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小野神社の「御鉾様」 塩尻市小野神社 23.3.26

 信濃国二之宮「小野神社」の参道入口にある案内板から、関係する部分を抜き書きしました。

 市有形文化財 小野神社の鐸鉾(神代鉾)
 小野神社の鐸鉾(さなぎほこ)は、古くから祭事に使われたとの言い伝えがあるがどのように祭事に使われたかは不明である。
(中略)
 境内本殿に向かって左方に藤池と呼ばれる御手洗池があり、そのかたわらの玉垣内に「御鉾様(おぼこさま)」といわれる石があり、神聖の場として足を踏み入れてはならない磐座となっている。この石は方形で中央に孔があいているが、おそらくこの石に鉾を立て、祭儀のとき神霊を招き降ろした重要な磐座であり、この祭儀に神の依り代として使用した神器ではないかと考えられている。
塩尻市教育委員会 
御鉾様
御鉾様

 案内板にある御鉾様は、落ち葉と雪に埋もれていました。左右に並んだ石祠は、後の調べで「水神社・風神社」とわかりました。

横から見た「御鉾様」 塩尻市教育委員会では「方形で中央に孔があいている」としているので、下の基台状のものが「御鉾様」になります。
 この時は「小野神社の根本に繋がる石造物かもしれない」と興味津々でしたが、案内板の解説がすべてという現状では、「これが御鉾様か」とうなずくしかありませんでした。

御鉾 上から見下ろした写真を見ると、丸石と本体の間に少しの隙間があります。これは凍上の繰り返しで、中にたまったゴミなどで浮いたためでしょう。そのために、孔の大きさが、丸石の基部と同じであることがわかります。
 こうなると、「この石(孔)に鉾を立て」との説明では、かなり太い柄でないと、傾いて今にも外れそうという姿しか浮かんできません。加工が雑な丸石は単なる蓋で、かつてはこの穴に何かが立っていたと思えてきます。

御鉾様の孔には石棒が安置してあった 23.5.11

 北小野地区誌編纂会『北小野地区誌』から、〔小野神社〕の一部を抜粋しました。

御社凌
 一名御鉾社・御剱社 祭神素盛嗚命
(前略)古来から御社凌(=陵)であると言い伝えられている。昔建御名方命が御高祖素盛嗚命の御遺骸を御移し申し上げて、此の地に葬り奉った所であると伝えられている。石で造られている墓標のようなものがあって、大昔の遺跡であると伝えられており、この神凌に触れる者はたちまち神罰を受けると戒め合って、柵を巡らして近づかないようにしている。(後略)

 ここに、「お墓または遺跡」としての伝承を紹介しています。

 昭和三二年大場(磐雄)博士は現地を視察して、「御鉾社は社叢の中央に位置していて、往時に神事を行う折にこの丸形の石の上に鐸鉾を立てて儀式を行った中心地であると思われる」と述べられている。

 ここでは、孔ではなく「祭祀者は、丸石の上に鉾柄を置(突)いて」と読めます。博士の見解をどう捉えて表現したかで大きな違いが出たことになりますが、どちらが正しいのでしょうか。

t御鉾
小野神社の神代鉾(鐸鉾)

 神戸千之著『信濃国二之宮 小野神社の研究』に、小野神社を分割する際に、「矢彦神社に若宮八幡社・御佐口神の石棒を譲渡し、神代鉾一本を別け与えた」とする話があります。この中の「御左口神の石棒」に注目しました。
 御左口神は小野神社創成に関わる神と思われますが、すでに人格神(建御名方命など)が全盛の時代ですから(必要ないと)手放したのでしょう。その石棒が、かつての社地の中央となる御鉾様の瑞垣内に祀られていたと考えれば、すべてが符合します。
 つまり、(現在)御鉾様と称している方形の石は、石棒が安置してあった基台ということになります。当然ながら、神代鉾とは直接には関係ないことになります。この流れで、御鉾様には不敬にも当たる大胆な変遷を挙げてみました。

御佐口神の石棒が祀られていた。
↓ 石棒を譲渡した。
↓ 安置していた穴に、蓋として丸石を差し込んだ。
↓ 記録や伝承がないので、磐座と見るようになった。
穴に鉾を立てた・丸石に鉾を置いて神事を行ったと考えた。

石棒 参考として、近在にある「みみづか様」の石棒を挙げてみました。

 私とすれば気に入った流れになりましたが、自由奔放に解釈したことで、「不敬罪に処す」と祟られてしまうのではないかと心配になりました。しかし、御佐口神の存在をアピールしたことで“帳消しになる”と都合よく考え、これを「まとめ」としました。


‖サイト内リンク‖ 小野神社の「藤池」