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日向新海三社神社 南佐久郡南相木村 30.9.10

■ 長野県神社庁では「新海三社神社」ですが、本社と紛らわしくなるため、日向(ひなた)に鎮座していることから「日向新海三社神社」としました。

 『長野県町村誌』から転載しました。

新海社 村社
東西四十五間南北四十間面積六反、村の北方にあり、祭神健御名方命・事代主命・誉田別命
日向新海三社神社「鬼面」
南相木村新海三社神社本殿の鬼面

 南相木村でも、祭神「興波岐命(おきはぎのみこと)」の存在はありません。
 こうなると、本社の東本殿に祀られている興波岐命は「新海三社神社とは別個の(関係ない)祭神」ということになります。少なくとも幕末以降では、これが新海三社神社分社の実体ということでしょう。
 前記『長野県町村誌』の続きです。

創建年月未詳、祭日五月三日・八月廿七日、旧地頭寄附の事諏訪社へ記す()
諏方社 郷社
(略)永禄二年(1559)地頭相木常喜より、諏訪・新海の両社へ壱貫文寄附す、(略)
長野県『長野県町村誌』〔南佐久郡南相木村〕

 「」が意味不明です。誤植としましたが、念のために調べると(私が知らないだけとわかった)「金一両=永一貫文(1000文)」でした。

 文献に名が残っている新海三社神社ということで『長野県神社庁』の〔新海三社神社〕を参照すると、「大永7年1527年12月2日領主依田常喜氏より高根土地壱貫文を寄進せられて鎮座したるものなり」と書いてあります。『長野県町村誌』とは大きな相違があるので「依田常喜」を検索すると、なぜか神社庁のサイトのみが表示します。
 これは怪しいと思い「相木常喜」で再検索すると、長野県立歴史館『信濃史料』に「永禄 佐久郡相木常喜、同郡常源寺・新海明神社等に、所領を寄進すの条」があります。補遺とあるその書き下し文の一部を転載したので、読める人は読んで下さい。(※は『信濃史料』の脚注です)

高根(※佐久郡)壱貫文之所(所)雖少地令寄志ん申候、為後日一筆如件(くだんのごとし)
 永禄仁年十二月日 常喜(※相木)(花押)
 「雖少地令」が読み下せないので「読める人は…」と突き放した格好にしましたが、その後の調べで、『南相木村誌』に「領主相木常喜から諏訪・新海両社神主神祐に宛てた寄進状写(中島政直家文書)」とある影印が載っていました。
高根壱貫文之處、雖少地候与、き志ん申候、為後日一筆如件、
 永禄仁年十二月日 常喜(判)
諏方・新海神主
 神祐(※敬語)
『南相木村誌 歴史編二・近世』〔寺社と民間信仰〕

 これなら私にも「少地にそうろうといえども」と読めますから、この文書を“正”としました。戦国時代では変動が大きい米価ですが、1貫文=五石五斗を(そのまま)佐久の地に当てはめれば約30万円となります。一社当たり15万円(相当の土地)ですから、「少なくて申し訳ないが」の文言となるのでしょう。

『レファレンス共同データベース』〔永楽銭8000貫文は、
現在の価値でどのくらいになるのか知りたい〕を参考。

 『信濃史料・長野県町村誌』の表記が細部で異なっているのは、書き下しの間違いもありますが、参照した古文書の違い(原本が複数あること)に起因していると考えました。しかし、『長野県神社庁』は、内容を含め大きく違いすぎています。

日向新海三社神社参拝 30.8.25

日向 新海三社神社

 なぜここが“2”なのか不思議に思ってしまう県道2号線から、日向集落へ斜めに入る道があります(上写真)。

南相木村「新海三社神社」 例祭には幟旗がはためくであろう参道を伝って、山手へ向かいます。途中で車道を横切って更に石段を踏み続けると、鳥居が現れました。
 額束が真新しいことに気が付けば、鳥居そのものも新しいことがわかります。それに関係していると思われますが、神社庁の社名「新海三社神社」と同じ名称でした。

新海三社神社「本殿」 明治15年が読める社殿額は「新海神社」でした。本殿は三間社流造(ながれづくり)ですから、正しく三柱の祭神を祀っていることになります。
 拝殿の扉が開放されているのは本殿を直接観察できる参拝者にとっては嬉しいことですが、その反面、土ぼこりなどの汚れが目立ち残念な拝観となりました。

 こけら(こけらぶき)の本殿は彫刻がかなり凝っていました。案内板がないので、ここでは『南相木村誌』から一部を紹介しました。

 明治四年に村役人が長野県へ差し出した新海神社麁(あら)絵図には本殿のほか、古社・神楽殿・神門・鳥居・祭典道具置蔵・末社などが描かれており荘厳な神域をなしていたことがわかる。

『南相木村誌 歴史編二・近世』〔寺社と民間信仰〕

 現在の新海神社本殿は、文化八年(1881)棟梁武舎基助正永により再建されたことが棟札からわかる。武舎基助については作例が少なく、また基助の出身地入布施村にも史料がなく未詳である。

 本殿の側面に用いられている殆ど全ての板には彫刻が施されており、しかも再建当時は極彩色で塗り尽くされていたと思われる。この時使われた絵の具代と刷毛などの道具代に支払った金額は、金五両にのぼった。

『南相木村誌 歴史編二・近世』〔寺社建築〕

 5時を大きく回った境内は、木漏れ日があるのにも関わらずかなり暗く感じました。それでも、谷底を走る県道に戻ると、狭いながらも夏の青空が広がっていました。

 計画していた巡拝は、すべて終えました。しかし、今日一日汗まみれになって消耗した身を癒やすビールを口にするには、「メルヘン街道」という名の急坂急カーブを走り抜けなければなりません。差し迫った憂鬱を感じながらカーナビに自宅をセットすると、中央自動車道「長坂IC」経由を推薦します。南相木村とは“こんな場所”なのかと、それを素直に受け入れました。