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玉依比賣命神社 長野市松代町 25.1.7

 長野県神社庁の表記は「玉依比賣命神社」ですが、以降は、広く使われている「玉依比売命神社」としました。

玉依比売命神社 諏訪では、北信濃に鎮座する玉依比売命神社の資料はネット以外では手に入りません。そのため、神社前の案内板から「由緒」を抜粋して転載しました。設置者が玉依比売命神社社務所なので、ネットの情報と違い“信用性”があります。

玉依比賣命神社 由緒

〈 由緒 〉
 神社創建の縁起によれば、「人皇八代孝元天皇十六年四月十六日東条斎川の地に勧請された」とあり、斎川は現在の岩沢である。その後磯並(現在の中川)に移り、磯並三社大明神と称した。現在の地に鎮座したのは寛喜二年(1230年)と伝える。
 延長五年(927年)左大臣藤原忠平らにより撰進された延喜式五十巻の中の神名帳に記載された信濃国四十八座の式内社の一つとして、その歴史は極めて古い。現社殿は天保四年(1833年)に改築された、八棟造りを模した荘厳な建築である。

〈 祭神 〉
主祭神 玉依比賣命(初代神武天皇の母神)
合 祀 天照太神・建御名方富命・素戔嗚命

〈 主たる神事 〉(抜粋)
児玉石神事 御田祭の翌七日早朝より、神社の神宝で県宝にも指定されている古墳時代からの翡翠の勾玉・管玉などを主とした「児玉石」の数を改める。平成二十三年は八百二十七個。今も玉の数の増減でその年の吉凶を占う。

東条谷
玉依比売命神社から中川・岩沢方面を見る

 玉依比売命神社は、東条(ひがしじょう)斎川(岩沢)→磯並(中川)→現在地という変遷があったことがわかります。地図では、奇妙山の谷の一つから尼巌(かざり)山の裾に沿って下ってきたことになります。「磯並」については、後述としました。

玉依比売命神社の拝殿

玉依比売命神社
玉依比売命神社(左側に本殿の一部が見える)

 『由緒』にある「八棟造」とは如何なるものかと、撮っておいた拝殿の写真を注視しました。ところが、諏訪にある足長神社の「五棟造」を例にとると、…4棟しかありません。そこで、ネットに頼ると、『Kotobank』では「妻の入母屋破風(いりもやはふ)2重に重ね、千鳥破風を置くなど破風の多いことに由来し、棟が八つあるわけではない」と説明しています。改めて写真を見直すと、この解説で納得できました。

玉依比売命神社本殿

玉依比売命神社本殿 渡り廊で繋がる、一段高い場所にある本殿を撮ってみました。写真ではわかりませんが、大棟と鬼板に「六文銭」が飾られています。「三間社流造」なので、合祀を含めると拝殿内の幣帛4本と一致しました。また、社殿額に拝殿の「玉依比売命神社」とは違う「見馴れぬ文字」を見つけましたが、読めないので写真に撮って持ち帰りました。

 玉依比売命神社といえば、「児玉石神事」です。実は、今日はその神事を見学するために来たのですが、そちらは別ページでご覧いただくことにして、以降は「磯並」についての話になります。

「磯並(いそならべ)と磯波」 27.5.10

「磯並三社大明神」

磯並三社大明神 自宅で、かなりうつむいている社殿額の写真を睨みました。しかし、目を細めても読めません。斜めとあって首も疲れます。そこで、強引に引き起こしてみたら「磯□□□大明神」とまで読めました。案内板にヒントが、とこれも写真にメモした『由緒』を参照すると、何と「磯並三社大明神」でした。ただし、「並」とわかってから改めて写真を見ると、異体字の「竝」でした。
 現地で案内板を読んでいたら、宮司や氏子にその読み方を訊くことができたのですが、今となっては…。仕方がないのでネットに頼ると、地元の関連サイトでは「いそならべ」と振り仮名がありました。諏訪の「磯並社」と同じ読みですから、以降の進展に弾みが付きます。

 

 諏訪大社上社の摂末社に、小袋石で有名な「磯並(いそならべしゃ)」と児玉石で知られる「児玉石神社」があります。何か関連性が…。

 

『信濃国埴科郡池田宮縁起』

 県立長野図書館蔵『信濃国埴科郡池田宮縁起』(以降『池田宮縁起』)があります。基本情報は「池田宮児霊石由来は、松代藩士馬場広人方へ申し遣し、寛政10年(1798)極月神主から写し遣わしたものである。これを享和元年(1801)霜月、吉沢弘道が筆写したものである」と解説しています。
 「池田宮」は玉依比売命神社の別称でもあるので、「何かありそう」と目を通してみたら「諏訪郡一ノ宮(現諏訪大社)」を見つけました。

神霊の集会給う御璽(しるし)也、同国諏訪郡一ノ宮にも霊石の名有り、神躰を磯並大明神と祭り奉る、

 「諏訪にも磯並大明神がある」という書き方ですから、社殿額の「磯並三社大明神」は松代のオリジナル神ということになります。今までは、同じ「磯並」とあって「諏訪から勧請した」という流れで進めてきましたから、思わぬ展開となりました。改めて、読み直すと、

 抑(そもそも)一川の旧地より居定給うは人皇十七代仁徳天皇の頃と伝え為して、今の池田の宮地定まりしは其後にして、寛喜改元の年とあり、それ迄は磯波の社跡に鎮座し給う也、

とあり、「諏訪は磯並」「松代は磯波」と書き分けています。

 当社は御正体玉依比売命申し、左の相殿は天照大神、右の相殿は建御名方命、是を池田三社大明神と祝称し奉る、…

 ここでは、社名「池田三社大明神」の由来を紹介しています。しかし、現在の池田の地へ遷ってからも、旧名の社額「磯並三社大明神」を掲げているのが不思議です。
 これまでの変遷を改めて振り返ると、
 ・玉依比売姫命神社は一川の地に鎮座
 ・磯波に鎮座している諏訪社に合祀──「磯波三社大明神」
 ・三社とも池田の地へ遷宮──「池田三社大明神」
となりますから、池田ではなく、未だに「磯波」を使っていることに何か意味があるように思えてしまいます。磯波は、単なる地名由来の社名ではないのかもしれません。
 ここまでは『池田宮縁起』に合わせて「磯波」を使ってきましたが、地元で使われている「磯並」を重視すると、建御名方命を「諏訪の磯並」とし、玉依比売姫命・天照太神・素戔嗚命を「三社」と考えれば頷くことができます。
 そうは言ってもそれを裏付ける史料は無く、どちらを“正”とすべきかの判断は付きません。それでも、一般には用いない読み「いそならべ」からは、地名由来ではなく、建御名方命の代名詞「磯並」と考えるべきと思えます…。

磯並は、「石が幾つも並んでいる」と読む!? 27.4.19

 今桜が見頃という北信濃の山村を包んだ春霞の下(もと)、玉依比売命神社から、尼巌(あまかざり)山の裾を縫う廃道に近い小道を選んで東光寺を目指しました。石材には困らない土地なのでしょうか、目に付くのは高く積んだ石垣です。その造作で傾斜を緩やかにした畑は、果樹園でした。
玉依比売命神社本殿 落ちているはずもない勾玉を「もしかして」と探しながら見たのは、唐突に現れた大石でした。さらに小扇状地の上部へ目をやると、そちこちに大石が横たわっています。仰いだ山頂部に岩肌が露出しているのを見て、これらの石が転石であることがわかりました。
 茅野市高部の磯並社にある「小袋石」は守屋山の転石と言われていますから、目の前の磯並の地名も納得できます。さらに、「磯並」は「石並(いしならべ)」が変化したもので、漢字を分解すれば「石が幾つも並ぶ」という考えも頭を過(よ)ぎります。玉依比売命神社の旧蹟地である磯並の地にある東光寺の境内には、さらに大きな石がゴロゴロしていました。

玉依比売命神社の“旧蹟地”

 実は、東光寺の参拝は、玉依比売命神社の旧蹟地である「中川(磯並)」探訪が目的でした。その後に「岩沢(一川)」の集落も巡ったのですが、結局は何も得ることがなく終わりました。しばらくその消化不良の状態が続いたので、何か資料がと探してみました。
 長野県立歴史館蔵『埴科(はにしな)郡村誌』〔東條(ひがしじょう)村〕の[社]から、関係する部分を抜粋しました。明治11年の編纂です。

玉依比売姫命神社
 村中央字(あざ)内田耕地天王山南麓にあり、祭神玉依比売命相殿天照皇大御神・健御名方命・健速素戔嗚尊合斉す祭日四月廿二日・十月十一日、…
…神武天皇の御母たるを以て其最初、当村字市川の地に鎮祭せり市川は斉川の転化にして即ち此神を祭りたるによる名なりと云う伝来尚遺跡を存す、爾来幾多の星霜を累(かさね)て溢水量退き川脈をなし土壕暫く開くるに及びて神告あり、曰く「我剣を投げ降さんに、其留まる所に宮造りして遷し斉うべし」と、茲に因て其御宝剣の所在を求むるに、本村字磯並の地に留まりたるを以て、のち神誨(かい※教え)に随いて神殿を造建し遷祭せしと云う遺跡今尚現存す、尤も往古の伝記を近古の兵変に罹(かか)り今亡きを以て草創以来転遷の年月等を詳らかにし難しと雖(いえども)も、其後許多(あまた)の年次を経て、寛喜二年現今池田ノ社地に遷座せること等は社記に詳かなり、蓋(けだ)し耕田漸次に開け民屋随て平地に増殖せるの故に依ると云えり、
一川社(いちかわしゃ)
 本村卯(東)の方字上岩沢耕地にあり、祭神玉依比売命・建御名方命合斉す、祭日四月十五日、当社は往古玉依比売命神社宮居草創の地にして、今尚数種の老木枝を茂り実に神風赫々(かくかく)たる旧跡なり、遷座勧請は上古にあって年月詳らかならず、
磯並社
 本村中央字内田耕地にあり、祭神玉依比売命、祭日七月九日、当社は往昔玉依比売命神社宮地にして、寛喜二年現今池田ノ社地へ遷座の後、遺趾を崇祭する所と云う、寛保二年の頃迄境内広濶(こうかつ)四方深壕を存し、昭々(しょうしょう)たる神域たりしか、又同年八月暴雨洪水の際、全部土砂流出し悉く此地に潟入したるを以て漸次耕田に変し、今存する所僅少に至れり、

 明治初期でも“この状態”ですから、今では、地元の人でもその脳裏から消え去っていると思います。しかし、旧蹟地の記述が文字として残っているのは、玉依比売命神社がそれだけ広く知られた古社であると言うことでしょう。
 時代は宝暦9年(1759)と遡りますが、『松代領神社書上』がありました。

 同国東条村
一、玉依比売神社
一、弁才天宮
一、伊勢宮
一、瀬関大明神宮
一、一川大明神宮
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書第14巻』

 神社名のみの抜粋です。この中の「瀬関大明神宮」が『池田宮縁起』には「猿田彦の命也とて、今瀬関大明神と崇祭そ」と記述があり、『埴科郡村誌』にもその存在が書いてあります。何れは“再訪”してみたいと思っていますが、地図には載っていないので…。これもまた“実は”になりますが、瀬関の集落を歩いてみましたが見つかりませんでした。

 児玉石神事については、以下のリンクで御覧ください。


‖サイト内リンク‖ 玉依比売命神社「児玉石神事」