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大熊の七御社宮神(1) 諏訪市湖南大熊 28.6.25

■ 御社宮神と御社宮司が混在しますが、同じと考えてください。

 『諏訪藩主手元絵図』には、大熊(おぐま)村と茅野村に「七御社宮神」が見られます。下は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』から〔大熊村〕の一部を加工して転載したものです。これが、江戸時代の「七御社宮神」です。

七御社宮司
※ 各御社宮神は、『諏訪史蹟要項』の表記

「大熊七御社宮司と御頭屋敷跡」

 大熊村にある「大天白」を調べる中で、諏訪史談会編『諏訪史蹟要項 諏訪市湖南篇』(以下『要項』)を手にしました。その中にある標題の一文をを読むと、

七御社宮司社 南方より順次その所在を示すと、
  • 榧ノ木御社宮司址(旧中洲村宮ノ脇大国主社境内)
  • 廻目御社宮司址(大欅御社宮司表示石碑あり)
  • 新田久袮御社宮司址(表示石碑あり)
  • 南方御社宮司社(南大熊氏神)
  • 小林御社宮司址(三月畑御社宮司表示石碑あり)
  • 御頭御社宮司址(城山御社宮司又はオミシャグジ表示石碑あり)
  • 北方御社宮司社(北大熊氏神 砥沢御社宮司)
現在も、宗教法人として存在

とあり、明治の神社合併で跡(址)になった四社の御社宮司社を、固有名詞で挙げています。また、(当然のことですが)「大熊にも御頭御社宮司社があったんだ」と知識を増やしました。

 各宮は大体三、四百米の間隔で同様な地形の点に一貫して所在している。
 この匕社を連ねて、その下方を一本の道路が貰通している。この道路は上社の廻廊から発して、旧裏参道を榧ノ木御社宮司のすぐ下を通り、宮ノ脇の西端より降って、旧道(慶長道路)を約百二、三十米西して、廻り目御社宮司のすぐ西方にて分岐して、大熊の村の上方を横断して南真志野の福松地籍を通リ、苒び旧道の建石(たていし)坂の中途にてこれに合している。これより西すること百米位にて習焼社の入口の下馬橋に至ることができる。
 この道路は鎌倉街道と云われる道路と慶長道蕗(現旧道)との中間に位置している故、鎌倉街道の不便と荒廃によって慶長道路の出来るまでの中間街道であったものか、或ば匕御社宮司を連ねている点から、習焼社の辰ノ日神事に利用するために作られたものか、なお神域に居住した豪族間の有事の際の重要道路として兼ねて使用されたものか、大いに研究の余地があると考えられる。南北両御社宮司社と榧/木御社宮司のほかは藪地であったが、明治四十一年、南北両社に分割合併されたから今は皆畑地になっている。
 南北両御社宮司と榧ノ木にはないが、あとの四ケ所にはかって大熊青年会が小石碑を建立してその趾を標示している
(中略)
 他の村にも匕御社宮司のあったことは伝えられているが、その多くは漠然としていてその所在が不明であるのに、大熊の匕御社宮司がかく歴然としていることは極めて特異なことである。

 本宮から有賀千鹿頭神社にかけての道を何回か歩いていた私は、その何れかが古道三本に相当していたと振り返ると、余所者である私ですがテンションが上がりました。それに、大祝やミシャグジが絡みますから、もう…。

「御社宮司社」碑

石碑
大熊青年団が建てた「御社宮司表示石碑」

 左は、南方御社宮司神社の境内にある石柱です。かたわらに案内碑があり「中央高速自動車道の通過に伴い南方約八十メートルの場所に在ったものを移転したものである」と説明しています。
 しかし、南方御社宮司神社の社前にある『移転由来』碑には「…南方御社宮司神社は以前この地から約二百メートル南東の地にあって…」とありますから、両碑の“整合性”に疑問を感じていました。
 それが、『要項』を読んだことで、一気に氷解しました。つまり、「御社宮司社」碑は、大熊の青年団が、七御社宮神の中で「跡」になった四社に、紀元二千六百年記念として建立したものでした。また、両社の名前が酷似している上に同じ場所に移転したとあって、外からの目では「理解に苦しむ」ことになったというわけです。
 これで、南方・北方各御社宮司神社と榧ノ木御社宮司社(大国主命神社)、及び中央道の下になってしまった(名称不詳の)御社宮司社を除くと、残りの“三御社宮神”を探すには、この碑を見つければよいことになります。

“三御社宮神”を探せ!! 6.2

 諏訪大社本宮から、『要項』をザックに忍ばせて大熊へと向かいます。旧道は、元々は人馬の道なので車のすれ違いが困難です。徒歩が正解だったと、左右に目を配らせながら進みました。

小林“稲荷”

小林稲荷
旧道沿いにある小林稲荷

 初めに見つかったのが、御柱の木札に「小林稲荷神社」とあるので、『要項』にある「小林御社宮司社」です。幸先がいいと喜んだのですが、道々で出会った地元の老若男女に確認すると、「ミシャグジ」にはまったく反応しません。あくまで「巻の祝神」と言い張り、「大熊では、ほとんどが稲荷神を祀っている」と答えます。
 この現状に、「南方御社宮司神社に合祀されて空いた祠に祝神を据えた→平成の世では、かつて祀られていたミシャグジが忘れられてしまった」と自信を持って考えていた私ですが、徐々に揺らぎ始めました。何より、青年団が建てたという肝心の碑がありません。同じ「小林」ですが、取りあえず保留としました。

御頭御社宮司社(絵図では御頭ノ宮)

 「御頭御社宮司址」には「(城山…)」とあるので、私にはこれしか浮かばない大熊城址へ向かいました。しかし、中央道で分断された城址の双方を探しましたが、石祠はあっても碑が見つかりません。「城山の向こう」の可能性もあるのでさらに進むと、北方御社宮司社に着いてしまいました。

御頭御社宮司社跡 意気込みと入れ替わった虚しさを抱いて、大熊城址直下の坂を下ります。右側は中央自動車道のフェンスですから、つまずかない頻度で左方を注視します。すると、南方御社宮司神社にある石柱と同じものが見えます。「あれだ!!」と近づくと、ありました「御頭御社宮司社」が。同じ場所でも、登りと下りでは目線が違って見つかるキノコ取りと同じでした。

御頭御社宮司社跡 碑の向きと場所から、かつての社殿(祠)は、下り斜面を背にしていたのでしょうか。前面は畑ですから、野辺の祠という規模だった可能性があります。
 改めて隠し畑のような小さな平地を眺めると、そこに御頭小屋(屋敷)を建てるにはふさわしい場所のように見えてきます。それを踏まえると、十数年に1回だけ出番という御頭御社宮司社の規模は、小さくとも差しつかえがないと言えます。しかし、ザックから取り出した『要項』は、「御頭御社宮司は、この屋敷跡の西方約二百米に位置している」と書いていました。言い替えると「ここから東200mが御頭屋敷」となります。

 「この勢いで残りの二社も」と意気込んだのですが、権現沢周辺にあると目星を付けた御社宮司社は見つかりませんでした。続きは、以下のリンクで御覧ください。

‖サイト内リンク‖ 「大熊の七御社宮神(2)」