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大平神社 下伊那郡阿智村中平 27.6.23

阿智村 予想通り、対向車とすれ違うのに譲り合いの精神が必須となってきました。「こういう時は徒歩に限る」ですが、それを実践するための空きスペースもありません。Uターンもできないまま、山の奥へ分け入りました。
 「大平(おおひら)神社」と書いた小さな標識があり、神社が確認できました。しかし、駐める所が…。そのまま通り過ぎて橋を渡ると民家が散在し、その一角に駐車場の標識が見えました(私も…、という方は参考にしてください)。

大平神社 駐車場とは名ばかりのゴツゴツした空き地でしたが、“後顧の憂い”が解消したわけですから、安心して大平神社へ向かいました。
 前日の雨で滑りやすくなっている参道を、曰(いわ)くがある神社だけに恐(畏)れを遠くに感じながら登ります。

大平神社 周囲は杉の枯れ枝が散乱し、その葉も堆積しています。その色から、神社に対しては不遜な表現ですが“かなりヤバそう”との印象を受けました。もちろん、神社の“現状”がどうなっているのかわからないということがあります。

大平神社 二之鳥居をくぐると随身門がありました。しかし、神像が見当たらないので、随身門風の参集所でしょうか。それをくぐると、正面に拝殿が現れました。
 私がチョイスした阿智村の神社の中でも特異な祭神(御神体)ですから、粗相があっては、と気が引き締まります。

 拝殿に懸かっていた二枚の由緒です。いずれも手製の手書きなので、表現の?はご容赦といったところです。実は、箱の中に印刷した由緒がありました。しかし、自宅で読み比べた結果、「板書き」の方が“面白い”のでここに紹介しました。

琴平様 大国主神・金比羅様 商工業繁栄・縁結神
富士大神 小花開耶姫命 家内安全・農耕神
大平神社 頭(かしら)権現・武田信豊命 頭の守護・学業神

 天正十年(1582)頃、武田勝頼が天目山に滅びた後(のち)、その士である一人が身を山伏の姿に変え神坂峠を越えようと殿島と言う所に来た時、草刈りをしていた熊谷弁治に道を聞いた。弁治は詳しく神坂峠を教えたが、言葉が無礼であると口論の末、携えた鎌で無漸んにも山伏を打殺し、側の谷間に埋て置いた。
 後年この地方に熱病が流行し重患の一人の夢枕に立ち、我は先年殿島に於いて熊谷弁治のために殺された武田の遺臣なり。樹下に埋められし遺骸の今は目口より眼穴に通じて樹根がはびこるために霊魂永く鎮まる惜ず。依って樹根を除き我が骨を納め神として奉らば悪疫直ちに消滅せんと。これを聞きし弁治大いに驚き、思うに彼の時山伏の言うに、我は武田の一族なりと名乗ったことを思い出した。
 熊谷家の祖先は源家の臣熊谷直実である。武田の家は源家の正統である。当時一時の怒に乗じて山伏を惨殺したが、先祖の関係を思えば悲道のきわみと後悔し、埋葬した場所を発掘し、その頭蓋骨を納めきて叢祠を立ち、氏神として奉れば多数の熱病患者はただちに直ったと伝える。この時文禄元年(1592)三月二十八日である。
 この宮を人は頭権現と名称せし。文政十一年(1828)京都吉田家へ大平神社と名称し、届け出(い)で、神名帳に記録され今日に及ぶ。
 耳目鼻口等の病には霊験著しく、また、疾病平癒にあらたかな感をそそるものがある。
 近代の世に至っては学文の神として世に知られ、入学祈願受けたる者は九十八パーセントの合格率である。

春の大祭 四月二十八日
秋の大祭 九月二十八日
社家 熊谷
大平神社
写っていませんが、定紋幕は「武田菱」

 いつもは、大社小社にかかわらず拝礼もそこそこに…、というのがパターンですが、ゆっくりと丁寧に頭を下げます。ダメ押しに軽く会釈をしてから、畏れと期待を持って中を覗きます。しかし、紙飾りがジャラジャラと下がっているので、暗がりの向こうがどうなっているのかわかりません。

大平神社 この写真は、自宅で画像処理をして明るくしたものです。シカの角と見えたのは、確かに角でしたが、刀掛けでした。手前にも刀がありますが、真剣でこの保管状態なら銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)に触れますから、模造品でしょうか。熊谷家先祖伝来の刀としては新しいように見えますから、奉納品としました。
 小刀(しょうとう)の向こうに怪しげなモノが写っています。御神体は本殿の中に納められているはずですから、…何でしょう。
大平神社 拝殿の裏に廻ると、本殿の覆屋が連結していました。拝殿からは見えなかった本殿の中に、“該当するモノ”が安置されているのでしょう。
 この景観を見下ろす位置に立つと、俗世間から持ち込んだ私の好奇心が振るえました。

大平神社 (上写真では)中央部の拝殿の壁に、剣(つるぎ)が何枚も掛けてあります。同じ大きさのアルミ製もありますから、奉納品として大量生産したのでしょう。剣は床下にも多数置かれていますから、神社の外観から受ける印象と違い、現在もかなりの祈願者がいるのかもしれません。
 しかし、拝殿前に書かれた祭神とこの剣が結びつきません。本殿前に垂れ下がった紙に書かれた「オンカクラギ トウゼンキリクライ」の御神言が関係ありそうですが、元より私の守備範囲外です。
 “立ち寄り参拝”ですから、御神体の対面(拝観)は叶いませんでした。例祭日には“開帳”されるのでしょうが、見ない方がよかったと後悔する場合もありますから…。また、「合格率98%」ですが、今やそれを必要とすることがなくなった自分の年を思い、「何を根拠に…」と突っつくことは止めにしました。

大平不動

祭神 霊大神
由緒 (前略) 明治四年の神社取調書上帳には、明和九辰年(1772)に勧請、文政十一年(1828)に京都の神祇管領から大平不動の称号を受け、神名帳へ登録したと記されている。この社は頭蓋骨を御神体として祭祀するところから、俗に頭権現といわれており、頭部の病気に霊験があるといわれ、先年までは春秋の祭典には、近郷からの参詣人で大にぎわいであった。熊谷氏個人の神社である。
阿智村誌編纂委員会『阿智村誌 下巻』〔大平神社〕

 これを読んで、剣の奉納が不動尊信仰によるものと理解できました。また、文政11年の吉田家の承認については、“こんな由緒”では却下されますから、“事実”を伏せて「不動尊」で届けたのでは、と想像してみました。
 昭和53年発刊の『阿智村誌』が言う「先年」が、いつの頃を指すのかわかりません。また、県外の信奉者が多いという情報も目にしましたから、今でも根強い崇敬者がいるかもしれません。

 大平神社は、長野県神社庁に登録されている神社でした。詳細リンクも用意されているので、庁内に御利益を得た人がいるのでしょうか(思い付きの余談です)。

 次回“も”、頭蓋骨を祀る「法力社」です。まだ初夏という気候ですが、この手の神社が好きな方は期待してください!?。