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沙田神社の御仮屋殿(御仮屋) 27.1.31

沙田神社
御仮屋殿拝殿本殿(屋根)

 平成21年に沙田(いさごだ)神社を参拝しました。沙田神社には、他社では見られない御仮屋殿があります。その社殿は本殿─拝殿ライン上にあるので、一之鳥居から参道を進むと(写真では→)、御仮屋殿の背面が前に立ちはだかることになります。その時は、疑問も湧かずに帰ったのですが…。

御仮屋殿と御仮屋

 平成25年9月27日に、沙田神社の例祭「本祭り」を見学しました。前夜に「宵祭り」があるのは知っていましたが、“本”を重視したので、今日の祭り日となりました。

 毎年例祭に、鷺沢嶽より萱を刈取来てお仮屋殿の正面に仮殿を作る。此の仮殿の御神座の真下に大きな桶を置き、この桶に水を少し入れる。由緒不明なれど恒例なり。宵祭り典の行事終了し後直ちに古例の神事に移り御神爾を仮殿に遷座し奉る。(抜粋)
小松芳郎著『沙田神社』

 初めての参拝時と違って上記の知識を持ち合わせていましたから、到着してすぐに御仮屋殿へ目をやりました。しかし、その近辺には「穂屋」らしきものもありません。それが今日最大の目的であったので、まだ神事の見学前というのに「わざわざここまで来たのに」と落胆してしまいました。

沙田神社「御仮殿」
御仮屋殿の後部

 気を取り直して、御仮屋殿後部の特徴ある出っ張った構造物を観察しました。それが“吹き抜け”になっているのに気が付くと、「この下に桶が置ける」ことから、本の記述が「御仮屋殿の前方に(別個の)御仮屋を作ったのではなく、この部分に作った」という意味であることに気が付きました。
 そうなると、御射山社の穂屋を知る私は、写真では白線で示した三面(凸部)を萱(カヤ)で覆った御仮屋を、極自然にイメージできました。さらに、見かけは舞台そのものという社殿に、なぜ御仮屋殿の名前が付いているのかも理解しました。
 結局、「穂屋の造営は廃れてしまったが、まだ神事が」と期待し続けましたが、本祭りに御仮屋殿は一度も使われずに終わってしまいました。

「萱を刈取来て…仮殿を作る」

 平成26年9月26日。波田町行きに絡めて沙田神社の宵祭りを見学して、思いがけない御仮屋殿に目を奪われました。社殿には、正に、想像した通りの御仮屋が設えてあったからです。この神事は、まだ廃れていませんでした。
沙田神社「御仮殿」 この時点で、去年目撃した境内の隅にあった枯れススキの山が、御仮屋を解体したものと理解できました。さらに、明日行われる本祭りとは関係なく、今夜(宵祭り)の神事のみに使われることもわかりました。
 外側からは内部が見えないので、近くにいた氏子(多分祭典委員)の一人から「まだ神事前だから」と許可を頂き、その前に立ちました。覗き込むと、下には想像より深めの桶が置かれ、柄が4mもありそうなヒシャクが入っていました。

用途不明の長柄杓

沙田神社「御仮殿」 彼に幾つかの質問をする中で、「現在は、年一回の使用なので(漏れるので)桶に水は入れない」「(遷座した御霊代に)お風呂を使って頂くという話がある」ことを披露してくれました。
 しかし、一方の私は、諏訪神社上社(現諏訪大社上社)の「大祝(おおほうり)と(お手洗い用の)長柄の柄杓」を連想していました。御霊代は写真の白木の板に置かれるので、このシチュエーションでは、大か小かは別問題として“そのこと”はまるっきり突拍子もない考えとは言えません。
 神事の開始は「宵」なので、予定通り波田町へ向かいました。


桶は「肥桶」なのか…

 神社(祭神)に、排泄の話はふさわしくありません。しかし、神話にはそのことが載っているので、不浄として蓋をすることはできません。福永武彦訳『古事記』から転載しました。

その時に女神(※イザナミ)の嘔吐したものから生れたのが、鉱山をつかさどる金山毘古神(カナヤマビコノカミ)。糞から生れたのは、肥料をつかさどる波邇夜須毘売神(ハニヤスビメノカミ)。次に尿から生れたのは、耕地を灌漑する水をつかさどる弥都波能売神(ミツハノメノカミ)

 沙田神社は奈良井川畔にあり、周囲は古代条里制の遺構とされていますから何か繋がりそうです。
 祭神の一柱が伊弉冉命なら、トイレで用を足す(遷座して神事を行う)ことで生まれた弥都波能売神を「梓川の水の神」、波邇夜須毘売神を梓川沿いに広がる「肥沃な土」として崇めることに通じます。しかし、改めて沙田神社の『略記』に目を戻すと、祭神は「彦火々見尊(彦火々出見尊)・豊玉姫命・沙土煮命」ですから、波邇夜須毘売神と弥都波能売神とは繋がりません。元々は伊弉冉命が瀕死の状態での話ですから、現在の神事に結びつけるには無理がありました。

沙田神社は“産”ノ宮、御仮屋は“産屋”

(沙田神社は)地元では「産の宮」として安産の神と崇められている。
小松芳郎著『沙田神社』

 東筑摩郡村教育部会編『東筑摩郡村誌 三』にある〔島立村〕の「社(やしろ)」から、「沙田神社」と「御乳社」の一部を転載しました。

式内沙田神社 …祭神彦火々出見尊右相殿に豊玉姫命左相殿沙土煮命と奉称すと雖(いえども)も実は景行天皇の皇子五十挟城入彦命共云、

御乳社 村社にして…本村中央にあり、木花咲屋姫尊を祭る、北栗耕地の産土神なり、…伝に云う物臭太郎の乳母を祭ると云う説あり、

 次に、『同書』の〔波田村〕から「古跡」の一部を抜粋しました。ここに載る「鷺沢の故事」は〔島立村〕には書いてありません。

 本村より一里十町余西方に鷺沢山と云うあり、沢口より八町余奥にて二(ふた)洞となる、一を西ノ洞と云、一を東ノ洞と云う、西ノ洞を二町余入りて、齋い土と唱え檜椹鬱蒼奇石塁々たる処あり、古昔沙田神社を齋き奉りし旧趾と云う、東ノ洞に乳ノ杜(もり)と唱え繪椹の大木僅か五本あり、御乳明神の旧趾と云う、両所とも里民の口碑に残り樵夫も旧趾の樹木を伐採する事を禁忌す、
沙田神社延喜の名神大の由
穂々出見命
 祭神 鵜草葦不合命 の三神と言う、里民三ノ宮と称す、
豊玉毘賣命
御乳明神
 祭神 玉依比売命と云う
 今は両社とも本村より二里余東方島立村にあり、沙田神社の祭典には鷺沢山西ノ祠齋い土辺にて萱を刈持ちて射て産屋(うぶや)を物し神事を行なう旧例なり、

 『東筑摩郡村誌』は明治期の調査書ですが、カヤで「産屋」を作ると書いてあります。こうなると豊玉姫命の出産シーンに結びつけたくなります。

沙田神社「御仮殿」
例祭準備中の御仮屋殿

 しかし、ここで、沙田神社の祭神に「鵜草葦不合命」が出てくると、いくら八百万の神と言っても「そんな神様はいないよねー」ということになります。ところが、調べると「うがやふきあえずのみこと」と読み、両親が沙田神社の祭神でもある穂々出見命(彦火々出見命)と豊玉比売命とありました。
 改めて調べると、豊玉比売命は「鵜草葦不合命を産む時に、夫の彦火々出見命にワニの姿を見られてしまった。約束を破られた豊玉比売命は、怒って綿津見神の国に帰ってしまった。妹の玉依姫命が乳母(御乳明神)となって育てた。成人した鵜草葦不合命は玉依姫命と結婚し四子をもうける。末子が後の神武天皇」という説明です。沙田神社の祭神としてこの話を結びつけるのは無理がありませんが、出来過ぎというか、何かこじつけ(後付け)のように思ってしまいます。

 この“状態”では、御仮屋を産屋・桶の水を産湯とするには難しいものがあります。単純に、「まず“産”ノ宮があって、それに合うように神話の三神を祀り上げた」とするのが自然でしょうか。

 実は、ここまで「諏訪社ではないのに御柱を建てる」謎を解明しようとするのがベースにあったのですが、どう頑張っても(あがいても)、取り留めのないようなことを並べたに過ぎないという結果になりました。

 取りあえず、(ネタ切れとなったので)宵祭りが古例の神事で、本祭りが諏訪社の神事ではないかとまとめてみました。『式内社調査報告書』でも「由緒不明なれど恒例なり」としているので、「私にわかるはずがない」としました。