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佐支多神社 島根県出雲市斐川町 20.5.17

斐川町「御射山」

 駐車場がないので、佐支多(さきた)神社入口の空地を借用しました。面白いスペースで、大きなカーブの内側がそっくり空いています。縁石で囲われていて神社側しか入れませんから、“緊急避難”なら「佐支多神社の駐車場に使ってもいいよ」ということでしょうか。しかし、そこにポツンと立つ、ブロックで囲われた古い石祠の存在が気になります。「祟りを恐れて道を大きく迂回したのでは」とも思ってしまいました。

佐支多神社

 参道の両側が民家なので、路地の奥にひっそりと鎮座していた、というのが佐支多神社の第一印象でした。管理者がいるのでしょうか、扉が開放されている拝殿内をのぞくと、「伊勢宮」と「佐支多社」の額が掛かっています。本殿前の定紋幕と社旗は、学頭諏訪神社と同じ「二重亀甲に鷹の羽」が染め抜かれていました。

額束「御射山」 すでに5時半を過ぎていますから、ゆっくりはできません。まずは本殿の写真を、と境内の奥へ進むと、赤い鳥居のお稲荷さんが現れました。『出雲国風土記』にも出てくる古社に「なぜ」という展開ですが、これは地元の都合ですからとやかくは言えません。
 鳥居額を見上げると…、出ました「御射山(みさやま)」が! 地図上にしかなかった地名を「御射山稲荷大神」に見つけました。実は、佐支多神社の祭神には失礼に当たりますが、ここへ来たのは「御射山」が目的でした。佐支多神社があるので立ち寄ったのですが、古社よりお稲荷さんの方に注目してしまう結果となりました。

(改めて)佐支多神社

佐支多神社本殿 本殿の側方を見上げると蟇股に花鳥の彫刻があり、彩色されているのがわかりました。
 その視線を下方に移すと、床柱に鬼板が立て掛けられています。屋根の勾配から、木製が本殿で石製が拝殿に使われていたものと考えてみました。改築時に不要になったものを、展示を兼ねて置いたのでしょう。

佐支多神社境内社 文化元年(1804)の燈籠や社日を見ながら境内奥に進むと、引退した弘化二年(1845)生まれの狛犬がいました。シルバーでも、「まだまだ境内社くらいは守れる」といったところでしょうか。竹林をバックにした境内社を左右から見守っています。

 遠目には各種境内社ですが、ブロックの共同玉垣内をのぞくとゴミが詰め込まれていました。「それは違う」と反論が出そうですが、古神札と同じ感覚で人形や動物のオモチャを納めても、定期的に処分をしないと見苦しいだけです。専用の収納場所を設置するのも手だと思いますが…。
 今回巡ってきた出雲の他社では、古人形等を納めるのは「荒神」様と決められているようです。いずれも納めっぱなしで、「神様や雨ざらしにされた人形が泣いている」と言う以前に、近づくのが怖いような場所になっていました。

 境内には神社縁起がありません。その代わりとなるのが入口にある案内石柱「斐川町田園博物館」ですが、「主祭神は建御名方神で、出雲では当社の祭神として、五穀豊穣を祈る神として崇敬されている」とあるだけです。デザイン(と制作費)は抜群ですが、全くの貧内容なので参考になりません。ただし、設置の趣意が違いますから、異議を唱えられても困惑するだけでしょう。

 駐車場所に戻ると、交差点の先に伸びる道の奥に小さく鳥居が見えます。今戻ってきた参道の延長に当たるので、佐支多神社の「一ノ鳥居」なのかを確認することにしました。


 この後に劇的な展開があり、佐支多神社は「御射山社」で、「長野県の諏訪大社―御射山社」に対応する「神庭諏訪神社―御射山社」とわかりました。詳細は、最下段の「出雲の御射山」をご覧ください。


石祠 諏訪神社から急ぎ足で戻ると、冒頭に挙げた「謎の石祠」が残照に染まっていました。
 あと10分で7時という時間を確認してから「あっちが西になるんだ」と夕陽の源を見つめると、未だに馴染めない“縦長の石祠”の存在が、「ここは(長野県)諏訪ではないんだ」との想いを増長させます。
 しかし、徐々にモノトーンに変わる異国の空は、非日常の「今夜はどこで車中泊か」という不安に重なります。次の行動「取りあえず、コンビニへ」を実践しました。

大黒山から御射山地区を遠望

御射山

 翌日登った大黒山から、御射山付近を撮ってみました。右上の  内が佐支多神社の本殿です。
 『雲陽誌』の「上庄原」では、以下のように載っていました。

諏訪明神 健御名方命なり、本社二間四面、拝殿も二間四方、天文年中に新建の棟札あり、祭祀正月十七日田植の神事、七月廿七日九月九日獅々舞あり、

旧暦の「7月27日」は、諏訪神社(現諏訪大社)の御射山祭と同じ日です。


‖サイト内リンク‖ 「出雲の御射山」神庭諏訪神社と佐支多神社の関係