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高橋神社と蚕玉社 上伊那郡箕輪町中箕輪 24.6.22

春日街道 何か抜けている箇所がありますが、正誤表が無いので…。

 春日街道について、春日街道は飯田を基点として、松本を結ぶ道として計画されたものである。この道筋を計画された当時飯田城主であった京極高知守は、文禄二年から慶長六年までに飯田から上片桐までの間はすでに開通していた。その後京極高知の後をついだ小笠原秀政は当時執権職にあった春日淡路守に命じ工事を監督させ、慶長十三年までに飯島町七久保より箕輪町大出までを竣工させた。「大井出」以北はすでに伊那街道が出来ていたので、これを併用したものと考えられる。(後略)

 これは、長野県教育委員会『歴史の道調査報告書−春日街道−』から「一、道筋」の冒頭です。ここに出る「大出」が、春日街道が伊那街道に合流する地籍です。現在の春日街道は人馬用の道を引き継いでいますから、車にとっては、ようやく伊那街道(国道153号線)に出てホッとできる地点になります。
 前置きが長くなりましたが、春日街道から直に参道が始まる高橋神社は、地元では「大出高橋神社」のほうが通りがいいかもしれません。

高橋神社

高橋神社 鳥居額は「高橋大権現」でした。それを頭上に見てくぐった先の拝殿には、上伊那地域では“お決まり”の「お宮参りの扇子」が結わえてありました。高橋神社は「この扇子」の確認が目的だったので、覆屋の中に“隠された”町指定文化財の本殿は潔く諦めて(ついでなので)境内を巡りました。

蚕玉社

蚕玉社 社務所の右側に蚕玉社がありました。こちらも覆屋の中ですが、格子戸を通して観察できます。埃にまみれて白っぽくなっている身舎ですが、扉が外れて痛ましい外観になっています。ただし、私にとっては“拝観”ができたので好都合となりました。
 写真では見えませんが、大棟に三本の棒が放射状に打ち付けてあります。頂部に白いモノが残っているので「幣帛」と想像できますが、なぜ屋根にあるのかはわかりません。それを幣帛として「三柱の神が合祀されている」と考えたので、身舎内に納められた板札を(意味不明ですが)「…屋根替蚕五社…」と読んでみました。

蚕玉社彫刻

 「蟇股」とは言えませんから、その位置にある彫刻に目を留めました。初めは「梶の葉発見」と胸が高鳴ったのですが、社殿が蚕玉社であることから「桑の葉」と理解しました。同じ桑科ですから、まんざら早トチリとも言えません。他所では見られない造形なのでじっくり観察しました。
 「畑から採ってきた桑の枝束を、摘み取って籠に入れた」とまではわかります。ところが、なぜマナ板が必要なのか作者の意図が読めません。マナ板に置かれたのは包丁以外には考えられませんから、「葉を刻んだことがあったっけ」と記憶の深層部に刺激を与えてみました。しかし、養蚕を手伝ったことがある私でも具体的なイメージはよみがえってきません。子供の私が応援にかり出されるのは、それこそ猫の手も借りたいほどの“蚕繁期”です。目撃はしていませんが、一齢蚕(いちれいさん)などの卵から孵ったばかりの頃は葉を刻んで与えたのかもしれません。

古墳?

高橋神社「墳墓」 本殿の背後に当たる境内には境内社が並んでいました。その後方にこんもりとした土壇があることに気がつきました。古墳にも見えますから、“失礼があってはマズイ”と写真だけですが紹介することにしました。

蚕玉社の棟札

蚕玉社の棟札 撮っておいた木札の写真を参照し、隠れて見えない字を想像して「天児屋根(あめのこやね)替(?)蚕五社」と解読してみました。ところが、「一太郎」の手書き文字入力を使って写真の文字を忠実に書いたところ、(当然だろうと言われそうですが)「替」とわかりました。屋根の葺き替えですから、「奉屋根替蚕玉社」です。半分隠れている「地久・康栄」も「天長地久・社頭康栄」とまでわかり、棟札と断定できました。参考までに(といっても該当者がいるわけではありませんが)、「信濃国上伊那郡中箕輪大出□□・社掌滝山新一郎謹□」を(滝山さんに無断で)公開しました。因みに、「社掌」は旧制の神職名です。

中村清之丞

 千村茂著『伊那蕗原の里−大出とその周辺』に蚕玉社の消息が載っていました。

 児玉様を祭る児玉神社が建造されたのは明治の中頃と思われるが、造営の文献は見当たらない。(中略) 内殿は欅造りで木彫がほどこされ、実に立派なものである。その内殿は宮大工中村清蔵、号清之丞の手によって作られたものであるといわれている。

 記憶の中に中村清之丞らしき名が残っています。ネットで検索したら、…私のサイトが表示しました。松島神社の拝殿と法性神社の本殿「龍の彫刻」の制作者でした。正確には“書き覚えがあった”となります。