御抄」「細石」等に載っているものは皆本社所在の霊地を詩歌したものである。

 なぜ“こんなこと”をしたのかというと、「七久里神社の辺りに温泉などあったっけ?」との素朴な疑問が湧いたからです。記憶違いで神罰を受けては大変ですから、ネット地図で確認することにしました。やはり、というか、拡大しても温泉は表示しません。ここで、にわかに“突っつき心(ごころ)”が頭をもたげてきました。
 ダメ押しで「七久里神社 温泉」を検索すると、(私は知らなかった)「裸まつり」が続き、二ページ目で「別所温泉」が表示しました。概略を読むと、「エー、そんな…」という、古歌に出る「七久里の湯」は東信(長野県東部)の上田市にある「別所温泉」に比定されていました。

 “こんな”由緒ですから、宗良親王の和歌を改めて読み直してみました。すると、「七久里の社(やしろ)」が大幅な“字余り”になっていることに気が付きました。こうなればトコトンです。再びネットで探すと、日文研(国際日本文化研究センター)のサイトで『宗良親王千首』が見つかりました。

http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i050.html
ななそちの よはひをたもつ これやこの
 ななのやしろの めくみなるらむ

これに漢字を当てはめると、

七十路(ななそじ)の 齢(よわい)を保つ これやこの
 七の社(やしろ) 恵みなるらむ

と七文字に収まりました。「七久里」では字余りになるので(直接的すぎるので)、「七の社」としたのでしょう。

 この流れで、宗良親王の晩年を調べてみました。ネットの情報ですが、「応安7年(1374)、頽勢を挽回できぬまま36年ぶりに吉野に戻った。天授4年(1378)に(吉野から)大河原(下伊那郡大鹿村)に一度戻った事が判明している」とあります。七久里神社の由緒には「この年(天授二年)」に七久里神社へ奉幣と書いてありますが、その時は吉野にいたことになります。また、参拝した(とされる)歳は、計算では「65才」ですから、まだ七十路とは言えません。

『ウィキペディア』〔宗良親王〕

『山本村誌』

 別の資料がないかと探したら、山本村誌編纂委員会『山本村誌』がありました。〔第一節 神社〕の「七久里神社」を読むと、「本社創立年代は遠くして温ぬ(?)可らずと雖(いえど)も、その古記に顕(あら)われたもの『後拾遺集』…」とあります。境内の案内板「六、祭日」まで(ほぼ)同じ内容なので、昭和54年に設置された案内板は、昭和32年発行の『山本村誌』を“そのまま”書き写したものとわかりました。

 同書の〔雑載〕から[伝説]です。 

七久里の湯 山本区湯川元湯沢神社境内に冷泉が湧き出たといい伝えられる。伊那名勝志に「山本より会地村に行く途中、滑(なめ)くりと字せし地あり、この辺なり」とかいてある。今の湯川と呼ぶ小川と湯川沢という地名のある中の何処が、湯の湧き出た地であるか詳でない。伊勢の国一志郡にも七栗と称する地があって、山の峡より僅かに湯の湧き出るところがあるが、八雲抄には信濃とあり、このあたりが往古の官道であったので、鉱泉などの湧き出たことが往き来の人の眼につき、歌人の口誦にも上り、七久里の湯はこの地であったろうといわれるようになった。

後拾遺集 相模

 つきもせす恋に涙をわかつかな
 こや七久里のいて湯なるらん

堀川百首 基俊

 いかなれは七久里の湯の湧くかこと
 いつる泉の涼しかるらん

家集     二条天皇大后宮肥後

 世の人の恋の病の薬とや 七久里の湯の湧かへるらん

 七久里の湯は伝説の扱いです。

『下伊那郡村誌』

 『信州デジくら』で、長野県庶務課『下伊那郡村誌』を開きました。ところが、「エー、山本村がない!?」との現実を知らされました。その後、

・2月13日−米川村が分割して清内路村・久米村・竹佐村・山本村となる

『ウィキペディア』〔下伊那郡〕から「郡発足以降の沿革」

とわかり、仕切り直した〔米川村〕から[古跡]の部を転載しました。

なヽくりの湯 今湯出ず、山本にあり、七久里ノ里湯川等の名のみ存す、

 後拾遺 (和歌略)

 (公平を期すために)史料として挙げてみましたが、冷泉や鉱泉ては都まで名が知れないでしょう。地元としては“誘致”したいところでしょうが、名称だけでは…。やはり、七久里の湯は別所温泉でしょうか。

七久里神社の御柱

 初っぱなから由緒に問題が生じましたが、これが「二本御柱」です。

七久里神社の御柱

 傾いた松の引力に逆らえなかったのか、毎日見ているうちに自身も(つられて)曲がってしまったのか、私もつい首を傾げてしまった何とも不思議な御柱でした。

七久里神社の神木

 境内の端まで寄って、ようやくカメラに収まった神木の松です。よく見ると、先端に逆方向に曲がった箇所があります。その時点で傾き、その後に成長した部分が真っ直ぐに天に向かったという歴史でしょうか。それにしても、台風にも何回か遭遇したはずですが、よく倒れなかったものです。「七久里神社の奇跡の一本松」と呼んでも、異を唱える人はいないでしょう。

謎の神紋「丸に卍」

七久里神社「卍の蟇股」 正面妻入りの蟇股が「丸に卍」であるのを紹介します。社殿を造営した近藤氏の家紋でしょうか。
 参道脇に「西林寺」があったのを思い出しました。調べると、開山が「慶長12年」とあるので、七久里神社の「慶長13年社殿復興」の前年となります。何か関係があるのでしょうか。

『山本村誌』

拝殿の彫刻「この一枚」

七久里神社「力士」 拝殿向拝柱の貫に、梁を支える力士(邪鬼)像があります。未だに顔を赤くして踏ん張っていますが、すでに、長年の奉仕に肩の関節が外れ、股関節もガタがきています。「そろそろ休養して、体調を万全にしたほうが」と、同情してしまう姿でした。