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新海三社神社「社殿の変遷」 30.9.29

■ 新海三社神社は、文献によって「海」と「開」の違いがあります。

 新海三社神社(しんかいさんしゃじんじゃ)の(私設)境内平面図です。

新海三社神社「境内平面図」 参道から拝殿を通過する“参拝線()”の先は、中本社です。これを見ると、新海三社神社の主祭神が(現在も)建御名方命であることがわかります。
 その一方で、「新海三社神社の主祭神」を冠す興波岐命を祀る東本社は、中・西本社とは横並びですが、三重塔を拝するライン上とあって神社の中枢部から除外されたかのような印象を受けます。

新海三社神社の「社殿の変遷」

 臼田町(うすだまち)公民館『館報うすだ』に、丸山正俊さんが寄稿した『新海神社と上宮寺』シリーズがあります。公民館報のコラム記事という内容ですが、私には大いに参考になりました。ここでは、本稿に関係ある部分を抜粋して転載しました。

諏訪湖の御神渡りに出る新海三社神社

 『諏方大明神画詞』から、御神渡(おみわた)りの段の一部を転載しました。

…其の氷水底にい(入)らず、両方にあがりて山の如し、又、佐久の新開社は行程二日斗(ばか)り也、(かの)明神と郡内小坂(おさか)の鎮守の明神(※小坂鎮守神社)と、二神湖中に御参會(会)あり、…
信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』

 新海三社神社の紹介の一つに、「諏訪湖の御神渡り(佐久之御渡(さくのおわたり))は、興波岐命(おきはぎのみこと)が湖上で父神である建御名方命と会われた跡」があります。佐久(さく)側では皆さんがそう認識しているようですが、諏訪では「新開明神と小坂鎮守明神が会った跡」と解釈しています。

東本社の祭神「興波岐命」

新海三社神社の東本社 佐久人の考えはそれとして、「行程二日」から、ここに出る「新開社」は佐久市田口の新海三社神社で、その主祭神は興波岐命(おきはぎのみこと)とされています。
 写真は、その興波岐命を祀る東本社です。現在は三重塔の手前に本殿があります(が…)。

新海神社と上宮寺〔興波岐命〕
 新海神社の主神は興波岐命です。この興波岐命は建御名方命の子神です。(略)
 この興波岐命の神名が新海神として資料の上で初めて現れるのは、江戸時代も末の安政四年(1857)の『諏訪旧跡志』です。ここに興波岐命が田野口新海社に祀られているとあります。

 裏を取るということではありませんが、内容が気になるので『諏訪旧跡志』を覗いてみました。

因みに謂(い)う、意岐波岐命(おきはぎのみこと)の縣(あがた・に)居申しこ(故)地は今佐久郡田口村新海明神此なり、則ち御渡りの神之(これ)と古書(※諏方大明神画詞)に見えたり、
『国立国会図書館デジタルコレクション』

 「興波岐命の神名が史料に登場するのは幕末」とは意外でした。〔興波岐命〕の続きです。

しかし、主神とは(書いて)ありません。明治三年の田口村『神社取調書上帳』にも大家社(おおやしゃ)の祭神で諏訪上社の子神で地主神であるとしていて、主神扱いではありません。地主神とは、その地を守護する神のことです。
 新海三社神社の主神は、興波岐命が主神と言われるまでは、もっぱら諏訪神建御名方命・建御名方命の兄神事代主命・八幡神誉田別命とされてきていました。ある時代に諏訪の神々が勧請され、それまでの神は親宮(大家社)として祀られるようになったと思われます。この親宮の神が当時から興波岐命であったかは分かりません。
 現在の『新海三社神社由緒』には「神代の昔、興波岐命は父神建御名方命を助けて信濃国を作り、最後に佐久の沃土(よくど)を広め田を開いて、佐久開拓の祖神として祀られた。御佐久地(みさぐち)の神とも言う」とあります。
(第474号)

 新海三社神社の“核”が、諏訪神社(+八幡社)であることがわかります。分社のすべてが「建御名方命・事代主命・誉田別命」を祭神にしていますから、当然のことでしょう。
 ここに、私には初見の「親宮」が登場します。これが、後の「東本社・主神/興波岐命」となる流れが見えてきました。

移転した東本社

新海神社と上宮寺〔新海神社の本地堂〕
 本地堂とは、本地仏を祀った堂です。(略)明治の初年に神仏分離令が出されたときは、現在の中本社の東、三重塔の前の一段下、現在の東本社の場所にありました。戦国時代から江戸時代中期の作成とされる「新海神社古来之絵図」には入母屋造・高床・四方縁に見える二方に入口のある建物が描かれています。(略)
(第478号)
新海神社と上宮寺〔東本社社殿〕
(略)この社殿は江戸時代の絵図によると、神楽殿の前に親宮(大家社)(※私には「親宮代」と読めますが)としてあります。建御名方命などの諏訪神がこの地に勧請されたとき、すでにこの地にあった神がここに祀られ、(略)そして本地堂の跡の現在地へ移転されました。明治八年の「村費割元帳」の四月に「大家社御遷宮一件に…」など、親宮を移築して東本社とした記録があります。(略)
(第484号)

 これを読んで、明治8年に親宮が本地堂の跡地へ移り、その後「東本社」と改称したことがわかりました。その親宮を古絵図に探すと、中本社と西本社の一壇下・神楽殿の西側にありました(冒頭の境内平面図を参照)。

新海三社神社絵図
(裏写りがあります)

 明治10年に編纂された長野県立歴史館蔵『佐久郡古跡名勝図会(写)』があります。ここにある〔田之口村海神社〕(※ママ)では、すでに移転した状態で描いています。しかし、名称が定まっていなかったらしく「大家宮」と書いています。
 気になる大家宮の跡地ですが、何もありません。明治33年の『信濃宝鑑』も石畳として描いていますから、明治も終わり頃になってから現在見る拝殿が造られたことになります。

新海三社神社は「諏訪造」

諏訪造 諏訪造(すわづくり)は、諏訪大社に代表される社殿配置様式です。左に、テキストで表してみました。

 明治35年の『新海三社神社神社由緒調査書』によると「興波岐命を奉斎せるものを大家宮又は親宮と称したる事は、武田家中元亀年中(1570-1573)の当社再建の絵図に記載しあるをもって明らかなりとす」とあるが…
菊池清人著『佐久の開拓史』〔1 佐久の開拓と新海神社〕

 これを読んで、その絵図が、館報〔新海神社の本地堂〕に出る「戦国時代から江戸時代中期の作成とされる『新海神社古来之絵図』」と繋がりました。

新海三社神社古図
新海三社神社蔵『新海神社古図(部分)』(加工あり)

 実は、それを見た時から、現在と異なる寺院と社殿の配置・形状(造り)に疑問を持ちながらも、「あくまで絵図だから」と容認してきました。

 ところが、元亀年中──現在の社殿が造営される以前の絵図として眺めると、かつては三重塔と本地堂が並立していたと理解できます。
 次に神社部に目を移すと、「かつては楼門があった」程度に見ていたものが、諏訪大社と同じ「幣拝殿の両側に片拝殿がある諏訪造」であることに気が付きました。

下社春宮境内図
『下諏方大明神春秋両社之絵図(部分)』

 比較できるように、宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の図録を転載しました。
 見比べると、下部の横並び社殿がまったく同じ造りですから、新海三社神社も「幣拝殿と片拝殿」があったことになります。
 これで、この社殿を再建することができない(拝殿が無い)まま明治を迎え、それが終わりとなる頃になって、ようやく今見る一般的な拝殿が造営されたという流れがハッキリ見えました。補足として、「宝殿−本社」が対応し、「神木」も「多宝塔または御魂代石」と推定できます。
 異なるのは、諏訪大社では「斉庭(ゆにわ)」と呼ぶ内陣に、新海三社神社では親宮と神楽殿があることです。親宮には拝殿があるので、この神楽殿は親宮に付随したものと考えていいかもしれません。

 武田信玄の没年は元亀4年(1573)です。また、長野県内務部『名勝旧蹟調』の〔新海三社神社〕では「武田家信仰の社にして信玄の代(に)社頭再建ありしては今猶(なお)絵図面及書類あり」と書いています。
 これらが全部繋がったことから、戦国時代から江戸時代初期の新海三社神社の境内が納得できる形で見えてきました。正に、新海三社神社は諏訪神社(現大社)上・下社の佐久支社と言えます。また、郡内巡幸や御射山祭もあるので諏訪神社そのものですが、なぜ「新海」を名乗ったのか・なぜ「興波岐命」なのかが私には謎として残りました。