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新海三社神社(2)〔御魂代石〕 佐久市田口 30.9.25

御魂代石

新海三社神社の御魂代石 新海三社神社の中本社と西本社の間に「御魂代石(みたましろいし)」とある不思議な石造物があり、「静かな時この石に耳を当てると、諏訪湖の水の音が聞こえる」という言い伝えがあります。
 伝承はともかく、両脇に本殿があるのに「なぜここに“御魂代”石?」と思ってしまいます。そうなると、格子の間に見えるのは何かの尻尾(しっぽ)ですから、「御魂代石は(参拝者ではなく)その向こうの何かに向かって立っているのでは」と考えてしまいます。
 上壇の縁(へり)から見下ろせるので、左右方向から撮ってみました。

新海三社神社「御魂代石」

 角(つの)の有る無しで番(つがい)とわかる龍が向き合い、その下に「延文三年(1358)戌三月十二日」と、花を挿した壺(花立)が一対陰刻されています。
 総合的に見れば、新海三社神社案内図の左右端に「西花立(山)・東花立(山)」があるので、龍が上空から新海三社神社を見下ろしている図となるでしょうか。
 しかし、その場所に“製造年月日”があるのは不自然です。それを「後に彫り加えた」とすれば、「延文」以下が新海三社神社にとって特別な日という可能性が出てきます。

新海三社神社の薙鎌

薙鎌  ネットで情報を探す中で、新海三社神社の神宝に薙鎌(なぎがま)があることを知りました。
 左は、御射山社神幸で捧持される江戸時代の薙鎌です。これが御魂代石の龍に似ているのを見て、ふと思い浮かびました。「この薙鎌を石に彫って奉納した」と。
 しかし、似ていても、「なぜ薙鎌なのか」に明解な答えを用意することはできません。このようなモノがあるという紹介に代えました。

御魂代石は石幢なのか

 臼田町文化財調査委員会『臼田町の文化財』の〔御魂代石〕では、「かつて専門家が調査して、これを石幢とし、龕部が失われたと説明したが、幢身・笠のつりあいからみて、必ずしも龕があったとする必要はない」と書いています。

新海三社神社「東本社と石幢」
三重塔を背にする東本社と石幢

 しかし、写真のように、今も境内に六地蔵石幢が立つ新海三社神社ですから、御魂代石が石幢であったとしてもおかしくありません。
 そうは言っても、笠と幢身の接合面に龕があった痕跡はありません。それでも「やっぱり石幢に見える」私は、「石幢の龕部が壊れたため、笠と幢身がピッタリ合うように整形した」と折衷案をひねり出してみました。また、「その時は名称と目的があって奉納したが、年月が重なるうちに、特異な形状から“御魂代石”となってしまった」と、現在までの経緯も考えてみました(果たして…)。

「耳を澄ませば…」

御魂代石 御魂代石は基台が失われているので、中が刳り抜かれていることを窺わせる破断面が見えます。この形状なら、風向きによっては、大きく割れた部分から共鳴音が発するかもしれません。単なる伝承で片付けることもできる「諏訪湖の波の音」ですが、理屈をこねてその可能性も考えてみました。

『信濃奇勝録』に出る「御魂代石」

 前出の〔御魂代石〕は、参考として『信濃奇勝録拾遺』を挙げています。ここでは、小平雪人編の同書から転載してみました。

龍石
田野口新海明神ハ両社並び立てり、一社ハ諏訪上下の神を相殿に祭り、一社ハ八幡宮なり、両社の間に石を立て龍石と名づくる物あり、胴石の間を穿(うが)ちて笠石を覆ふ、左右より二龍の向ひし形を彫りて後背に延文三年三月十二日の年号あり、古昔誓書等を納めしものと言伝ふ図あり畧記

 この書では、中本社「建御名方命/事代主命」・西本社「誉田別命」という書き方です。それが新海三社神社本来の姿のように思えますが、御魂代石からは外れるので以下に続けます。

御魂代石
〔郷社 新海三社神社の景(部分)〕

 明治33年刊『信濃宝鑑』にあるように、御魂代石は「別の場所から移された」と考えていました。ところが、〔龍石〕を読んで、幕末でも現在と同じ場所にあることがわかりました。
 また、この中で見逃せないのが「後背に延文…」と続く文言です。当時も“尻尾”が正面と認識されていたことになります。私は「デザイン的には、これは逆ではないか」としたいのですが、著者の井出道貞さんは地元臼田町の神官とあって、この文には重みがあります。

 結局は、御魂代石の不思議さだけを洗い出し、勝手な空想話を付け加えただけという本稿となりました。


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