諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

新海三社神社(8)〔寛政の式内社争論〕 31.2.17

「新海三社大明神を英多・長倉・大伴三社合祭の由」

新海三社神社「東本社」
旧親宮(英多・長倉・大伴の三社を合祭)

 このタイトルは、江戸時代の訴状に見られる文言です。私はスッキリと理解できませんが、「新海三社神社は、英多神社・長倉神社・大伴神社を合祭した神社」という意味合いであることはわかります。


 菊池清人著『佐久の交通史』〔十一、新海神社の神幸路、その他〕から、上記の訴訟を取り上げた一文を転載しました。

 結局、佐久における式内三社はこれを立証する積極的な資料は存在しないので、臼田町田口の新海三社神社と次の様な紛争のごとき事件も生ずるに至ったものである。即ち『旧北佐久郡志』によると、新海三社神社では、佐久郡伴野庄・平賀庄・大井庄の三庄の三総社を兼ねた式内英多・長倉・大伴神社であるといって、新海三社大明神と号し、祭礼には郡中の社人が大勢騎馬で神事を勤めてきた。
 しかるに今度安原では諏訪大明神を英多神社とし、沓掛では八幡宮を長倉神社とし、望月では御嶽大権現を大伴神社であると申し立てて免許を願い出たが、これでは新海三社神社は端宮同様になってしまうといって反対を願い出た。
 これに対し三神社側では、もし新海三社神仕の言分通りならば、延喜式内の三一三二座の神社は三一三〇座になってしまうではないかといって、各神社の証拠品をあげて反証した。
 寺社奉行では吟味を重ねた結果、結局三神社側の新規の願書は頤い下げにし、また新海三社神社に対する従来の祭事のしきたりもしないという事になって双方落着したものである。

ということですが、ここに出る『旧北佐久郡志』を自分の目で確認するために調べると、北佐久郡役所の編纂で大正4年刊という本が諏訪市図書館にありました。
 時代を感じる〔~社及佛寺〕を開くと、まず郡内の式内社を挙げています。ここでは「蓼科神社」は省きました。

英多神社 現時三井村英多沢にあり。健御名方命を祭る。社格は村社にして、明治三十五年二月式内神社たることを認めらる。

大伴神社 式内神社の位置は詳ならず。今の神社は本牧村望月の南方高地にあり。武日連叉月読命《武居大伴主神とも云う》を祭りたるものありと云う。

長倉神社 式内神社の位置は詳ならず。今長倉神社と称するもの二あり。一は東長倉村沓掛湯川の東岸にありて誉田別命を祭れるもの、一は御代田村小田井にありて天児屋命を祭れるものにして、もと伍賀村久能にありしを移したるものなりと。一説に長倉社の跡は廃絶して認むる跡を能わずと云う。

 次に、「延喜式内三社の所在は明にこれを知り難く、これに対する紛争は久しく絶えず、今に解決するに至らず。左に寛政時代の訴状を参考として掲ぐ」とある『差上申口證文の事』が書き下し文で載っていました。
 その冒頭の部分です。私には、アンダーライン部が新海三社神社(当社之儀)をよく説明しているように読めます。

信州佐久郡田野口村新海三社大明神別当神宮寺煩(はん)に付代兼神主吉野神長神人山宮信五右衛門より同郡安原郷諏訪大明神神主白川駿河外二人え相懸り候者当社之儀佐久郡伴野庄平賀庄大井庄右三庄三惣社式内英多長倉大伴神社と称し新海三社大明神と奉號(よびたてまつる)

 このような句読点が皆無の2250字余りの文書に、冒頭で挙げた「新海三社大明神を英多・長倉・大伴三社合祭の由」が、強調するかのように5箇所に見られます。新海三社神社側の最重要なキーワードと思われますが、現代の「てにをは」では明解に理解できません。前記の通り「新海三社大明神は、英多・長倉・大伴の三社を合祭した神社」としました。
 次は、末尾にある和解の部分です。

…右願書は今般願下げ致し以来神祭式等の儀は都(かつ)て先規仕来(しきたり)之通(とおり)取計(とりはからい)不申(もうさず)(事?)にて双方聊(いささか)無申分(もうしぶんなきを)書入熟読内…

 「従来通り」と読んだ後で「不」が現れて混乱しましたが、菊池清人さんが書いた通り、英多・長倉・大伴の三社は「新海三社神社に対する従来の祭事のしきたりはしない」ということで、訴えを下げたことがわかります。この騒動以降、大祭である郡内巡幸は新海三社神社のみで行うようになったと思われます。

 『差上申口證文の事』から、新海三社神社では、寛政以前より「新海三社神社は、英多神社・長倉神社・大伴神社の合祭社」を強引に押し出して祭事を執り行っていたことがわかります。
 そのため、私も感じている「諏訪神社なのに、なぜ式内社の三社を名乗る」という疑問の声が挙がったのはごく自然なことでしょう。

祭神「興波岐命」

新海三社神社「東本社」
東本社(現在の祭神は興波岐命)

 これまで長々と書いてきましたが、新海三社神社は「佐久郡の実質的な古社である延喜式内社の三社を境内に移遷させ、それを本郡草創の神・新開の神として郡内を仕切ってきた。ところが、それに対して異論が挙がるようになり、その旗印を挙げにくくなってきた。そのため、延喜式内社三社の代わりに興波岐命を担ぎ上げた」ということになります。

 ここで、なぜ興波岐命なのかという疑問が生じますが、よくある事例「似た字を持つ神を探せ」から、「佐久を興す──興波岐命」を迎えたとしました。


‖サイト内リンク‖ 新海三社神社(9)〔新海三社神社とは〕