今となっては、「平尾社の鳥居」を知った経緯が思い出せません。杵築市(きつきし)の「深田石鳥居」を地図に探す中、隣の豊後大野市にあるこの鳥居に目が行ったとするのが近いかも知れませんが…。とにかく、柱が八角という鳥居に飛び付きました。
前日は、高千穂神社と天岩戸神社を参拝しました。その地から豊後大野市へは阿蘇神社経由が近いのですが、ナビの推薦は反対側の延岡市経由です。「高速道路で大幅な時間短縮ができるから」ということなので、阿蘇神社参拝をキャンセルして(まで)、その指示に従いました。
「宿泊地である道の駅『みえ(三重)』を発ち、コンビニでコーヒーとパンの朝食を済ませた」という時間帯なので、朝日に照らされて陰影のある鳥居が撮れました。
貫が新しく柱の下部に継ぎ足しがありますが、確かに八角形です。その鳥居が立つ光景に、左方に並んだ木柱「市指定天然記念物 鳥居原の大杉・県指定有形文化財 平尾社鳥居」と石碑「記念碑(由緒)・平尾社鳥居一基・天然記念物平尾社鳥居原大杉二本」、その後方には折れた鳥居の部材が横たわっている、と解説を入れました。
鳥居が目的としても、その後方にある神社に表敬参拝するのがスジです。しかし、進んでも、徐々に標高を落とす先は藪で、その先は大きく切れ落ちていました。
「鳥居、鳥居」でここまで来たので、初めて、神社というものが存在していないことを知りました。廃絶したのか・離れた場所にある神社の遙拝所なのか、疑問が深まりました。
左柱正面の銘文「三四五」を読んで、「七五三(しめ)」に似た読みがあるのだろうかと思いました。それが、次の面に彫られた「最初・再・三・四・五」に気が付けば、「五回再建した」と納得することになります。しかし、かなり古そうな「観応二辛卯年」に加え、ここまで再建を繰り返したそれぞれの時代の氏子に執念のようなものを感じれば、「さて、次は…」ときびすを返す気にはなれません。図書館で突き止めることにしました。
鳥居から離れた右方に、石塔が見えます。「なぜ神社の境内に」と思えば、確認せずにはいられません。その前に立つと、「頭取 若竹亀治郎」の銘がありました。
墓石でないことに気が付くと、台石の彫刻に自然と目が行きます。
下部の俵と幕が張られた柱が土俵とわかれば、基台に彫られた「門弟」の左右にある名字「小桜・宮臺・藤森・花嶋…」が四股名にも思えます。
総合的に判断すれば「弟子が頭取(親方)の亀治郎さんを顕彰したもの」となりますが、なぜ土俵の部分が深く凹んでいるのかが謎として残りました。
開館まで時間があるので、道の駅で知った「沈堕の滝(ちんだのたき)」を見学しました。
とって返した図書館で(開館直後のいつもの時間を乱す格好となるのを気にしながら)これまでの経緯を話すと、カレンダーの写真を始め幾つかの本が並びました。その際に、私が度々(たびたび)「八角」を繰り返したのを気にしたのか、(八角ではなく)「四角の柱を面取りした」記述があることを教えてくれました。
これが真打ちという千歳村史刊行会編『千歳村誌』に[平尾社]があり、写真も載っていることから今も存在していることが明らかになりました。再び職員に縋ると、すぐに住宅地図にある平尾社を示してくれました。
Googleマップでその場所を開くと、普通に「平尾社」を表示しています。想定外の離れた場所でしたが、それより、鳥居からは川を挟んだ対岸に鎮座する平尾社との地形上の分断が不自然です。鳥居を再建し続けたことを含めれば、私の想像を超えた何かがあったとするしかありません。
ナビが連れて行ってくれたのは、「どこに神社があるんだ!?」という何の変哲もない場所です。降りて周囲を眺めて、直近にある緑の小山がそれらしいと、その中に消える小道を進みました。
参道に合流して、結果としてナビの言う通りとなったのですが、裏参道でもない横道だったので、石段を最下段まで下り、往復となる表参道から境内を目指しました。
拝礼の後、拝殿内の上部に目をやると、「平尾神社」額の両側に何かがあります。注視すると、随身でした。壁に掛けられた箱の中という形態を初めて見たので、珍しいとして紹介しました。因みに、下部の白飛びした物体は、賽銭箱です。
境内に案内板がありますが、ここでは千歳村史刊行会編『千歳村誌』〔神社と持院〕から[平尾社]の冒頭部分を転載しました。
ここに出る「石華表」が、平尾社の鳥居でした。
社殿に何かの歴史があるようで、狛犬は拝殿の背後にあります。それが正面を向く社殿を渡殿(わたどの・わたりでん)と見ましたが、コピーした資料を参照すると、引き算で「申殿」が残りました。この場では、「申す」から祝詞殿が当てはまるとするしかありません。(調べると、「祝詞を申し上げる申殿(もうしどの)」でした)
境内の一辺に並んだ石造物の一つに、宝篋印塔があります。案内板『平尾神社』〔文化財〕に「石造宝塔一基(大分県指定重要文化財) 暦応三年(一三四〇年)庚辰九月十五日刻銘有り。…」があったので、諏訪では見られない古物として、多くの石造物を代表してこの一枚を載せました。
これで、心置きなく豊後の大野市を離れることができました。
やはり、神社から直線距離で約630m離れた場所にある鳥居が気になります。
『地理院地図Vector』〔標準地図〕に、平尾社と鳥居を書き込みました。川辺に大野市千歳支所(旧千歳村役場)があるので、平尾社が旧社格[村社(昭和3年に郷社)]であることがわかります。
参道の中間辺で、背後の社殿の向きを参考にして対岸の台地を撮ったものです。
まったくの当てずっぽうでしたが、右上に写る千歳中学校の位置を上図に照らし合わせると、鳥居の場所(↓)が特定できました。
また、『千歳村誌』を熟読すれば「神殿を悉く焼失した。そのとき御神体ばかりが残ったので、宮成氏の子孫が今の社地に再興した」とあります。これで、祖先が創建した旧鎮座地を印すために、鳥居の再建を続けたことがわかりました。