平成2年に、明野町の石造物を調べる機会がありました。その時に、明野村誌編纂委員会編『新装 明野村誌 石造物編』で目にした鳥居(左写真)に興味を持ちました。
以下は、〔原地区〕に載る「石鳥居」からの抜粋です。
T字路の一角を占める金毘羅神社です。この写真ではわかりませんが、諏訪より一足も二足も速い春ですが、桜はすでに散り始めという地でした。その正面に建つのが、標題の鳥居です。
額束造り付けの額には、異体字の「金」を用いた「金毘羅大権現」が彫られ、その上に、「烏(からす)天狗と天狗」の面が並んでいます。
これを見たさにここまで来たのですが、残念なことに双方とも鼻が欠けていました。柱と台輪・貫(ぬき)が新しいので、倒壊した際に破損したのでしょう。
首の軋みに耐えかねて目を落とすと、柱には、『明野村誌 石造物編』通りの「天保十一年(1840) 子三月吉日」が彫られていました。
「さて、鳥居の全景を」と、その周囲を動き回る中で、灯籠の残欠と思っていた石柱が鳥居の旧材であることに気が付きました。
覗き込むと、「願主/(削り取ったように見える□□□)/新居組中」「石工/諏訪丸山村/守屋」が読めます。「丸山村」は現在の「茅野市丸山(丸山新田村)」に相当しますから、その在の守屋さんが造ったものとなります。
この銘がある故に破棄されず、案内柱として
この場所に建てられたのでしょう。
前出の〔原地区〕に載る[石鳥居]です。冒頭の抜粋はこの末尾に書かれたものです。
地図には金毘羅神社とありますが、「金毘羅神社・原山神社」が正しい表記でした。
これで、左方が金比羅神社で、右側が秋葉神社他を祀る村落名由来の原山神社と理解できました。実は「原山神社は御射山神社ではないか」と推定していたのですが、きれいに消えました。また、「神社の移転は多い」ことを常に頭に置かないと、現在の景観から神社の創立を紐解くことになる危うさを再認識することになりました。
上写真では右から三番目の石祠ですが、造形に異質なものを感じたので別個に撮っておいたものです。屋根は流造ですが、身舎に透かし彫りがあり中に石像が納められています。
自宅で検証すると、「受岩山地蔵大(菩薩)/火防/原村中 施主」と読めます。ネットでは「受岩山」が見つからないので、今は廃寺となった山号でしょうか。