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大熊の七御社宮神 諏訪市湖南大熊

■ 御社宮神と御社宮司が混在しますが、同じと考えてください。

 『諏訪藩主手元絵図』には、大熊(おぐま)村と茅野村に「七御社宮神」が見られます。下は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から〔大熊村〕の一部を加工して転載したものです。これが、江戸時代の「七御社宮神」です。

七御社宮司
※ 各御社宮神は、『諏訪史蹟要項』の表記

「大熊七御社宮司と御頭屋敷跡」

 大熊村にある「大天白」を調べる中で、諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 諏訪市湖南篇』(以下『要項』)を手にしました。その中にある標題の一文をを読むと、

七御社宮司社 南方より順次その所在を示すと、
  • 榧ノ木御社宮司址(旧中洲村宮ノ脇大国主社境内)
  • 廻目御社宮司址(大欅御社宮司表示石碑あり)
  • 新田久袮御社宮司址(表示石碑あり)
  • 南方御社宮司社(南大熊氏神)
  • 小林御社宮司址(三月畑御社宮司表示石碑あり)
  • 御頭御社宮司址(城山御社宮司又はオミシャグジ表示石碑あり)
  • 北方御社宮司社(北大熊氏神 砥沢御社宮司)
現在も、宗教法人として存在

とあり、明治の神社合併で跡(址)になった四社の御社宮司社を、固有名詞で挙げています。また、(当然のことですが)「大熊にも御頭御社宮司社があったんだ」と知識を増やしました。

 各宮は大体三、四百米の間隔で同様な地形の点に一貫して所在している。
 この匕社を連ねて、その下方を一本の道路が貰通している。この道路は上社の廻廊から発して、旧裏参道を榧ノ木御社宮司のすぐ下を通り、宮ノ脇の西端より降って、旧道(慶長道路)を約百二、三十米西して、廻り目御社宮司のすぐ西方にて分岐して、大熊の村の上方を横断して南真志野の福松地籍を通リ、苒び旧道の建石(たていし)坂の中途にてこれに合している。これより西すること百米位にて習焼社の入口の下馬橋に至ることができる。
 この道路は鎌倉街道と云われる道路と慶長道蕗(現旧道)との中間に位置している故、鎌倉街道の不便と荒廃によって慶長道路の出来るまでの中間街道であったものか、或ば匕御社宮司を連ねている点から、習焼社の辰ノ日神事に利用するために作られたものか、なお神域に居住した豪族間の有事の際の重要道路として兼ねて使用されたものか、大いに研究の余地があると考えられる。南北両御社宮司社と榧/木御社宮司のほかは藪地であったが、明治四十一年、南北両社に分割合併されたから今は皆畑地になっている。
 南北両御社宮司と榧ノ木にはないが、あとの四ケ所にはかって大熊青年会が小石碑を建立してその趾を標示している
(中略)
 他の村にも匕御社宮司のあったことは伝えられているが、その多くは漠然としていてその所在が不明であるのに、大熊の匕御社宮司がかく歴然としていることは極めて特異なことである。

 本宮から有賀千鹿頭神社にかけての道を何回か歩いていた私は、その何れかが古道三本に相当していたと振り返ると、余所者である私ですがテンションが上がりました。それに、大祝やミシャグジが絡みますから、もう…。

「御社宮司社」碑

石碑
大熊青年団が建てた「御社宮司表示石碑」

 左は、南方御社宮司神社の境内にある石柱です。かたわらに案内碑があり「中央高速自動車道の通過に伴い南方約八十メートルの場所に在ったものを移転したものである」と説明しています。
 しかし、南方御社宮司神社の社前にある『移転由来』碑には「…南方御社宮司神社は以前この地から約二百メートル南東の地にあって…」とありますから、両碑の“整合性”に疑問を感じていました。
 それが、『要項』を読んだことで、一気に氷解しました。つまり、「御社宮司社」碑は、大熊の青年団が、七御社宮神の中で「跡」になった四社に、紀元二千六百年記念として建立したものでした。また、両社の名前が酷似している上に同じ場所に移転したとあって、外からの目では「理解に苦しむ」ことになったというわけです。
 これで、南方・北方各御社宮司神社と榧ノ木御社宮司社(大国主命神社)、及び中央道の下になってしまった(名称不詳の)御社宮司社を除くと、残りの“三御社宮神”を探すには、この碑を見つければよいことになります。

“三御社宮神”を探せ!! 6.2

 諏訪大社本宮から、『要項』をザックに忍ばせて大熊へと向かいます。旧道は、元々は人馬の道なので車のすれ違いが困難です。徒歩が正解だったと、左右に目を配らせながら進みました。

小林“稲荷”

小林稲荷
旧道沿いにある小林稲荷

 初めに見つかったのが、御柱の木札に「小林稲荷神社」とあるので、『要項』にある「小林御社宮司社」です。幸先がいいと喜んだのですが、道々で出会った地元の老若男女に確認すると、「ミシャグジ」にはまったく反応しません。あくまで「巻の祝神」と言い張り、「大熊では、ほとんどが稲荷神を祀っている」と答えます。
 この現状に、「南方御社宮司神社に合祀されて空いた祠に祝神を据えた→平成の世では、かつて祀られていたミシャグジが忘れられてしまった」と自信を持って考えていた私ですが、徐々に揺らぎ始めました。何より、青年団が建てたという肝心の碑がありません。同じ「小林」ですが、取りあえず保留としました。

御頭御社宮司社(絵図では御頭ノ宮)

 「御頭御社宮司址」には「(城山…)」とあるので、私にはこれしか浮かばない大熊城址へ向かいました。しかし、中央道で分断された城址の双方を探しましたが、石祠はあっても碑が見つかりません。「城山の向こう」の可能性もあるのでさらに進むと、北方御社宮司社に着いてしまいました。

御頭御社宮司社跡 意気込みと入れ替わった虚しさを抱いて、大熊城址直下の坂を下ります。右側は中央自動車道のフェンスですから、つまずかない頻度で左方を注視します。すると、南方御社宮司神社にある石柱と同じものが見えます。「あれだ!!」と近づくと、ありました「御頭御社宮司社」が。同じ場所でも、登りと下りでは目線が違って見つかるキノコ取りと同じでした。

御頭御社宮司社跡 碑の向きと場所から、かつての社殿(祠)は、下り斜面を背にしていたのでしょうか。前面は畑ですから、野辺の祠という規模だった可能性があります。
 改めて隠し畑のような小さな平地を眺めると、そこに御頭小屋(屋敷)を建てるにはふさわしい場所のように見えてきます。それを踏まえると、十数年に1回だけ出番という御頭御社宮司社の規模は、小さくとも差しつかえがないと言えます。しかし、ザックから取り出した『要項』は、「御頭御社宮司は、この屋敷跡の西方約二百米に位置している」と書いていました。言い替えると「ここから東200mが御頭屋敷」となります。

 「この勢いで残りの二社も」と意気込んだのですが、権現沢周辺にあると目星を付けた御社宮司社は見つかりませんでした。

“三御社宮神”を探せ −P2− 28.7.3

■ 御社宮神と御社宮司・神田と新田・その他幾つかに表記のゆらぎがありますが、ご容赦ください。
七御社宮司(反転)

 上図は、冒頭に載せた『諏訪藩主手元絵図』を反転させたものです。これで、“通常”の地図『GoogleMap』と比べることができます。


諏訪市史の編纂者に感謝

『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』 鎌倉街道の知識を補充するために、久しぶりに『諏訪市史』を借りました。「上巻」を選んだのですが、巻違いで、それについての記述はありませんでした。
 ところが、今までは一度も触れたこともなかった巻末のポケットが気になります。誘われるように一枚の図録を手にすると、『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』(以下『地図』)でした。
 広げると、「おー、七御社宮神が」というその場所が全て記載してあります。どういうことかと凡例を確かめると、「鳥居…神社・ミシャクジ『祝詞段』の神社」とありました。「諏訪市も中々やるじゃないか」という評価は別として、関係する部分を転載しました。
 これで「今までの苦労は何だったんだ」となりましたが、それはそれで楽しかったので…。

小林御社宮司

小林御社宮司社跡? 『地図』では上(北)から3番目の小林御社宮司は、前回の探索時に「右側はフェンス」と書いた場所です。
 再び出掛けて眺めると、全て道路公団の敷地になっています。それでも、伸びた草の中に碑が隠れている可能性を思って注視しますが、…見つかりません。今日も、出鼻からくじかれてしまいました。

御社宮司社石碑
「小林御社宮司」と確定した石碑

 自宅に戻ってからの話になりますが、『諏訪藩主手元絵図』(以下『絵図』)を確認すると、上写真では沢の手前(撮影位置の後方)に「七御社宮神」と書いてあります。
 現在、その場所には(南東約200mから移転した)南方御社宮司神社が鎮座していますが、その境内に「御社宮司社」碑(左写真)があるのを思い出しました。碑の説明が「南方80m(中央自動車道の下)から移転」ですから、『絵図』の「七御社宮神」と場所が一致しました。

 これで、始めに「名称不詳」とした「御社宮司社」碑が「小林御社宮司」のものとなり、諏訪史(市)お墨付きの『地図』ですが、その所在地が間違っていたことがわかりました。

『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』について

神田久祢御社宮司社跡 左は、標題の地図を部分拡大したものです。ここでは、他所の例から[鳥居]がその所在地になっています。しかし、その範囲は、地図のスケールから約40m四方になります。“小林御社宮司”の例もあるので、広範囲に探す必要性が出てきました。

神田久祢(しんでんくね)御社宮司

 『要項』では「新田」ですが、『地図』では「神田」です。権現沢の下流域が「御戸代」なので「神田」の方が正しいかもしれない、と歩いていると、権現沢の手前にある水神に、「(建立者)神田組」と彫ってあるのを見ました。地元の人に「権現沢までが“しんでん”で、川向こうが湯田」と聞いていましたから、神田が正しいとなりました。

神田久祢御社宮司社跡 前回、推定地とした木工所を訪れた時は「わからない」という結果に終わりましたが、今日は石碑の写真を持参しています。
 作業中なので、頃合いを選んで「この前はありがとうございました。懲りずにまた来ました」と挨拶しました。写真を提示すると、「あの後思い当たって」と案内してくれました。作業場をスルーして外に出ると、正(まさ)しく御社宮司社碑が目の前にありました。彼には庭石同然のものと思いますが、私は、思わず「オー」と声を出してしまいました。

神田久祢御社宮司社跡
左下の柵の手前が道になっている

 作業場と碑がある一画の間は木工所内の通路といった感じですが、右側が中央自動車道の側道に繋がっているのを見て、古道の跡であることを確信しました。『要項』で言う「匕社(御社宮司社)を連ねて、その下方を一本の道路が貰通している」が実感としてわかります。

七御社宮司古道 何回も頭を下げて感謝の思いを伝え、意気揚々と引き揚げました。
 権現沢側から木工所方面を眺めると、藪地の中に古道が浮かびあがってきました。「まだ残っているんだ」と感慨も一入(ひとしお)でしたが、まだ廻目(まわりめ)が残っています。

廻目御社宮司社

廻り目御社宮司社跡 『地図』にある、やや太い線に注目しました。「復員1mから2mの道路」ですから、古道が今も使われている可能性があります。わかるように、赤で着色してみました。は、足で確かめた御社宮司社(跡)の正確な場所です。

 大天白を探した時は、旧道を、わけもわからず何回も往復しました。しかし、今日は『地図』があります。

権現沢 権現沢からその辺りを窺うと、民家の脇に細い路地が見えます。地図通りとほくそ笑みましたが、旧道まで往復しても、『地図』の場所にはありません。
 しかたなく、表側(旧道)に回って直接交渉を始めました。6軒に声を掛けましたが、三軒は不在で、残る家もいつも通りの「わからない」で終わりました。
 まだポツポツですが、カメラには気になる雨が降ってきました。本降りにならないうちにと、山際から続く長く伸びた藪の中に入りました。私はジャングルの中で秘宝を探す気分ですが、長時間のウロウロは、「あの人、何をやっているんだ」との疑いの目で見られかねません。「今日はこれまで」と歩道に戻りました。

廻り目御社宮司社跡 もうすぐ旧道という地点で山手を見ると、…御柱? 近づくと正に御柱の冠(先端)でした(御柱で神社や祠の場所がわかるという諏訪は、本当に面白い土地です)。しかし、確認するには不法侵入になるという場所です。許可を得るために玄関へ向かうと、敷地の石垣脇に道らしきものがありました。

廻り目御社宮司社跡 草を踏みしめながら進むと、祠ならぬ石柱が見え、廻り目御社宮司社と確認できました。
 神社跡の碑にも御柱を建ててしまうのが諏訪人のスゴいところですが、ここでは違和感がまったくありませんでした。

七御社宮司古道

 旧道側から眺めた、古道跡と思われる道です。旧道からは、この家の前までは舗装されていますが、その脇は草地だったので、何回前を通っても、権現沢に抜けられるとは、夢にも思っていませんでした。

廻り目御社宮司社跡
新しい御柱が建った(28.9.16)

 これで、七御社宮司は全て制覇しました。「いやー、面白かった」と、湖南青年団大熊支部の皆さんに謝辞を捧げずにはいられません。
 それにしても、大熊の地は、御社宮司社の他にも巻の祝神が至る所にあることに驚かされました。諏訪では一番神口密度が高い土地かもしれません。

鎌倉街道(七御社宮司道)

 地図上に並んだ七御社宮司を眺めると、同じ標高上にあることがわかります。国土地理院の地図で調べると、榧木782m・廻目770m・神田久祢779m・南方(796m)・小林(800)m・御頭800m・北方795mでした。参考までに、本宮三・四の御柱が780m、前宮805mを挙げてみました。
 また、中央自動車道が、諏訪大社上社を避けてから同じラインを通過していることもわかります。鎌倉街道と高速道路が、その時代の実情に合わせて最適のラインを取っていることが何とも面白く感じました。