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新海三社神社の神宮寺と新海山上宮寺 30.10.27

新海山上宮寺の本地仏

 臼田町公民館『館報うすだ』に載る、丸山正俊さん寄稿『新海神社と上宮寺』シリーズから転載しました。

新海山上宮寺
 新海山上宮寺(じょうぐうじ)は、新海三社神社の神宮寺が、明治政府による慶応四年三月の判然令により末寺の山影院(さんぎょういん)とともに現在地へ移ったとされています。(後略)
(第475号)
上宮寺「新海三社神社の本地仏」
上宮寺「新海三社神社の本地仏」
新海社の本地仏
 新海神社の本地仏は、建御名方命が普賢菩薩事代主命が千手観音菩薩誉田別命が阿弥陀如来とされて(瀬下家文書)いて、(略)
 厨子の中の像は、中心が高さ一.一五mの千手観音と、一.〇五mの普賢菩薩・阿弥陀如来です。ここで不思議なのは千手観音が大きく、そして中心にあることです。諏訪信仰の主神は建御名方命です。諏訪大社上社の本地仏も普賢菩薩です。(略)下社(諏訪大社下社)の本地仏は千手観音となっているので、新海神社の本殿の位置に合わせたものかも知れません。ただ、どのように使われたのかはわかりませんが、古い掛軸では、普賢菩薩が中央に高く描かれています。
(第479号)

 仏にを付けるのは不適切と思いますが、上文の骨子を文字図解で表してみました。
 いずれにしても、新海三社神社の本地仏が諏訪大社上社と下社に対応していることに変わりはありません。即ち、新海三社神社は諏訪神社そのものと言えますから、新海三社神社について語る時は、「興波岐命を口に出すのは控えた方が…」ということになります。

新海山上宮寺参拝 30.10.7

 新海三社神社を語るには「神宮寺であった上宮寺も参拝しなければ」と現地に向かいました。

新海三社神社の神宮寺「上宮寺

 参道入り口は普通のたたずまいでしたが、本堂が見通せると、上宮寺が無住寺院であることを知りました。
 轍(わだち)の参道は、右に仁王門を見るだけで本堂に向かっています。最終の目的である本堂で手を合わせてからきびすを返すと、柱に紙の束が入った箱があることに気が付きました。その一枚を手にすると『上宮寺ご案内』でした。

観音堂 本堂の中に、観音等を祀る須弥壇・厨子があります。厨子の中には中央に千手観音、向かって左に阿弥陀如来、同右に普賢菩薩が祀ってあります。(中略)
 これら本地仏を祀る本地堂(観音堂)は、神仏分離令により寺と共にこの地へ移転しました。入り口にあります仁王門をくぐり、雨川を渡り、正面高台に移転したものの、明治の中頃台風により堂が損壊した為に仏像は須弥壇・厨子と共に寺へ一時移転しましたが、以後観音堂の再建はその機会を得ることなく現在に至っています。仁王門が寺の方向に向いていないのはこの為です。なお、観音堂跡には現在礎石一対が残っています。

 これで、仁王門があらぬ方向を向いている理由が納得できました。また、新海三社神社にあった本地堂は破却されたのではなく、移築されて、明治中期まで仁王門の向こう側にあったことがわかりました。

上宮寺「本地堂の礎石」
(30.11.1)

 仁王門の脇に小道がありますが、橋がありません。遠回りして対岸に渡ると、畑中にその礎石がありました。

上宮寺の梵鐘

上宮寺の鐘楼

 『上宮寺ご案内』に、梵鐘についての記述があったので少し調べてみました。

梵鐘 陰刻には、暦応元年(1338)上州群馬郡高井郷(前橋市)東覚寺(とうかくじ)(現在跡地のみ)の為造られたものの、天文十二年(1543)に当地田口城主田口左近将監長能(しょうげんながよし)新海大明神に寄進したとありその間のいきさつは不詳です。(略)現在は県宝に指定され、毎年大晦日には除夜の音を響かせております。

上宮寺「鐘楼の銘」 「新海大明神に寄進」を神仏習合の好例として調べると、「信州佐久郡田口神宮寺/旦那田口左近将監 長能/奉寄進新海大明神御寶前/天文十二年癸卯十一月吉日」と追刻があることがわかりました。
 改めて写真を確認すると一枚に「新海」の文字が見え、この部分が追刻したものとわかりました。

戦国時代の神宮寺(上宮寺)

新海神社古図 「武田信玄再建時の作」と伝わる『新海神社古来之絵図(新海神社古図)』から、右半分となる神宮寺の部分を転載しました。
 この絵図で注目すべきは、三重塔と本地堂が並立していることです。絵図の余りの古さを疑っても、写本で今に伝わっているとすれば、その時代ではこの景観であったことは十分に考えられます。そうなると、後代に三重塔が本地堂の背後に移築または再建されたことになりますが、その記録は残っていないようです。


石段のある辺りに三重塔が建っていた(?)

 明治の神仏分離令で、神宮寺は上宮寺として現在地へ移転しました。その後に親宮(親宮代)が本地堂の跡地に移築し東本社と名前を変え、現在はその背後が三重塔という景観になっています。
 その変遷を頭に入れて東本社と中本社の間が異常に空いているのを見れば、ここに三重塔が建っていたことは間違いないと言えます。しかし、「なぜ移したのか」と自答してみても、その理由を挙げることはできません。