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新海三社神社(新海三社神社 私考) 30.12.1

新海三社神社
新海三社神社大鳥居

 今、誰も言わない・書かない“新海三社神社の謎”を解明しようと、あらゆる事物を挙げて迫っています。そのベースは「諏訪神社なのに、なぜ新海神社なの」というものですが、今回は、[新海神社之記]を取り上げてみました。

[新海神社之記]

新海之記 長野県庶務課『南佐久郡村誌(草稿版)』〔田口村〕にある[新海神社之記]を転載しました。次項に概略版[平成 新海神社之記]を載せたので、パスしても構いません。


 佐久郡総社新海大神は諏訪大神の御子にして諏方神系に興波岐(おきはぎ)ノ命とありて、本郡草創の神なり。新開(にいさく)又大縣ノ神と見え、八縣宿祢神と申せしは本郡古昔郷名八ツアガタによるかと申すは、諏方絵詞に佐久新開社は行程二日海と開とは字音同じきにより改りたるなりと見え、これ本郡を開墾し給うより新開神と申す。
 諏方文書に古昔本郡を大縣其神を祭るを大縣介と見ゆ。大縣は新開(にいさく)の御名によりて佐久郡今方俗に大佐久の称残れり、佐久は開(さく)なりと称す。されば、此大神は英多(あがた)ノ神英多は縣の仮字、和名抄他、郡に英多(安賀多)とあり、本郡の條読例欠たるよりエダと誤り来れり なること必せり。
 其の諏方より来たりて墾を創め給う地なれば田ノ口と称す。本郡田を以て稲するの村名、臼田は称(うづ)田・山田は山際の田・太田部は御田の部、又和田・大和田・三川田・小田切・小田井・北田井・茂田井・谷田等称するも其の原由なり
 猶(なお)神孫幾世継ぎ此地に住み給いしと見えるは、十二塚四十八塚の今現に存在するもの三十基の称あり。
 分社は小県(ちいさがた)郡海野、本郡今井・岩下・相木の村社其他村々に祭る事多し。又巡幸道とて新海道・新海坂の地名所々にあり。之れ縣巡りなし給いし遺名なるべし。
 此の新海神社を里俗(りぞく)大家宮と称するは、後世長倉・大伴の両社衰廃して此地へ移せしより、両社は客の如きによりての称ならん。
 安原村安養寺応永の寺記神拝の條に新海三所大明神と見えたれば、之より先に此地に移し祭りしならん。里老伝曰長倉・大伴の両社は鎌倉の代頼朝当社再建の際此地に移し、氏の神なれば八幡宮を合祭せしなりと。頼朝再建の事は寛永中神人山宮氏幕府へ社頭修繕の願書に見ゆ。
 即ち,本郡三荘荘は私田の名にて大塔物語に大井・伴野・平賀を佐久三家と見ゆ其の領也三十六郷中古称するの総社にして各年祭事の度毎郡中の社家郡参す。若し不参ある時は公に訴えて厳に神勤を命ぜらる該證あり。
 三社の内英多神社は平賀庄十二郷の総社・長倉神社は大井庄十二郷の総社・大伴神社は伴野の庄十二郷の総社なり。
 往昔東花立山より西の花立山まで社地にして三社三所にありしを、頼朝再建の頃一所に移したるなりと。町名古昔より上を宮代(みやしろ)又宮城・御社、中を神原(かなはら)、下を五官今五庵、諏方絵詞に五官は祝の官名、御射山社を御庵と見えたりと称す。皆神社によりたる名なり。
 永禄八年武田晴信上州箕輪城を攻めるの際、願状を捧げて勝利を得、社頭を修繕して神領地武器等を寄附す。其の他旧事は文書を以て證す。

平成 新海神社之記]

 [新海神社之記]は、ネットや図書館で諏訪の古文献が閲覧できる現在と違い、明治11年に編纂された調査書です。
 そのため、今読むと各所に誤りが見られます。その誤りを前提にした部分は当然ながら“無効”となりますが、新海三社神社について書かれた文献は稀少とあって、この書を頼りとするしかありません。
 ここでは、(あくまで私の基準ですが)原文を残しながら“校正”の手を入れてみました。

■ 直接には関係ないとして薄字にした箇所は、読み飛ばしても大勢に影響はありません(多分)。

 まず、興波岐命は幕末から登場した祭神なので、不要としました。

 佐久郡総社新海大神は、諏訪大神の御子にして諏方神系に興波岐ノ命とありて、本郡草創の神なり。新開神と申すは、諏方絵詞に佐久新開社は行程二日と見え、これ本郡を開墾し給うより新開神と申す。

 次に出る「諏方文書に…」は、見当違いな解釈です。「大縣」は諏訪湖周の地・「大縣介」は大祝(おおほうり)の代理である神使(おこう)の役職名ですから、その大縣を受ける以降の文言は無効となります。
 ただし、[新海神社之記]は「新海大神は英多ノ神」を前提にしているので、残すしかありません。

 諏方文書に古昔本郡を大縣其神を祭るを大縣介と見ゆ。大縣は新開の御名によりて佐久郡と称す。されば、此大神は英多ノ神なること必せり。

 以下の「其の…」も無効になります。

 其の諏方より来たりて墾を創め給う地なれば田ノ口と称す。猶、神孫幾世継ぎ此地に住み給いしと見えるは、十二塚四十八塚のの称あり。
 分社は小県郡海野、本郡今井・岩下・相木の村社其他村々に祭る事多し。又巡幸道とて新海道・新海坂の地名所々にあり。之れ縣巡りなし給いし遺名なるべし。
 此の新海神社を里俗(りぞく)大家宮と称するは、後世長倉・大伴の両社衰廃して此地へ移せしより、両社は客の如きによりての称ならん。
 安原村安養寺応永の寺記神拝の條に新海三所大明神と見えたれば、之より先に此地に移し祭りしならん。

 ここに、衰退した長倉神社と大伴神社を新海神社に移したとあります。

 里老伝曰(つたえいわく)長倉・大伴の両社は鎌倉の代頼朝当社再建の際此地に移し、氏の神なれば八幡宮を合祭せしなりと。

 頼朝が新海神社を再建した時に「新海神社(合祀/誉田別命)+境内社(長倉神社・大伴神社)という形態になったことがわかります。

 頼朝再建の事は寛永中神人山宮氏幕府へ社頭修繕の願書に見ゆ。即ち,本郡三荘三十六郷の総社にして各年祭事の度毎郡中の社家郡参す。若し不参ある時は公に訴えて厳に神勤を命ぜらる該證あり。
 三社の内英多神社は平賀庄十二郷の総社・長倉神社は大井庄十二郷の総社・大伴神社は伴野の庄十二郷の総社なり。

 ここまで読むと(または文脈から)、大家宮とも言う新海神社(合祀/誉田別命)は姿を消し、「新海神社は、英多神社・長倉神社・大伴神社の三社」と理解するしかないようになります。

 往昔東花立山より西の花立山まで社地にして三社三所にありしを頼朝再建の頃一所に移したるなりと。町名古昔より上を宮代、中を神原、下を五官と称す。皆神社によりたる名なり。

親宮代 重複しますが、「頼朝再建時に、英多神社・長倉神社・大伴神社を移して一社にまとめた」と書いています。
 この社殿が古図にある「親宮代」で、後に興波岐命を祭神にした東本社とわかります。


 永禄八年武田晴信上州箕輪城を攻めるの際、願状を捧げて勝利を得、社頭を修繕して神領地武器等を寄附す。其の他旧事は文書を以て證す。

 最後まで読むと(または最終的には)、「“新海”神社は、英多神社・長倉神社・大伴神社が合併したもの」ということになります。この流れでは、後に祭神が交替して、現在言う「新海三社神社の主祭神は興波岐命」に通じますが…。
 しかし、中本社と西本社に祀られている建御名方命と事代主命に一切触れていないのが不思議です。社殿配置では「新海三社神社は諏訪社そのもの」というのが古今の現状ですから、誉田別命を含めた三柱が「新海“三社”神社」という解釈が出てきます。

安原郷の英多神社

英多神社 [新海神社之記]には「新海神社は英多ノ神」という記述があります。それに対して異議を唱えたのが、安原にある英多神社です。
 ここでは、公平を期すために、明治32年の長野県内務部『名勝旧蹟調』から〔英多神社〕の[縁由概畧]を転載しました。

 当社祭神健御名方命なり。建武(1334〜1338)及び文明年間(1469〜1487)兵火にかかり、且つ本村安養寺(の)神宮寺にて守護奉仕中永禄年間(1558〜1570)該寺焼失の時、神社の古書類焼亡したるに付き創立年月不詳。
 然(しか)れ共延喜式内神社の儀は安養寺什宝(じゅうほう)文安年間の記録書(に)社地籍字英多澤の由来・天正十一年(依田)平三昌秀より五百(貫?)文・寛永七年徳川家より社領五斗下賜の黒印書、尚代々将軍の信仰・数度の式内社格願書。寛政十年(1798)佐久郡神主一同にて取調(べ)、式内英多神社と確定せし連署の證等に徴(しるし)しても證(証)拠敢然たり。
 且つ、大日本史巻二百五十七神祇志十四神社の九百五十丁の処に佐久郡三座英多神社安原郷在英多澤とあるにても明瞭なり。
 又往古は大和国城上郡三輪神社大物主命を合殿たる由故に拝殿(の)造方等今に三輪造と申伝居矣。然る処天文年間祭神を一柱にせしは如何なる故にや不詳。

 読みづらいので、英多神社の社頭にある『延喜式内社 英多神社由緒』から関係する部分を転載しました。(…は省略した部分)

 本社は、平安時代初期の延喜式神名帳に記録が残る古社であり…永禄年間に…本社の什宝古書類すべて焼失した。そのため、江戸時代に佐久郡内の神社間で(※新海三社神社と)式内社格の争いが起きた
 しかし、『大日本史』に「佐久郡内の式内社三座内の一座英多神社、今、安原郷英多澤に在り」との記録があり…寛政10年には佐久郡の神主一同が調査し、その結果本社が式内社英多神社と決定した。

 さらに、総合的な視野からということで、菊池清人著『佐久の交通史』から、関係するものを転載しました。

 結局、佐久における式内三社はこれを立証する積極的な資料は存在しないので、臼田町田口の新海三社神社と次の様な紛争のごとき事件も生ずるに至ったものである。即ち『旧北佐久郡志』によると、新海三社神社では、佐久郡伴野庄・平賀庄・大井庄の三庄の三総社を兼ねた式内英多・長倉・大伴神社であるといって、新海三社大明神と号し、祭礼には郡中の社人が大勢騎馬で神事を勤めてきた。
 しかるに今度安原では諏訪大明神を英多神社とし、沓掛では八幡宮を長倉神社とし、望月では御御嶽大権現を大伴神社であると申し立てて免許を願い出たが、これでは新海三社神社は端宮同様になってしまうといって反対を願い出た。
 これに対し三神社側では、もし新海三社神仕の言分通りならば、延喜式内の三一三二座の神社は三一三〇座になってしまうではないかといって、各神社の証拠品をあげて反証した。
 寺社奉行では吟味を重ねた結果、結局三神社側の新規の願書は頤い下げにし、また新海三社神社に対する従来の祭事のしきたりもしないという事になって双方落着したものである。
〔十一、新海神社の神幸路、その他〕

 新海三社神社は先例をもって強気の訴えに出たが、この「本社争い」は三社共に却下されたことがわかります。この騒動で、新海三社神社は、佐久郡の実質の古社で“新開”の神とも言える延喜式内三社の名を使うことが難しくなったと考えられます。

新海三社神社「東本社」
東本社(祭神 興波岐命)

 以上の経緯を踏まえると、「幕末になって興波岐命が登場した」流れが無理なく見えてきます。
 つまり、これまで「本郡草創の神・新開(にいさく)神」としてきた古社三社の代わりに、興波岐命を祭り上げたということでしょう。

 ここで、なぜ興波岐命なのかという疑問が生じますが、よくある事例「似た字を持つ神を探せ」から、「佐久を興す──興波岐命」を迎えたとしました(…ついに言ってしまった!!)。

 わかりやすいまとめとして、「佐久郡総社・本郡草創の神」を掲げるには(数ある)諏訪神社ではアピールできないので、延喜式に載る佐久の古社三社を境内に移遷して「本郡を開墾し給うより新開神(新海神社)と申す」と謳い上げたとしました。


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