『韮崎市誌』に、「お腰掛(こしがけ)」についての一文があります。
その木枠は韮崎市限定としてきましたが、隣市となる甲斐市に一基あり、高原神社では「石造りのお腰掛」がありました(左写真)。
しかし、『敷島町誌』には「お腰掛」の文字は無く、山ノ神としかわかりませんでした。それとは別に、この造作を見て、韮崎市の本宮倭文(しずり)神社で見た「謎の石造物」を思い出しました。
「本殿の右横に何かが見えます。確かめようと見下ろす位置まで登ると、朽ちた板垣の中には組んだ直方体の石があるだけでした。かつてはこの上に社殿があったと想像してみましたが…」とは、平成21年に書いた本宮倭文神社参拝記の一部です。
改めてこの写真を見ると高原神社のものに酷似していますから、石造りのお腰掛である可能性が出てきました。
「本宮倭文神社がある穂坂町には、他にも石造りのお腰掛があるはず」と、画像検索で「石枠」を探すと、blog『知ってるけ〜』〔天狗の腰掛またまた発見!〕にその写真がありました。文中に「地元の方に話を伺ったところ、山の神様を祀っている」とありますから、お腰掛に間違いありません。
前出の本宮倭文神社に近い場所ですから、韮崎市にも石造りのお腰掛が存在していることになりました。こうなれば、もう現地に行くしかありません。
道脇の平地に生えたススキの隅に、それを知っていなければ、コンクリートで作られた何かの残骸としか見えないモノが見えます。
裾に付く秋草の種を気にしながら近づくと、その四方にササの小枝がくくり付けられ、それを結んだ注連縄には紙垂(しで)の一部が残っていました。
正(まさ)しくお腰掛です。穂坂と言うより、韮崎市では初見ですから、私のHPに新たな一頁が加わったことになりました。今回はメジャーを持参したので、「地上高50cm・110cm四方」と記録しました。この足で、この上の集落にある本宮倭文神社へ向かいます。
9年ぶりとあって「どこだったっけ」と探し出すのに時間が掛かりましたが、これが本宮倭文神社の本殿と「謎の石枠」です。
改めて観察すると、方形ではなく
状に組んであり、その下には支柱がありました。これで「お腰掛」と確定し、高原神社に近い形状とわかりました。ただし、下部は埋まって見えません。
その前方にコケで覆われた方形の壇(左下の斜線)があることに気が付けば、その高さから、支柱の下に基台(台枠)があるのかは微妙となりました。
一時は、高原神社の石枠は「天地を逆にしてしまった」可能性を思いました。それ以外の山ノ神は上部が井桁に組んであるからです。しかし、ここに同じものを見てしまえば、石造のお腰掛は「方形が基本だが、その組み方には幾つかのパターンがある」となりました。
朽ちた板垣が見当たらないので整備されたことがわかりますが、その荒れようからは祭祀を行っている気配は感じません。本殿に合祀されている神々とは異なる正体を自分なりに突き止めるために、『韮崎市誌』を参照しました。
祭神 七夕社/天棚機姫命・天羽槌雄命。神明社/天照大神・豊受大神。貴船社/伊弉冊命。天神社/菅原道真公。
由緒 昭和二九年五月、前記四社を貴船神社に合併の議が起こり、同三四年一〇月神社本庁の認可を得て本宮倭文(しとり)神社と改称した。柳平地区は宮久保の倭文神社の山宮のあったゆかり深い地であるからである。
倭文神社は機織りの神であり倭文氏の祖である天羽槌雄命と天棚機姫命を祀り… (後略)
本宮倭文神社は昭和半ばに成立した神社ですから、江戸時代の様子はどうなのかと『甲斐国志』を開きました。
ここには神明社・八幡宮・貴船社の三社が載っていますが、七夕社に相当する神社がありません。それは、『韮崎市誌』の「柳平地区は宮久保の倭文神社の山宮のあったゆかり深い地」から、「倭文神社の山宮が七夕社」と当てはめてみました。また、過去形から、江戸時代末期には七夕社は存在せず、その旧跡が本宮倭文神社本殿に並んだ石枠として今に残ったと推定してみました。
こうなると、小袖の石枠に「機(はた)の神信仰」があったのが思い起こされます。
それは山ノ神から機の神に信仰形態が移った特殊な例と考えていましたが、機織(はたお)りの神を祀った七夕社(現本宮倭文神社)の御神体が石枠と考えられることから、同じ石枠の一つに機の神信仰が伝播したと理由付けができることになりました。
お腰掛は「山ノ神」が本来の姿と考えていましたが、二つの形態があることになります。何か複雑になってきましたが、地域によっては、丈の低い石枠に機織り機を重ねて見た人がいたということでしょう。