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新海三社神社の秋祭「御射山社御神幸」 30.10.13

新海三社神社御射山祭
御射山社へ出発神幸
御射山(みさやま)
 新海神社の東約一、七キロメートルのところに御射山という山がある。昔、新海様が家来をつれてここで狩りをなされた。今でも秋まつりには仮の家もでき、御神体がお出かけになっておまつりをするのを例としている。神官は古い大きい鎌(長さ一、五メートル)を持ってお参りする。
 これは新海様の狩りの名残りといわれている。今は石のほこらと老木が五、六本生い茂っている。
 また秋まつりに綿人れをきて御射山へお参りすると、オコリにかからないという。
臼田町文化財調査委員会『臼田町の文化財』から〔民話〕
新海神社と上宮寺〔御射山祭(2)〕
 御射山祭は、昭和(明治?)三十五年『郷社新海三社神社御由緒調査書』によると、七月二十三日に行われていたとあり、祭りについては「この祭は諏訪(大社)本宮の祭式に倣い行う。本社より寅の方で距離十丁に御射山あり。当日御霊代を本社より大家社へ奉遷の上、また御休石へ遷座し、是れより神長始め数名の神職守護し騎馬にて御射山へ神幸、山の麓の石宮へ安置し神酒を開き参詣の諸人へ載かせる。畢(おわり)て御帰座、神楽殿に於いて隔年に太々神楽舞など数座行う。終日の祭事なり」とあります。以前は秋祭とは別の日に行い、また神官・役職の人達のほかにも多くの人達が参加したことがわかります。(略)(丸山正俊)
臼田町『館報うすだ』(第488号)
〔御射山社摂社〕
字西山沢にあり。祭神健御名方命。創建年月不詳。祭日九月十日。穂屋を造りて、祭事をなすを例とす。
長野県『長野県町村誌』〔田口村/新海神社〕から抜粋

 上記の三書から、かつては穂屋が作られたことがわかります。因みに、御射山社の石祠は「享保十八年(1733)」の銘があります。

新海三社神社の御射山祭は「神幸の儀」 30.10.7

 『新海神社と上宮寺』シリーズの〔御射山祭(1)〕を、関係する写真に添付する形で転載しました。

新海三社神社御射山祭「午前十時、中本社から御射山祭の御神体を迎え、露払い杖・榊幣・笛・太鼓・薙鎌(なぎがま)・御神体・総代と青年(七人)の十三人で、神社の東数キロの山の中腹に祀られている御射山社へ向かいます」
──神職3名と役員が整列し、遷座の神事が行われました。警蹕(けいひつ)が流れる中、(ススキではなく)ヒノキの枝葉で飾られた(中本社ではなく)東本社から、御神体が宮司に抱えられて出御し、神幸の行列に加わります。

新海三社神社御射山祭「行列は先ず境内の磐座へ寄り」
──磐座は、すぐ下にある「御休み石」です。よく見えませんが、露払い杖もヒノキの枝葉で飾られています。
 この時は気がつかなかったのですが、『諏方大明神画詞』にある「御射山登まし、…酒室の社に至る、神事響膳あり」と同じシーンであると合点しました。酒室神社の本殿は大きな磐座の上にあるからです。

新海三社神社御射山祭「続いて山道を行き」
──分譲住宅地を過ぎ、神宮寺があったことを如実に示す墓地を見下ろす暗い山道を進むと、一転して御射山祭にふさわしいススキの原を右に見る道に出ます。ただし、10月とあって、穂は乾燥しています。

新海三社神社御射山祭「大樹の根元の御射山社へ着いて」
──この時点で、祭事の準備をします。注連縄を張り替え、祠に幣帛を納め、神饌を供えます。
 宮司が抱えているピンクの御神体に注目。


新海三社神社「御射山祭神幸」「祝詞を唱えて神事を行い、お神酒をいただいて戻り」
──(確か玉串奉奠も無かったような)簡素な神事で、すぐに終わりました。
 直会は、ちょっとしたつまみと紙コップに注がれたお神酒です。勝手に付いていった私にも、なみなみと注いでくれました。戻っても車での移動があるので、舐めた程度で、こっそり御射山の神様にすべてを捧げ(注ぎ)ました。

新海三社神社御射山祭「御神体は東本社へ還御(かんぎょ)します。(中略)虚空蔵菩薩は、新海神社では御射山社近くの東花立にも置かれていました」
──往きと同じく御休み石に寄ってから戻り、東本社の前で遷座の神事が行われました。その際に「神幸の儀…」と聞こえましたから、現在は「御射山祭」ではなく「秋祭りの神事の一つ」という位置付けのようです。
 御神体を入御して新海三社神社の御射山祭は終わりましたが、役員も(諏訪で言う)「御射山祭」という意識はまったく無いようでした。

 ここで気になるのが、御神体遷御の流れです。御射山祭は「大祝(現在は諏訪明神の御霊代)が御射山に向かう」のが本来の姿で、『御由緒調査書』も「諏訪本宮の祭式に倣い行う」と書いていますが、

と異なるので、何か釈然としません。興波岐命を祭神に迎えたことによって、無理が生じたのかもしれません。ただし、私は御射山社神幸だけを見学したので、「(簡略化のため)前もって中本社から東本社へ御神体を移してある。午後の本祭終了後に東本社から中本社へ戻している」可能性があります。

 次に、行列が「榊幣」を三本捧持しているのが気になります。建御名方命の他、(誉田別命は遠慮してもらうにしても)事代主命・興波岐命の二柱も御幸していると考えてしまいます。また、御神体の薙鎌“三体”に関係しているとも。
 いずれにしても、ススキではなくヒノキの枝葉を用いた新海三社神社の御射山祭は、諏訪から来た(余所)者の目には異色に映りました。

御神体は薙鎌

 御神体は布にくるまれているので、拝観できないものと思い込んでいました。そのため、役員が捧持した薙鎌ばかりが気になっていました。
 それが、神事の準備で宮司との距離が狭まると、抱えている包みの上に扁平な何かがのぞいていることに気が付きました。新海三社神社の神宝が薙鎌三体と知っていましたから、即、それが御神体と理解しました。

新海三社神社御射山祭 祠の前に安置された、私には驚愕モノと言えるその全身像を見て、真っ先に連想したのが「オシラサマ」です。
 神事終了後に、宮司に許可を頂いてから、気合いを入れてカメラに収めました。
 念のために「着物を着ているのは御神宝の薙鎌ですか」と尋ねれば、「麻の十二単(じゅうにひとえ)で、昔は麻しか無かった」と補足がありました。

新海三社神社「御神体の薙鎌」 重なっていて区別がつきませんが、薙鎌が三体あります。鬣(たてがみ)というか背鰭(セビレ)というか、後頭部の髪(ヒレ)の流れが逆であることから,異形の二体であることがわかります。鼻孔もあるので鳥に近い形状です。

新海三社神社の薙鎌 反対(裏)側が写っている写真が一枚だけありました。間にあるのは口が開いていますが、「阿吽」なのか「雄雌」なのか判断できません。
 手前(下側)は後頭部が見えませんが、小型ですから、人間で言えば「夫婦と子ども一人」の組み合わせのように見えます。しかし、ピンクの十二単ですから、三姉妹というのが妥当でしょうか。
 冷静に見れば(一般的には)、時代差がある伝世品が、たまたまこの組み合わせになったと考えられます。でも、やっぱり、新海“三社”神社を象徴しているもののように見えてしまいます。

 役員が捧持していた薙鎌と、〔伝承〕では(柄が)1.5mとある鎌の写真を添付しました。

新海三社神社御射山祭
元禄三年銘の薙鎌space鎌と熊手(下)

 自宅で〔御射山祭(1)〕に以下の文があったことに気が付きました。

 この御神体は浅紫の十二単衣(じゅうにひとえ)を着た柄の付いていない三枚の薙鎌で、神官に抱かれています。

 幸か不幸か、予備知識が無かったことで現地で思いも寄らぬ御神体を拝観でき、近来にない高揚した時間を過ごすことができました。