参拝時には知らなかったのですが、この鎌八幡宮は、明治の終わりに兄井鎮座の鎌八幡宮を移遷したものでした。そのため、同名の二社目は「古宮から新宮」と言う格好になりました。
丹生酒殿(にうさかどの)神社拝殿の右方から奥に進むと、写真では左方の拝所に出ます。
拝礼を済ませてから神木の周囲を巡りますが、兄井の鎌八幡宮を凌ぐ数には、「凄まじい」を通り越して「悍(おぞ)ましさ」を感じます。
しかし、「これが、鎌八幡宮たる所以(ゆえん)」なので、物見遊山の私見など戯言(たわごと)として片付けられるのは間違いありません。
鎌は手の届く範囲に打ち付けてありますが、「願いを却下されて」落下したものも見られます。
この鎌打ちは平成29年に禁止されたそうで、今は鎌の形をした絵馬を奉納するようになっています。しかし、中にはまだラベルが付いている新しいものも見られました。
写真を撮っている中でも、老若男女を問わずに三々五々参拝する人がいます。兄井の鎌八幡宮と違い、こちらの方が知られているのでしょう。
「鎌をまとめて打ってある場所がコブ状になっている。異物を排出しようと奮闘した跡か」として撮っておいた写真があります。冒頭に挙げた写真の□部分です。
自宅で眺めると、大鎌を含めたすべての根元が、穴ではなく釣り針状に丸めてあります(兄井の鎌八幡宮は穴あき)。
また、小型のものは板状で刃が付いていません。さらに、この間隔で柄を振り上げて突き刺すのは至難の業ですから、金槌などで打ち込んだ柄無しの鎌であったことが窺えます。
鎌八幡宮は明治42年に兄井から移されたといいますから、それ以降に打ち込まれたものでも初期のものは、柄が付いていない奉献用の鎌だったとしました。
時系列では逆になりますが、鎌八幡宮が目的だったので、この順になりました。
大半が落葉した、樹齢が八百年と言うイチョウの大木です。11時過ぎという時間帯ですが、12月の陽光とあって、丹生酒殿神社の杜が黄金の絨毯にクッキリと境を作っていました。因みに、この神社の後方が高野山になります。
本殿は三棟が並んでいますが、拝所中央からは、右側二棟の間が正面となっていました。
この時は鎌八幡宮しか頭になかったので拝礼のみで退出しましたが、(撮っておいた写真で)拝殿に掲げられた額から、右が丹生大神・左が狩場大神だったことを知りました。後に出る『紀伊続風土記』では「丹生酒殿明神社(本社)・狩場明神(摂社)」の関係ですが、実質は同格ということでしょうか。
鎌八幡宮からの帰りに撮った、丹生酒殿神社の三棟の本殿です。前出の社殿が同じ大きさの春日造であることがわかります。
これも後から調べたものですが、最奥にある社殿の祭神が(旧寺尾村から移遷した)厳島明神と(旧兄井村の鎌八幡宮を移遷した際にその祭神として配祀された)誉田別大神でした。
そこで、兄井村から鎌八幡宮とともに移遷した諏訪明神社はどうなったのかと言うと、(そこには祀られずに)境内社の祠としてありました。案内板『御由緒』でも最後の行に「四、建御名方命(大国主神の御子)」とだけありますから、異郷の神様とは距離を置いたということでしょうか。
紀州藩が幕末に編纂した地誌『紀伊続風土記』〔伊都郡三谷荘〕から、[丹生酒殿明神社]を現代文に直して転載しました。当然ながら、鎌八幡宮についての記述はありません。
○丹生酒殿明神社 境内周三町二十九間
本社 方一間半 摂社 方一間半 祀神狩場明神 末社 (略)
村中にあり、一荘の氏神なり、按ずるに貞和五年(1349)の寄進状に三谷酒殿とあり 天野社蔵、又石燈籠并に花生(※鳥居)には丹生酒殿又酒殿とのみ刻む、丹生酒殿を主として祀る事詳なり、
伝えいう、本社丹生明神は崇神帝の御宇大和国丹生川上より榊を持して此地に降臨し給い、後天野村に移り給う故に森を榊山という、丹生明神此地に降臨の時初めて神酒を獻ず、是神前に酒を獻ずる初めなり、故に又酒殿とも称すといえり、
文暦元年(1234)の文書に「御榊山を去り建暦二年(1212)正月十八日御宝殿を納め奉り、又曰く是大明神根本垂跡地と爲、之故也、又曰く御榊山は御手洗谷を東限り・天野ノ横峰を南限り・栗栖谷を西限り・谷合を北限也 并に天野社藏」とあるは即此地なり、摂社狩場明神村中竃門(かまど)屋敷にて誕生ありという、祭礼九月二十日なり、
○丹生明神降臨の地、天野丹生明神の祝辞に紀伊国伊都郡奄太(あんだ)村の石口に天降坐とあり、当村の東慈尊院村古奄太村といいて、そこに降臨ありというは恐らくは誤りなるべし、古奄太の名此辺より慈尊院村九度山村までの地名なるべし 九度山村の艮廣平の田地を安田島という又庵田とも書す、
明神此地に降臨の事は酒殿社別當福林寺寶永中の鐘の銘及社記に詳なり、丹生狩場二神の始末は天野社の條下に見ゆ、神主は天野社神主丹生氏兼帯す 、