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高原神社の「お腰掛」 山梨県甲斐市下福沢 '20.11.7

 『韮崎市誌』に、「お腰掛(こしがけ)」についての一文があります。

 市内においても「山神社・神明神社・大六天社」などは「お腰掛」と称して木の枠組だけであり、
韮崎市誌編纂専門委員会編『韮崎市誌』〔神社〕から抜粋

神明神社のお腰掛 ここに挙げた神明神社のように、その木枠は他に見られないもので、韮崎市でも「穂坂」周辺にしかありません。
 しかし、その地を縦貫する穂坂路(ほさかみち)は甲斐と信濃を結ぶ街道の一つなので、同様なものが、今で言う「北の北杜市と南の甲斐市」にも波及している可能性を思いました。

高原神社のお腰掛 その考えで、Googleマップに表示する神社を韮崎市から周辺部に広げながら調べる中で、甲斐市の高原神社に奇妙な構造物があるのを見つけました。
 左がその写真の一部です。上部の形状が異なっていますが、見れば見るほど「石造りのお腰掛」に思えてきます。これは現地で確認せねばと思いつつ月日は流れ…。

高原神社参拝 '20.10.28

 標識は右を「金櫻神社」と表示していますが、有名処は目じゃない私は直進します。すぐに、ストリートビューと同じ景色が現れました。

高原神社

 県道の側壁に沿う急坂を登りきると平地があり、その縁(へり)に写真の景観がありました。本殿は山手に向かう道の先にあるようですが、この石造物が目当てなので参拝は後回しとしました。

高原神社のお腰掛 側面から撮ったものですが、四方のどこから見ても同じ形です。上枠には木造のお腰掛にある木鼻状の突起はありませんが、益々「これはお腰掛」との思いを強くしました。
 次に、基壇を含めた石面を注視しますが、銘は確認できません。

高原神社のお腰掛 上から覗き込むと、お腰掛にはない桟があり、真新しい竹の幣帛が三本差し込んであります。祭神が三柱とも思えますが、由緒書や案内板がなく手持ちの情報も白紙とある状況では、まだ「謎の石枠」と捉えるしかありません。

 周囲を見回すと、石枠が向いている先に注連柱(しめばしら)があるのに気が付きました。

高原神社 その注連柱から少しだけ降りて振り返ったのがこの写真ですから、この道が表参道とわかります。
 そうなると、注連柱の間を透かした正面が「石の枠」ですから、ここが高原神社で、その石枠が御神体と理解できました。神社に付きものの鳥居がなかったので、石枠は境内社の一つと思い込んでいました。

聞き込み開始

 このままでは帰れません。しかし、コロナ禍の下では、見ず知らずの家のチャイムを鳴らすことははばかられます。取りあえず、動くもののない集落内の道を進みました。

 神社下で折良く家から出てきた男性に、このチャンスを逃すまじと聞き込みを始めました。しかし、意気込んで「お腰懸」を口にするも、「名前はない。祭神も分からない」と素っ気なく、高原を「たかはら」と読むのを確認して別れました。

 囲む塀から旧家と見える門の前に立ちます。玄関が開いているのを在宅と見てチャイムを押すと、男性が現れました。「このご時世なので」と心身とも距離を取って話しかけると、気安く応対してくれて安心しました。
 雑談の中で「出征兵士を村境まで見送った」という高齢ですが「(石枠は)名前はなく氏神と呼んでいる。子供の頃から今と同じ形だ」と言います。お腰掛に関連づけができないので、図書館で町村誌を読むことにしました。それには必須の旧村名を尋ねると「ここは清川村で、敷島町から甲斐市」でした。別れ際に「これから図書館へ行く」と話すと、『敷島町誌』があると言い、蔵書が多い双葉図書館を勧めてくれました。

敷島図書館

 あくまで「地元の図書館」にこだわり、旧敷島町の敷島図書館へ向かいます。受付で『敷島町誌』を申し出ると、昭和41年編纂という古いものでした。
 編集兼発行者窪田友薫『敷島町誌』〔宗教〕[神社]に、「高原神社」があります。写真は黒ベタに近いものですが、注連柱が確認できました。

 祭神は大山祇命である。山神大神は(?)高原の地に鎮まられたので、この名がある。宝亀二年(771)七月修座。社地境内三畝一歩。

 古すぎる宝亀は“愛嬌”とも言えますが、「高原」神社が正式な名称で、祭神が山ノ神であることがわかりました。別章の〔旧清川村の沿革〕にはかなりのページを割いていますが、神社については前記のものがすべてとなりました。

北山筋と峡中

 山梨県には、文化11年(1814)に編纂された地誌『甲斐国志』があります。ネットで閲覧できるので、由緒書がない場合などは重宝します。ところが、九筋二領(くすじにりょう)と呼ぶ地域区分で分類しているので、長野県人としてはお手上げです。
 調べて、甲斐市は「北山筋」で、現在も(これも難解な)「峡中」と呼んでいることがわかりました。その点、長野県は「東信(東信州)・北信…」とわかりやすいという話は置いて、『甲斐国志』の〔神社部第十 巨摩郡北山筋〕に「山宮明神」を見つけました。

 一、清澤明神 上福澤村  ○山宮明神 下福澤村 祠ナシ

 高原神社は、現在も字(あざ)「下福沢」にあります。また「祠無し」も「社殿は無いが石枠がある」となり、幕末には山宮明神と呼ばれていたことがわかりました。

高原神社の現況

 コロナ禍での図書館はどこでも閲覧時間の制限があり、座って読むこともできません。その中で、敷島図書館では複数の職員が関連本を探してくれ、さらに双葉図書館まで問い合わせをしてくれました。もう、感謝の念しかありません。

 その敷島図書館から、「職員の中で近所に住んでいる方がいました。お話を伺うことができたので、お知らせいたします」とメールが来ました。

 近所の方々は高原神社のことを「氏神さん」と呼んでいるとのことでした。(「高原神社」という名前を初めて知ったそうです!)
 話をしてくれた職員は祭りの当番だったそうで、つい先日には五穀豊穣を願う秋のお祭りを行い、2段の鏡餅、魚、自分の畑でとれた野菜を石造物の前の石段にお供えしたということでした。そのあと近所の方々が集まって、石造物の前に半円で囲むように並び、五穀豊穣のお願いをしたそうです。

 現地での聞き取りに加えてこの内容ですから、限りなく近くても「石の枠は、お腰掛」と断定できません。私も「氏神さん」で終わらせることにしました。

高原神社の神体山は「茅ヶ岳」

茅ヶ岳 「関連がありそう」と、撮っておいた写真です。背後の高山を調べると、深田久弥選定「日本百名山」の一つ「茅ヶ岳」でした。
 この年まで「茅野市(ちのし)・茅ヶ崎(ちがさき)」から「ちがたけ」と読んでいましたが、漢字変換しない不思議さを調べると「かやがたけ」でした。それはともかく、このロケーションでは「高原神社−茅ヶ岳」のレイラインが引けます。高原神社の神体山は茅ヶ岳という図式も考えられますが…。