諏訪大社と諏訪神社トップ / 各地の神社メニュー /

和田新海神社  小県郡長和町和田  30.10.20

■ 長野県神社庁では「新海熊野社」の表記です。ここでは、熊野社は少し離れた場所にあるので別神社とし、中山道和田宿として知られているので「和田新海神社」としました。■ 「小県」は、「ちいさがた」と読みます。

新海神社へのアプローチ

衛星写真(2月5日)
European Space Agency - ESA(2018.1.31)

 私は、「諏訪湖の御神渡りに、佐久の新海三社神社が関わっている」ことに馴染むことができません。と言うのも、「御神渡りクロスは、諏訪湖周の神々で完結する」のが道理と考えているからです。そのため、『諏方大明神画詞』の記述は(当時の)現状に即していないと思ってしまいます。
 宗詢(そうじゅん)さんが『諏方大明神画詞』を書き写した際に、「この方が面白い」とアレンジした可能性はゼロとは言い切れませんから、

佐久の 新開 社は行程二日斗り也、彼 明神と郡内 小坂の鎮守の明神と、二神湖中に御参會あり、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第一巻』

と読んでみれば、(閉鎖的と言われようとも)諏訪の住人とすればスッキリします。
 私の想いはともかく、現地で本社や分社を見聞すれば何か新しい筋道が現れるかもしれないと始めたのが、新海三社神社の分社シリーズです。今回は、一ヶ月前となりますが、佐久ではなく小県郡の新海神社です。

和田新海神社参拝 30.9.17

 「和田宿“ステーション”」ですから「道の駅」と思いますが、そこをベース(駐車場)にして旧中山道へ向かいます。

和田新海神社
和田宿脇本陣

 状況映像として、中山道と脇本陣を手前に入れた写真を用意しました。木々に埋もれていますが、が新海神社です。

 途中から立ちふさがった草をかき分けてその前に立つと、下から見えていたのは覆屋でした。床・壁・柱は新しいのですが、トタン葺きの屋根裏は古来からの造りを残していました。

 境内にあった、長和町教育委員会が設置した案内板『長和町指定文化財 新海神社本殿』からの抜粋です。

 室町・戦国時代に和田郷が大井氏の所領であった関係から、佐久郡(現佐久市)田口の新海三社神社より勧請したものと伝承されています。
 新海神社は、八幡社・熊野神社と共に和田宿守護の三神として、特に祭祀された神社でもあります。
 上田・小県地域でも数少ない三間社流造の本殿は、間口九尺(約二・七メートル)、奥行七尺(約二・一メートル)の大きさで、全体を朱・群青・白で彩色した貴重な建築です。

和田新海神社 案内板は三間社流造を謳っていますが、御簾が下がっているので確認できません。「ちょっと失礼して…」と不遜な考えも浮かびますが、それは止めて、横長の社殿なので三間社であることは間違いないとしました。

和田新海神社 向拝柱貫の蟇股に、神紋「立穀(梶の一枚葉)」を見つけました。案内板は「新海神社」ですから、これが祭神建御名方命を表している唯一のものとなりました。
 下調べで和田宿の近く「鍛冶足」に社宮司社があることを知っていましたが、和田宿ステーションとの往復のみとし、佐久郡にある新海三社神社へ向かいました。

和田新海神社の祭神は「神真日命と大真日命」

 和田村村誌編纂委員会『和田村村誌』から、〔新海神社〕の一部を転載しました。

祭神 建御名方命・神真日命(かみなおひのみこと)

大直日命(おおなおひのみこと)

 三社合殿であるが三間一面の流造。(以下は社殿の構造なので中略)

◯ 本殿の建築は徳川中期より下らない。桃山風を憶わせる。本社佐久田口の新海神社の建築を参考にしたか、似通っている点あり。
 浅間山を東に一望のうちに古町までが手にとるように見える景勝の地。この地を選んで熊野社の横上段の地に大井氏の信仰の新海社を佐久の地から受けて祀ったものだろう。武田氏も又新海社を厚く信仰して、海野氏を亡ぼしてから海野の地に新海社を建立している。佐久の大井氏が入って、和田、古町、武石を領有した証しの一つともなる社である

 ここに突然現れたのが、とても新海三社神社の祭神とは思えぬ「神真日命と大真日命」です。『記紀』には「伊邪那岐命が川で禊ぎをした時に生まれた神」とありますが、「その後の変遷」では片付けることができない怪しげな神様として映ります。この地は小県郡ですから,別系統の新海神社が存在するのでしょうか。