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須々岐水神社(薄宮) 松本市里山辺 23.6.30

「もろつまの須須支(薄)」
 信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』に、菅江真澄の紀行文『来目路の橋(くめじのはし)』が収録してあります。

『菅江真澄民俗図絵』から「薄明神」
岩崎美術社(内田ハチ編)『菅江真澄民俗図絵』

 天明4年(1784)の7月3日には、塩尻市洗馬(せば)から松本市山辺(やまべ)「兎川寺(とせんじ)」を経て「山辺の湯」に行く道中で、現在の「須々岐水(すすきがわ)神社」に詣でたことが書かれています。
 文中に「もろつまの薄」の記述があり、よほど珍しかったのか、本人が描いた「薄明神」の挿絵まであります。絵まで見てしまえば、これはもうそのススキを見に行くしかありません。
 以下に、「薄大明神」のさわりを、原文を損ねない程度(ひらがなを漢字)に書き換えて転載しました。

(七月)三日 夜(よる)明けなんとしける頃、手洗い、近き境(※村境)に御坐(おま)しける薄大明神に詣でんとて、朝明けの道を行き行きて、その里になりて神籬(ひもろぎ)を奉れば、御社(みやしろ)の左に軒と等しう高き、はたススキ(旗薄)を数多(あまた)植えたりけるを、「あない(※あれを)見たまえ、この芒(ススキ)もろつまの須須支とて、こと(※同じ)ススキとは変われり」など教えたり、うべ(※なるほど)と、広前(ひろまえ※神前)へ近う寄りて幣(ぬさ)奉るとて、
(ぬさ)とれば薄の宮のほのぼのと
  あけの玉籬(たまがき)風の涼しさ
奉る薄の宮の神垣に
  囲う尾花が袖の白木綿(しらゆう)
この神のことも、とはまほ(問い申)しくて、神司(※宮司)上条権頭某(なにがし)と言う人のもとに、尋ねてければ、主(あるじ)、しばしのほどに、外より帰り来て語りて云う、その古に厩戸皇子、この山を愛で、(後略)

 ここで、いきなり(なぜか)聖徳太子(厩戸皇子)が登場しますが、この後は「彼が美ヶ原の山中で出会った山賎(やましず)が素戔嗚尊」と続き、以下の「薄宮大明神のご神体」に繋がります。

薄宮大明神

 『信濃史料叢書』は、『信府統記』(1724年)も収録してあります。〔松本領諸社記〕から、〈山家(やまべ)与〉の「薄宮大明神」を転載しました。

 当社は此の郷未開已(以)前此の地より辰巳(※南東)に当たりて、三里有余山の奥に跡を垂れましますにより、今其の所を号して大明神平と云えり、然して後此の地に降臨の初め薄の葉に召され、薄川の流れにつきて今の薄畑という所に至り給いて、後当社に移り給うと云云(うんぬん)、ご神体は素戔嗚尊なり、古えは相殿も祀られたるか、其の伝を失う故に今は無し、本殿の巳午(※南南東)の方に諏訪明神を祀られる社の跡あり、社地の傍らに片葉の薄あり、則ち是を神体と云い伝う、一社の伝記悉(ことごと)く忘失して、右家伝の外には云い伝わる事なし、
出雲路や八雲八重垣たちけして
  そのうつ薄いまはほや野(後述)
是薄大明神の御詠歌なりとかや、

 菅江真澄より60年前という時代差がありますが、ここでは「薄宮の左にもろつまの薄」ではなく「諏訪明神を祀る社の跡があり、その傍らに片葉の薄がある」としています。表現が“微妙”に異なっていますが、『信府統記』は公文書なので、こちらを重視すべきでしょうか。

須々岐水神社と片葉のススキ
 須々岐水神社は「お船祭り」や「御柱祭」で知られているので、それに関連したブログやサイトは多くあります。その状況下では私が必要とする「ススキ」の情報は極めて乏しいのですが、それでも「片葉のススキは健在」とわかりました。

須々岐水神社

 旧里山辺村の中枢部である地域には、古いところでは積石塚である「針塚古墳」や「兎川寺」、“中所”では旧山辺学校が「山辺学校民俗資料館」として、新しいのは(何の施設か不明の)「松本市教育文化センター」などがあります。その駐車場に車を置いて、須々岐水神社へ向かいました。

須々岐水神社

 「薄宮大神」とある鳥居をくぐってから、須々岐水神社の拝殿の左右に御柱が建っていることに気がつきました。「須々岐水神社はお船祭り」の先入観があったので、御柱祭があることをコロッと忘れていました。5月に建てたばかりなのでまだ白木でした。

須々岐水神社の神紋

須々岐水神社「神紋」 拝殿と本殿の大棟に、諏訪社の証である神紋「立ち梶の葉」が見えます。案内板では「鎌倉時代に祭神が建御名方命・素戔嗚命と改められた」とありますが、現在も“そのまま”なのでしょうか。本殿の鬼板と大棟の神紋が立ち梶の葉なので、それを見る限りでは諏訪一色です。本殿正面の蟇股は微妙ですが、これも梶の葉でしょう。

片葉のススキ

須々岐水神社「片葉のススキ」 須々岐水神社より「片葉のススキ」が気になります。しかし、境内を見回してもそれらしきものはありません。ようやく、社務所の横に、注連縄で囲われた形ばかりのススキがありました。「天然記念物にも匹敵か」と期待していたのですが、一本ずつ確認しても“ことススキ”でした。「片」葉になる要因の一つは強風とあるので、元々から変異種ではなかったのかもしれません。
 「片葉のススキ」については、「祭神が、薄川の上流・大明神平からこの地へススキ(の舟)に乗って来られたが、川底でススキの葉がこすれ片葉になった」という伝承があります。しかし、「その舟のススキが根付いたが、成長しても片葉のままだった」という“後日談”がないので、中途半端な話になっています。

須々岐水神社古宮

須々岐水神社「古宮」 須々岐水神社の近くに「古宮」があるという情報を得ていたので、これは必見と行ってみました。ところが、案内板の文字が風化していて「薄」一文字が読めるだけです。自己流の解釈では、「古」宮から、まず上陸したこの地「薄畑」で態勢を整えてから薄宮を造ったということですから、ここに「片葉のススキ」があるのが理に叶っています。かつてはそのススキが生い茂っていたと想像してみましたが…。
 それは別としても、ここはなかなか伝承にマッチした景観なので、祠の右に薄川の上流を半分入れる構図にしてみました。最奥の山は美ヶ原の「王ヶ鼻」だと思いますが、自信はありません。私の背後はブドウ畑なので、ワイド一杯でもこれが限度でした。

薄宮神司上條氏

上条家の奥津城 須々岐水神社境内の真後ろから道一本隔てた場所に生け垣があり、大きな石碑の頭が覗いています。その立地から「須々岐水神社歴代神司(宮司)の奥津城(おくつき)ではないか」と直感していたので、古宮の帰りに寄ってみました。写真にも見える大きな墓石に「藤原◯◯彦神霊」の文字があります。各地の神社で目にした古い墓碑銘がすべて藤原でしたから、神主の正式名は「藤原姓」になるのでしょう。その文字と共に(家族の)「上條」の名が多く見られます。やはり、歴代宮司家の墓地でした。
 今から、二百二十年余り前に、菅江真澄が須々岐水神社の縁起を伺った上条権頭(上條権頭義高)さんもここに眠っているのでしょうか。生け垣の外からは「権頭」の文字は見つかりませんでした。
 山辺は、延暦年代の古文献にも「高句麗からの渡来人が須々岐の姓を賜った」と載っているほど古い歴史を持っています。今回、前から気になっていた(渡来系の墓と言われる)積石塚「針塚古墳」も見学できました。“あの有名な道祖神”も気になりますが、今回は諏訪神社二社を参拝して諏訪に戻りました。

薄宮古宮の由緒

 ネットで2008年の日付がある「案内板の写真」を見つけたので、テキストに替えてみました。

薄宮古宮(すすきのみやふるみや)
 薄宮須々岐水神社は里宮・古宮・奥社の三社を以て構成されています。
 此の地は古代神を招き稲作の豊穣を祈願した旧(もと)の社地と伝えられるとともに、須々岐水神・須々岐氏・薄川・薄町などの神名地名語源地とも云われ、六世紀頃の築造とされる古宮古墳からは直刀・馬具などが出土しています。
 また、この地は往古奥社の在る大明神平より薄川を舟下りし建御名方命とともに山辺の地を拓いたとされる素戔嗚命の上陸した地とも伝えられています。
須々岐水神社社務所 

 代わって、小口伊乙著『土俗から見た信濃小社考』から〔水神様〕の一部を転載しました。

 須々岐水神の社から南、僅かのところに方一米高半米の石がありその上面に単に神の足あとと伝えている中窪みの足形がある。その上に小祠を建ててある。(中略)この中窪みのある足形の石の上の小祠は須々岐神社のもとの位置であったのではないかというがいまきめてはない。ここを元宮と呼んでいる。この元宮には大きな石が二つある。おそらく神の足形として、石に残された信仰の変化であろう。

「そのうつ薄 いまはほや野に」 26.3.20

 図書館で何気なく手にした冊子『長野県民俗の会 第35号』ですが、表紙に並んだタイトルの一つ「須々岐水神社の御柱祭」に目が留まりました。太田真理の名前がある論文でしたが、〔三 須々岐水神社について〕から、「上條家に伝わる資料や神社にまつわる伝承を、現宮司の先々代がまとめ記したものである」と注釈にある由緒のみを転載しました。原文はカタカナですが、読みやすいように句読点と(ふりがな・注釈)を加えました。

 太古古原(こばら)の地に諏訪明神を祀れる社ありき。そは現在の本社より南方凡(およそ)一町の地点にして現今古宮(ふるみや)の在る所なり。傅(伝)え云う。往昔松本平の盆地一円の湖水なりしを神の力に依って排水の作業行われ、水を越海(こしうみ※日本海)に瀉(そそ)、人民をして其居に安(やす)んぜしむ。時人(じじん)其徳を尊み須々岐水の神と奉称し此の地に神祠を立てて是を祀れりと。
原文は「潟(すす)ぎ」
 次に前記薄川の上流三里有餘(余)の地に穂屋野と称する所あり。此所に古くより鎮座し給える社を薄宮大明神と称し出雲の神即ち素戔嗚命(すさのおのみこと)を祀れり。
(中略)
 後、出雲ノ神薄川に沿うて下ること三里餘、今の薄畑の地に移らる。時人是より旧址を呼んで大明神平と云う。今の奥宮の在る所なり。
 薄畑の地に移り給える薄ノ宮は治水に功ありし須々岐水の神と其祀を接したりしが、いつしか混じて一社となりしを。後、更に現地に移し奉る。今の須々岐水社即是なり。
 故に今日にては祭神建御名方命合殿素戔嗚命にまします。又本社を須々岐水社と唱え或は薄ノ宮など称するは此故なり。

 これで、薄大明神の御詠歌「ほや野」が「穂屋野(御射山)」であることがわかります。ただし、「そのうつ薄、今は穂屋野」としても、全体としての意味は私にはわかりません。ただし、須々岐水神社が素戔嗚命と建御名方命の二柱を祀っていることはよく理解できました。