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大山田神社 下伊那郡下條村 18.5.5

 「国指定重要文化財」に惹かれて大山田神社を訪れました。見納めとして気軽にシャッターを押したのが下の写真です。

大山田神社

 自宅で見ると、このサイト一押しの写真が撮れていました。大山田神社の公式サイトがあればぜひ使って欲しいと自画自賛ですが、功労者は5月初めの季節と時間でしょうか。
 境内の案内板から抜粋しました。

古代この辺り一帯は「菅野荒野」と呼ばれ、万葉集に歌われ、菅野朝臣真道縁の地とされている。神社の創立年代は詳らかではないが、平安時代醍醐天皇による延喜式神名帳に載る信濃国四十八座伊那郡二座の一座で、千年以上の歴史を持つ神社である。

大山田神社の社殿

 覆屋内に三棟の本殿があるので、個別に紹介することにしました。

大山田神社本殿

大山田神社本殿
24.10.8 撮影 

 覆屋内の中央に位置しているのが、「大巳貴命(大国主命)」を祭神とする大山田神社の本殿です。社殿の説明に「(江戸時代中期)一間社流造」とあるように、比較的新しいので文化財の指定はありません。
 そのためか、案内板には大文字で書かれた大山田神社ですが、[神社の沿革・歴史]には「下条氏以来潜めていた式内社大山田神社の社名復活を行い」としか書いてありません。

八郎明神社

八郎明神社本殿
24.10.8 撮影 

 大山田神社本殿の左側にある重文「八郎明神社」です。案内板では「領主下条氏はここに正八幡宮と諏訪明神宮を祀り一族の氏神とした。(中略) 寛永年間風倒木のため、八郎明神社殿が損傷を受ける…」と説明していますから、寛永年間に諏訪明神が八郎明神に“変神”していたことになります。

八郎明神社「蛙股」
彩色が残っている八郎明神社の蟇股「鷹に梶」

 本殿の蟇股(かえるまた)が諏訪明神縁(ゆかり)の「鷹に梶」であることから、社殿が諏訪明神社として造られたのは明らかです。そのため、諏訪から来た私は「なぜ、諏訪明神社が八郎明神社に代わったの。諏訪明神社はどこへ行ったの」と疑問を持ってしまいました。

八幡宮社

八幡宮社本殿社
24.10.8 撮影 

 こちらも重文の「八幡宮社」で、大山田神社の右隣にあります。斗きょう(ときょう)などに朱が残っているので、かつては彩色されていたことがわかります。蟇股は八幡様に多い「鳩に橘」でした。
 同一棟梁が造ったとされる古城(ふるじょう)八幡社の蟇股と瓜二つですから、“八幡様で間違いない”でしょう。隣の「諏訪明神社→八郎明神社」の例もあるので、このように書いてしまいました。

大山田神社拝殿

 舞屋の造りにも見えますが、古絵図には拝殿と書かれているので拝殿としました。
大山田神社「奉納額」 上を仰いで、梁に懸けられた奉納額に目を奪われました。村文化財の「八幡宮八郎明神御祭礼之図(レプリカ)」を始め多くの「絵」がありますが、「金的(中)」の「文字」も各所に見られます。金的を射止めた人の名前・流派・年月日が書かれている額だけを拾い読みしてみると、文化・文政・宝暦などの元号が見えますが、いずれも8月15日です。強弓の名手で知られた「鎮西八郎為朝」が八郎明神社の祭神なので、その日を例祭として盛んに奉納弓射が行われたのでしょう。
 重要文化財の見学が目的だったので、予備知識が全くない状態で大山田神社まで来ました。案内板の記述にやや疑問が残ったものの、古社のたたずまいには十分堪能できました。

八郎明神社の社殿は、かつては諏訪社だった 22.10.10

 下條村観光協会のサイトに「ギョウド獅子舞は、10月第2日曜日」とあります。例祭日なら社殿の全景写真が撮れると駆けつけましたが、覆屋の格子戸は閉まったままで、希望的観測の午後から始まるという気配すらありません。社務所にいたお年寄りに確かめると、翌日の「体育の日(11日)」でした。何年間も無更新という業者丸投げのサイトにはよくある…、と社前でグチっても始まりません。
 祭り見物ができないのなら地元ならではの情報を、と例祭の準備で開放された社務所の縁側に座りっぱなしのお年寄りに尋ねてみました。神社総代を務めたという男性ですが、「八郎明神社は諏訪社だったのでは」との問いは、即座に「八郎明神社は昔から八郎明神社社」と否定されてしまいました。
 自宅に帰ってから改めてチェックすると、「下條村」を始めすべての公式サイトが「10月第2日曜日」でした。村民誰もが知っている内輪の祭りだから、ということでしょう。

大山田神社は“後発”の神社

 長野県教育委員会『歴史の道調査報告書』の記述です。

 天文六年(1537)には、八幡社の神官が菅野の根之神社にあった大国主命を延喜式にある大山田神社と定めて、当社に勧請して主神とし、八幡大神と諏訪大明神を相殿に奉祀した。それ以来、社名は大山田神社となった。

 別の神社で祀られていた大国主命を、「式内社・大山田神社の主祭神」として迎え入れたことになります。この時に京都の吉田家で「式内社」の承認を受けたそうですから、“ヨソ者”の私は、つい“式内社の沙汰も◯次第”と思ってしまいました。
 延享元年(1744)とある『伊那郡神社仏閣記』から〔鎮西村〕です。

一、八幡宮 神主 鎮西氏

一、本社 大己貴命 是社大山田神社也、神名帳に伊奈郡二社の内

一、諏訪大明神
一、末社若宮八良明神 是鎮西八郎為朝を祭る、
一、末社五社大明神 是は春日社四座に天種子命を祭る也、
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』

この時代では諏訪社は健在で、為朝社は末社扱いです。
 以下に、下條村と県教委の“見解”を転載しました。

 本社の祭神源八郎為朝は、平安時代の武将源為義の八男で、通称八郎といった。九州にあったので鎮西八郎を称したが、もちろん信濃国、ことに伊那郡とは関係がなく、一説に為朝を奉祀したのは江戸時代のことで、本社はもと諏訪明神を奉祀してあったものであろうともいわれている。本社宝蔵の棟札中慶安元年(1648)のものには「奉再造諏訪大明神」と銘がある。おそらくこの時古材を用いて本社殿の再造を行ったものであろうと思われる。
下條村誌編集委員会『下條村誌』
 諏訪神社が為朝社になったのは、地名が鎮西野(ちんぜいの)であることから、後世において神官が鎮西八郎為朝に仮託したものと考えられる。
長野県教育委員会『歴史の道調査報告書 ─遠州街道─

諏方大明神は、大山田神社に合祀

大山田神社本殿 長野県『長野県史』がズラーッと並んでいます。大山田神社は国の重要文化財ですから、その一冊である『美術建築資料』を開くと、目論見通りに〔大山田神社〕がありました。その図録から、「寛政3年(1791)」とある絵図の一部を転載しました。
 これを基にして、未完成に終わった「新造立之図」と現在の社殿位置から「諏方大明神本殿変遷図」を作ってみました。

大山田神社の変遷図

この変遷の経緯を補足するために、同書の解説文も転載しました。

全体を再建することができず、修理にとどめ、その後、八郎明神の方は修理もできず、諏訪明神を本殿に合祀し、そのあとに八郎明神を入れたものであろう。

 これで、大山田神社の本殿に諏訪明神が合祀されていることになりますが、“現実”にはその形跡はありません。それはともかく、「八郎明神社の社殿は、かつての諏訪社」という私の推理が裏打ちできました。しかし、案内板を深読みしただけなので鼻を高くすることはできません。それにしても、諏訪明神はどこを彷徨(さまよ)っているのでしょうか。

旧八郎明神社覆屋

八郎明神社跡
24.10.8 撮影 

 天保年間に描かれた「八幡宮八郎明神御祭礼之図」を見ると、境内の左側が現在と同じ配置で描いてあることに気が付きました。改めて寛政の古絵図を参照すると、上写真では右端(最奥)の社殿の右辺りに八郎明神社が描いてあります。現在あるその社殿は空き屋になっていますから、桁間三尺七寸とある八郎明神社の覆屋だったことが考えられます。かつてはこの中に八郎明神社を安置してあったとして、「旧八郎明神社覆屋」と書き入れました。


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