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山田神社と「佐久山田神事」 佐久市常和 30.11.24

山田神社「鬼面」
山田神社「鬼板の鬼面」

 佐久新海三社神社を“追求”する中で、山田神社の存在を知りました。鎮座地を探すと、新海三社神社からは山一つ北側という地です。
 山田神社がある旧山田郷は諏訪神社(現諏訪大社)上社の神領だったことから、両社に関連性がないかと調べてみました。

諏訪神社(現諏訪大社)上社「佐久山田神事」

 諏訪の古文献から、「佐久山田神事」に関するものを拾い出しました。まずは、嘉禎3年(1237)の『年内神事次第旧記』です。

十五日御神事、佐久山田御神事、仏餉(ぶっしょう)四立、御布施一貫五百文の内、二百文祝殿(大祝)、五百文祝達五人、雅楽(がこう)十人ニ百文、神使殿百文、経所屋三百、三百文八乙女・職掌(けんこ)
武井正弘著『年内神事次第旧記』

 永禄8年(1565)『諏訪上下宮祭祀再興次第(信玄十一軸)』〔諏訪上宮祭禮退轉帳〕から、当該部分を読み下し文に替えて転載しました。

一、同(二月)十五日之祭、佐久郡山田之郷よりつと(勤)むるのよし、本帳に露(あらわれ)候。然(しかり)と雖(いえど)も山田之郷号何方(いずかた)に候哉。知らず候間(あいだ)断絶、了簡(りょうけん)に及ばず。
諏訪教育会『復刻 諏訪史料叢書 第一巻』

 佐久山田の神事ではありませんが、御射山社の鳥居造営は山田郷が負担したという記述です。同書の〔諏訪上宮祭禮退轉之所令再興次第〕からの転載です。

一、御射山之大鳥居之事、佐久郡山田之郷之役たる由、本帳に載候。然と雖も多年退転之旨相尋趣(おもむき)之所、百姓等言上者(は)、鳥居建立之先例曾以(かつてもって)不存知。但し、山田之郷之事、古来諏方社領之由申伝之由候。…

 以上の古文献をまとめた解説書となる昭和12年刊『諏訪史』から、〔上社の祭祀〕を転載しました。

第十一 佐久山田神事 二月十五日
 同じく前二書に見え、佐久郡山田郷の役として、例式の神事を勤める。当日は画詞に所謂(いわゆる)釈尊涅槃(しゃくそんねはん)の令節に当たり、下社に常楽会を営まるるので、之に因み、上社にあっても仏事を修するのであろう。
 その次第は記されて居ないが、旧記に神事の内容を示して、「ふつちやう(次第に富長)四立、御ふせ……」という。ふつちやうは、伊藤氏の説かれたように佛聖又は仏餉の轉訛(てんか)で、仏供の意に外ならぬ。従って常例に違って大祝以下に素饌(そせん)を饗し、又布施をも引くのであろう。布施の額は一貫五百文で、大祝の二百文を筆頭として、以下五官・雅楽・神使・経所屋・八乙女・職掌等に之を配分する。
 山田郷は佐久郡の北にあり(現に南佐久郡平賀村山田に地名を存す)平賀その他の郷と共に中門の鳥居(※上社本宮五ノ鳥居)の造営を所役として、古くよりの社領の地と思わるるが、本社と特殊関係のありやなしやは詳かでない。永禄の頃に至っては、その所在さえ忘却せられて、全く断絶に帰してしまった。尤も天正に入り、武田氏によって山田郷の復旧を見たけれども、神事に関しては一切の消息を断つ。
 按ずるに十五日即ち望日神事として記載せらるるは、正月・二月・四月・五月・六月・八月・九月・十月・十一月・十二月の十度で、三月と七月とを欠く。蓋し(けだし)三月は十三日間の神事(※御頭祭)の連続するにより、七月は七夕神事が同一の種類に属するため、之を省略したのであろう。(後略)
宮地直一著『諏訪史二巻後編』

 「佐久山田神事」は、(山田神社とは関係なく)山田郷が祭礼費用を負担した諏訪神社上社の仏式神事でした。また、期待していた新海三社神社との関連性はありませんでした(残念)。

蛇石明神

 長野県庶務課『南佐久郡村誌(草稿版)』から、〔常和(ときわ)村〕の一部を転載しました。

○宗像神社 村社
…祭神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)…該神の神魂代自然石にて旧称蛇石(へびいし)大明神と称す。里老伝に、建久八巳年(1197)二月蛇石横三尺高さ五寸竪(縦)四尺八寸と将軍家へ書上す。
 応永元申戌年(1394)八月三日、出雲国八岐ノオロチの念此石に留まるよし申伝うるを以て御名を山田と称すと、石の寸尺前同断と書上しよし里老の口碑に伝う。
 年月不詳、社(やしろ)長さ三間・横二間に建立す。後、石質長じて前廂(そう※庇)二尺五寸・うしろへ一尺余継ぎ足したり。官に訴えて神号を宗像明神と称し延宝六年棟札に蛇石明神とあり、正徳五年棟札に宗像明神とあり、此の間に神号改めしなり産神に尊崇す。尓来(じらい)石長せずよし里老の口碑に伝う。…

 八岐大蛇(やまたのおろち)がなぜ「山田」なのかと悩みましたが、…「八岐→山田」でした。

山田神社参拝 30.10.7

 常和(ときわ)の集落から外れる山道に、「どこへ向かうのだろう」と不安になります。

山田神社

 ほどなく現れた鳥居の額束に「山田神社」が読めました。

山田神社 さらに車道をたどると、右手に「宗像大明神」を掲げた鳥居と、その下をくぐる奇妙な社殿がありました。
 岡谷市の「今井十五社神社」と同じ形式と思いながら上を仰ぐと、「霊石殿」とある扁額が掛かっています。

山田神社「霊石殿」 事前情報で知っていた「蛇石」が「霊石」と結びつきますが、「殿」が頭上の社殿とは重なりません。それは、その向こうに見える本殿の別称ということでしょう。


 その本殿を一見して「凝った春日造」としましたが、右方にある神楽殿に上がって写真を撮る中で、屋根の形状が複雑であることに気が付きました。記憶の中では、諏訪市にある手長神社の幣拝殿や足長神社の拝殿に酷似しています。

山田神社本殿

 前方部にある箱状の壇と木柵に防腐剤が塗られているので、自然と目が行きます。本殿はその分を足した高床となりますから、伝承に「なるほど」と頷いてしまいます。

 菊池清人著『佐久の開拓史』から抜粋しました。

 この佐久市山田にある神社は現在は山田神社と呼ばれているが、それ以前には宗像(むなかた)神社、更に蛇石神社といわれており、俗に「へいびっさん」と呼ばれていた。この社殿の下に石があり、年々大きくなるので度々社殿を建てかえなければならなかった。それで宗像神社をまつったら、石が大きくならなかったと言い伝えている。
〔新海・山田三社神社と佐久の開拓〕

 床下を見ながら一周しますが、密閉してあり、“拝観口”はありませんでした。

山田神社

 蛇石を御神体としたことで、山田神社が集落から離れた場所にあるのが理解できました。その神社前から常和の集落が見えるかと目を細めれば、数戸の屋根だけが望めました。

 自宅で『長野県神社庁』の〔神社の紹介〕を参照すると、「白青石を御霊代として鎮斎し・青白き巨石をいわくら(磐座)とし」とあります。拝観できなかったことで、蛇石はヘビの形ではなく、白色の大石に青い縞模様が入ったものと想像してみました。

本殿は、撞木造ではなく「五棟造」

 本殿が珍しい様式です。資料に見当たらないのでネットで調べてみると、サイト『SAKU CITY 佐久市』に「撞木造(しゅもくづくり)」とありました。

佐久市景観重要建造物第1号

山田神社の本殿及び楼門(社務所・参籠殿)
 山田神社は蛇石神社とも呼ばれています。昔、出雲の国で素戔嗚尊が八岐の大蛇を退治した時、大蛇の魂が鳥となってこの地まで飛んできて、大きな石に魂が宿ったとされる蛇石さんの民話が、常和地区で語り継がれています。また、当神社は、諏訪大社上社と深いつながりがあったとされています。
 珍しい造りの楼門をくぐり階段を上ると境内が開け、正面には珍しい撞木造りの本殿が構えており、…

山田神社本殿 楼門という呼称もおかしいのですが、本題とする山田神社本殿の大棟は「」なので、撞木造の特徴である「」ではありません。ここでシュモクザメを挙げても混迷を深めるばかりですから、代表的な建造物を探してみました。

善光寺の撞木造 撞木造は仏殿の建築様式とあります。その中で「善光寺の撞木造」がよく引き合いに出されるので、国土交通省『国土画像情報』から本堂の航空写真をお借りすると、正に「の撞木造」でした。
 これで、山田神社では、大棟とそれに交差する破風の棟を合わせて4本、これに前部の唐破風の1本を合計して「五棟造」としました。ただし、正式な名称ではないようで、検索しても引っ掛かりません。