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辰野の千鹿頭神社 辰野町樋口 22.4.29

 辰野町にある「千鹿頭神社」は、長野県神社庁のリストにはありません。この地区だけでお祀りし管理しているのでしょう。探し当てた資料も以下の二点だけで、いずれも創建の時期は「不詳」でした。
 『辰野町誌 -近現代編- 』〔千鹿頭社〕

祭神:建御名方命 祭日:4月1日
 覆殿は昭和60年に建て替えられた。

 『長野県町村誌』〔千鹿頭社〕

祭神:健御名方命 祭日:8月29日

 恒例の“命名式”です。字(あざ)と「樋口」の信号から「樋口千鹿頭神社」を考えましたが、辰野町には千鹿頭神社が一社だけなので「辰野千鹿頭神社」としました。

上伊那郡辰野町樋口

 今回は、ネット地図で鎮座地が確定できました。拡大すると神社前と思われる集落は道の細さが際立っています。そこで、適当なところに車を置いて徒歩を考えました。ところが、衛星写真に切り替えると、北側は農地で家が散在しているだけです。道幅もそこそこのようなので適当な場所で路上駐車と決めました。

辰野千鹿頭神社

 目の前の林が千鹿頭神社の杜とわかっていましたが、あえて、折良く現れた女性に声を掛けてみました。「千鹿頭神社はこの道でも行けるが、私はあの竹藪の道を通る」と言います。さらに「10年に一回というお祭りが終わったばかり」とうれしい情報が加わりました。

辰野樋口千鹿頭神社

 遠回りですが地元の人が使う道を尊重しました。上写真では、右から下ってくる道です。
 鳥居額は「千鹿頭神社」でした。額束だけという鳥居も多いので、この時点で(地図上や話だけではなく)「千鹿頭神社」とわかり安心しました。社標も案内板もないという状況に陥ると、果たして目的とする神社なのか確定できないことがあるからです。

辰野千鹿頭神社本殿 参道を横切る用水を渡って小山の上に立つと、覆屋の下に、目測ですが畳の短辺の長さなので「半間社流造」の本殿がありました。最近例祭があったことを聞いていたので、覆屋と本殿の柱にくくりつけられたソヨゴの葉がまだ緑色を保っていることに納得しました。
 覆屋と本殿の各所を注視しましたが、俳句の奉納額に「千鹿頭神社」の文字が見られるだけで、「千鹿頭」に関わる物を見つけることはできませんでした。

辰野樋口千鹿頭神社本殿 覆屋の天井裏を覗くと釘が使われていません。よくよく観察すると細い針金で固定(補強)しているのがわかりますが、元々は荒縄だけで組む工法であるのは間違いありません。
 本殿裏手の斜面に穴が空いるのに気がつきました。かなり深そうですが、30cm巾の「入口」なので底(突き当たり)は見えません。下から見た神社全体の形状が墳丘に似ていたので、直感は「古墳か」でした。しかし、石室の「石」がまったく見当たらないので、「?」で終わりました。
 それでも何かないかとさらに周囲を巡ると、「大正」の元号で興味を失っていた「御即位記念碑」に「浅井洌」の名前を見ました。長野県人なら誰でも歌える県歌『信濃国』の作詞者です。神社以外は、これが唯一の見所となりました。

千鹿頭神社「鹿の蟇股」 トップの写真とは逆方向からの眺めです。事前の衛星写真で、人工の川かも知れないと思っていましたが、まさしく農業用水でした。


白山大明神

 トップ写真では、右端に小さく見えるのが無住の「常前寺」です。前面がシャッターですから、地図で「常前寺」を見なかったら小公園の管理棟でしょうか。帰りに寄ってみると、旧境内の一画に石仏や墓石がまとめてあり、その中に「白山大明神」を見つけました。千鹿頭神社本殿下の斜面に二、三の石祠がありましたが、南アルプスを目前とするこの地からは遙かに遠い「白山」では縁薄く、何かの事情(間違い)でここに“神仏集合”させられたようです。

 『辰野町誌』には「4月1日」とありますが、『長野県町村誌』は「8月29日」です。『長野県町村誌』は、「市」がないことからわかるように「明治の調査書」です。「大祭」と「例祭」の誤記(誤編集)や時代の変遷で変わったことが考えられますが、「10年に一回の例大祭は4月1日にあった」としました。これは、千鹿頭神社研究のキーワードとなりそうですが、手持ちの知識では関連づけられません。
 古の昔には一村に一社は「千鹿頭社」があったと思われますが、時代の波に飲み込まれたまま忘却の彼方に押しやられ、現在は、辰野町には一社だけ千鹿頭神社が残っているだけです。それも、祭神は「建御名方命」に代わっていますから、「原住神の千鹿頭神」はどこを彷徨(さまよ)っているのか、とため息が出てしまいます。

『樋口区の歴史拾い話』

 岡谷市図書館で、本の背表紙に「樋口区」を見ました。「樋口」と言えば、私には「辰野町の樋口」です。もしやと手にすると、高井宗雄著『樋口区の歴史拾い話』でした。さっそく目次を見ると「樋口の千鹿頭社」がありました。
 資料の少なさに困っていましたが、一挙に増えた6ページの要約に苦労することになりました。

 「現在は千鹿頭(ちかと)社だが、元禄三年の検地帳は『近戸明神』。明治41年の荒神社へ合祀する合祀許可願いには『近戸社』。県からの合祀許可証にも『近戸社』となっている」は要約ですが、以下は引用です。

祭神と社名 千鹿頭社の由緒について荒神社の「神社明細帳」の内に次のように記されている。

近戸社 祭神建御名方命、由緒・創立年月不詳。口碑に伝う、近戸、古く千鹿頭(ちかと)に作る。上代、諏訪の神領たりし時、建御名方命鹿を猟(か)りて此地に至り給い、無数の鹿を屠(ほう)り、其の頭を埋めし地にして、後、建御名方命を祀り千鹿頭明神と称せしと云えり、

 (中略) 社名について「近戸、古く千鹿頭に作る」ということは、建御名方命が鹿狩りをして無数の鹿の頭をこの地に埋めたという故事にによって付けられた名前で、以前は「千鹿頭明神」といっていたが後に「近戸明神」というようになったということである。前述の検地帳の記事からも分かるように、江戸時代にはすでに「近戸明神」と記述していたのである。(中略)

荒神社への合祀 (中略)合祀が行われたのは、(中略)明治四十二年であった。

合祀後も存続 樋口耕地では、合祀後も社殿をそのままにして、それまでの祭神を鎮守の神として尊崇し護持して祀り、千鹿頭社を存続させて現在に至っている。(中略)

社殿 (中略) 建築年代は十八世紀前期となっている。構造形式は一間社流造・こけら葺きで、工匠は丸山庄左衛門となっている。(中略)覆殿は、昭和六十年建て替えられ、(中略)

祭典 千鹿頭社の祭典について、『辰野町誌 近現代編』の「町内神社一覧」には「旧祭礼日」として「四月一日」と記されている。町道から参道への入口に、祭典の時に幟を建てる石造の一対の幟枠がある。それには「大正五年八月建之(これをたつ)」と記されている。(後略)

 お上の命令で千鹿頭社を荒神社へ合祀したが、それは「書類上のこと」で、実質は「今まで通り」というのが真相でした。改めて長野県神社庁のサイトで確認すると、荒神社は「上伊那郡辰野町大字樋口」としてリストにありました。冒頭の「長野県神社庁のリストにはありません」が見事符合しました。