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倭文神社と本宮倭文神社 山梨県韮崎市

 長野県神社庁のリストには「倭文神社」は載っていません。その長野県民の一人である私には馴染みがない神社とあって、韮崎市の倭文神社を「わぶん」と読んでしまいました。「しとり・しずり」などと呼ぶそうで、『一太郎』では「しとり」だけが「倭文」に変換しました。

倭文神社

 韮崎ICから(地図では)金峰山に向かって「延々と登る」のが実感の「昇仙峡ライン」です。その県道27号沿いに倭文神社の玉垣があり、前が穂坂小学校と駐在所という極めて明快な場所でした。
 参道入口にあった案内板です。

祭神 天羽槌雄(あめのはづちお)命・天棚機(たなばた)姫命

由緒 甲斐国所在の延喜式内二〇社の一。甲斐国志には倭文神社降宮明神とある。穂坂総社といい、郷中で最も格式高い神社であった。倭文はしずおりで、麻などの繊維を赤・青などに染めて横糸として織った古代織物である。穂坂御牧(みまき)が栄えたころ、御牧の役人の妻や娘などが中心となって織った精巧な織物でこれらの女性たちが技芸の上達を祈るために天羽槌雄命・天棚機姫命を祀ったのが、この神社の起りである。降宮はおりみやで、織宮を意味する。(後略)

 穂坂の総社とあって広い境内です。随神門の部材に、定期的に塗り替えているのか、鮮やかな青色が見られます。同色の衣をまとった神像に会釈してから拝殿に向かいました。

倭文神社本殿

 本殿の大棟「箱棟の鬼板に鬼の面」は、山梨の神社で多く見られます。驚くことはなくなりましたが、それでも、一時は見上げてしまいます。しかし、「なぜ山梨県」なのか未だに不思議です。大きな本殿は「流造・軒唐破風付」という様式だと思いますが、案内板がないので詳細はわかりません。

環状列石 写真だけを見れば「環状列石」です。本殿の瑞垣内に見つけましたが、径1.5mの石の配列には注連縄はありません。左下が柵の角に当たる礎石ですから、ぎりぎりですが、この列石を瑞垣内に取り込んだのは間違いありません。中心に据わった石に何か意味があるように見えますが、首を傾げるしかできませんでした。
 本殿の後方・境内の際に石碑があるのに気が付きました。「山梨県指定天然記念物・朝鮮五葉松」とありますが、すでに枯れて久しいようで「跡」になっていました。境内を一巡りすると、「倭文神社の古宮(古社地)がこの先にある」という情報を持っていたので、(神様には失礼な表現ですが)興味の対象はそちらに移りました。

本宮倭文神社

 地図に「本宮倭文神社」とあるので、倭文神社の古社地に違いありません。「昇仙峡ライン」をさらに遡った穂坂町柳平の集落から、川辺に建つ鳥居が見下ろせました。
 石段を登り切ると、左に神庫・右に神楽殿という境内でした。神楽殿の柱にはササがくくり付けられ、天井からはカラフルな紙垂が下がっています。現在でも、柳平の人々が神楽を奉納している印でした。
 正面が拝殿ですが、青い大梁が印象的です。神楽殿の床柱も同じ色に塗られていますが、ツヤ消しの状態になっているので視覚上の嫌みはありません。拝殿の前に立つと、その梁の中央には、赤地に銀で「丸に五七の桐」が彫り込まれていました。

本宮倭文神社「神楽殿」

 拝殿背後の斜面に本殿へ続く石段(写真右)が見えていたので、拝礼の後に登ってみました。
本宮倭文神社本殿 本殿の右横に「何か」が見えるので確かめることにしました。「お腰掛」を期待していたのですが、見下ろす位置に立つと、朽ちた瑞垣の中には直方体の切石が組んであるだけでした。こうなると、現時点での乏しい情報では、「この上に里へ下った倭文神社の本殿があった」と想像するしかありません。

本宮倭文神社神輿 神庫と思われる社殿を格子越しに覗いてみると、神輿が安置してありました。すでに担がれることはないようで、土埃か退色か、色彩にツヤがありません。ここにも「丸に五七の桐」が見られました。
 「本宮」とある倭文神社ですが、境内をここまで一巡してきても、両社の関係を具体的に見い出すことができません。現在は、「その関係」は解消されて別個の神社になっているのかもしれません。


降宮明神

 以下は、自宅に戻ってから調べた、山梨県では“この本”という『甲斐国志』です。倭文神社の当時の名称「降宮(ふりみや)明神」を抜粋しました。

〔降宮明神〕宮久保村に鎮座す。柳平・三ツ澤三村の産神なり。(中略)山宮の地柳平村境に在り。(中略)社記云、祀所天羽槌雄神・天棚機姫神にして本邦衣服の祖神なり、州俗(しゅうぞく※土地の風俗)織女と称して七夕に羣參(群参)す、又産婦の守護神とも称せり、古棟札に穂坂総社倭文神社降宮大明神とあり、(中略)七月七日神子神楽、(中略)祠後の松樹大五圍(囲)なるべし、中間より数幹に分かる、御腰掛木と称す。又五鬣(葉)松の三圍餘(余)なるあり、(中略)又神明・御崎・原山の祠あり、(後略)
甲斐叢書刊行会『甲斐國志』

 『韮崎市誌』の「倭文神社」には「7月7日の七夕祭には、柳平の七夕社から倭文神社まで神輿の渡御が行われたといわれ…」とあります。かつては、本宮倭文神社は「七夕社」と呼ばれ、写真の神輿が使われたことがわかりました。しかし、神輿は「五七の桐」で、渡御先の倭文神社は「(瓜紋の)丸に二」です。こうなると、「五七の桐」は神紋ではなく統治者(パトロン)の家紋とした方が無理がなくなります。

七夕社と本宮倭文神社

 再び『韮崎市誌』から「本宮倭文神社(旧村社)」を抜粋しました。

祭神 七夕社 天棚機姫命・天羽槌雄命。神明社 天照大神・豊受大神。貴船社 伊弉冊命。天神社 菅原道真公。

由緒 昭和二九年五月、前記四社を貴船神社に合併の議が起こり、同三四年一〇月神社本庁の認可を得て本宮倭文(しとり)神社と改称した。柳平地区は宮久保の倭文神社の山宮のあったゆかり深い地であるからである。
 倭文神社は機織りの神であり倭文氏の祖である天羽槌雄命と天棚機姫命を祀り…(後略)

 「貴船神社に合併」ですから、倭文神社と同じ祭神を祀った「七夕社」は、合祀という形ですが現在でも“健在”ということがわかります。ここでは「倭文神社の山宮の(が)あった」という過去形の表現ですが、やはり「山宮─里宮・古宮─新宮・本家─分家」の関係は「七夕社─倭文神社」として続いているように思えます。また、「本宮倭文神社」は最近の名称で、これがヨソ者の頭を混乱させる「本」になっていることがわかりました。

 この本では、礎石が残っている神社が何であったのかはわからず終いでした。「本宮倭文神社」の項では、「とにかくこの辺りは古い神まつりにつながる事柄が多く、まだ調査を要する余地が多いように思われる」と結んでいるので、地元でもハッキリとしていないのでしょう。