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大熊の七御社宮神(2) 諏訪市湖南大熊 28.7.3

“三御社宮神”を探せ −P2−

■ 御社宮神と御社宮司・神田と新田・その他幾つかに表記のゆらぎがありますが、ご容赦ください。
七御社宮司(反転)

 上図は、(1)に載せた『諏訪藩主手元絵図』を反転させたものです。 これで、“通常”の地図『GoogleMap』と比べることができます。


諏訪市史の編纂者に感謝

『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』 鎌倉街道の知識を補充するために、久しぶりに『諏訪市史』を借りました。「上巻」を選んだのですが、巻違いで、それについての記述はありませんでした。
 ところが、今までは一度も触れたこともなかった巻末のポケットが気になります。誘われるように一枚の図録を手にすると、『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』(以下『地図』)でした。
 広げると、「おー、七御社宮神が」というその場所が全て記載してあります。どういうことかと凡例を確かめると、「鳥居…神社・ミシャクジ『祝詞段』の神社」とありました。「諏訪市も中々やるじゃないか」という評価は別として、関係する部分を転載しました。
 これで「今までの苦労は何だったんだ」となりましたが、それはそれで楽しかったので…。

小林御社宮司

小林御社宮司社跡? 『地図』では上(北)から3番目の小林御社宮司は、前回の探索時に「右側はフェンス」と書いた場所です。
 再び出掛けて眺めると、全て道路公団の敷地になっています。それでも、伸びた草の中に碑が隠れている可能性を思って注視しますが、…見つかりません。今日も、出鼻からくじかれてしまいました。

御社宮司社石碑
「小林御社宮司」と確定した石碑

 自宅に戻ってからの話になりますが、『諏訪藩主手元絵図』(以下『絵図』)を確認すると、上写真では沢の手前(撮影位置の後方)に「七御社宮神」と書いてあります。
 現在、その場所には(南東約200mから移転した)南方御社宮司神社が鎮座していますが、その境内に「御社宮司社」碑(左写真)があるのを思い出しました。碑の説明が「南方80m(中央自動車道の下)から移転」ですから、『絵図』の「七御社宮神」と場所が一致しました。

 これで、(1)では「名称不詳」とした「御社宮司社」碑が「小林御社宮司」のものとなり、諏訪史(市)お墨付きの『地図』ですが、その所在地が間違っていたことがわかりました。

『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』について

神田久祢御社宮司社跡 左は、標題の地図を部分拡大したものです。ここでは、他所の例から[鳥居]がその所在地になっています。しかし、その範囲は、地図のスケールから約40m四方になります。“小林御社宮司”の例もあるので、広範囲に探す必要性が出てきました。

神田久祢(しんでんくね)御社宮司

 『要項』では「新田」ですが、『地図』では「神田」です。権現沢の下流域が「御戸代」なので「神田」の方が正しいかもしれない、と歩いていると、権現沢の手前にある水神に、「(建立者)神田組」と彫ってあるのを見ました。地元の人に「権現沢までが“しんでん”で、川向こうが湯田」と聞いていましたから、神田が正しいとなりました。

神田久祢御社宮司社跡 前回、推定地とした木工所を訪れた時は「わからない」という結果に終わりましたが、今日は石碑の写真を持参しています。
 作業中なので、頃合いを選んで「この前はありがとうございました。懲りずにまた来ました」と挨拶しました。写真を提示すると、「あの後思い当たって」と案内してくれました。作業場をスルーして外に出ると、正(まさ)しく御社宮司社碑が目の前にありました。彼には庭石同然のものと思いますが、私は、思わず「オー」と声を出してしまいました。

神田久祢御社宮司社跡
左下の柵の手前が道になっている

 作業場と碑がある一画の間は木工所内の通路といった感じですが、右側が中央自動車道の側道に繋がっているのを見て、古道の跡であることを確信しました。『要項』で言う「匕社(御社宮司社)を連ねて、その下方を一本の道路が貰通している」が実感としてわかります。

七御社宮司古道 何回も頭を下げて感謝の思いを伝え、意気揚々と引き揚げました。
 権現沢側から木工所方面を眺めると、藪地の中に古道が浮かびあがってきました。「まだ残っているんだ」と感慨も一入(ひとしお)でしたが、まだ廻目(まわりめ)が残っています。

廻目御社宮司社

廻り目御社宮司社跡 『地図』にある、やや太い線に注目しました。「復員1mから2mの道路」ですから、古道が今も使われている可能性があります。わかるように、赤で着色してみました。は、足で確かめた御社宮司社(跡)の正確な場所です。

 大天白を探した時は、旧道を、わけもわからず何回も往復しました。しかし、今日は『地図』があります。

権現沢 権現沢からその辺りを窺うと、民家の脇に細い路地が見えます。地図通りとほくそ笑みましたが、旧道まで往復しても、『地図』の場所にはありません。
 しかたなく、表側(旧道)に回って直接交渉を始めました。6軒に声を掛けましたが、三軒は不在で、残る家もいつも通りの「わからない」で終わりました。
 まだポツポツですが、カメラには気になる雨が降ってきました。本降りにならないうちにと、山際から続く長く伸びた藪の中に入りました。私はジャングルの中で秘宝を探す気分ですが、長時間のウロウロは、「あの人、何をやっているんだ」との疑いの目で見られかねません。「今日はこれまで」と歩道に戻りました。

廻り目御社宮司社跡 もうすぐ旧道という地点で山手を見ると、…御柱? 近づくと正に御柱の冠(先端)でした(御柱で神社や祠の場所がわかるという諏訪は、本当に面白い土地です)。しかし、確認するには不法侵入になるという場所です。許可を得るために玄関へ向かうと、敷地の石垣脇に道らしきものがありました。

廻り目御社宮司社跡 草を踏みしめながら進むと、祠ならぬ石柱が見え、廻り目御社宮司社と確認できました。
 神社跡の碑にも御柱を建ててしまうのが諏訪人のスゴいところですが、ここでは違和感がまったくありませんでした。

七御社宮司古道

 旧道側から眺めた、古道跡と思われる道です。旧道からは、この家の前までは舗装されていますが、その脇は草地だったので、何回前を通っても、権現沢に抜けられるとは、夢にも思っていませんでした。

廻り目御社宮司社跡
新しい御柱が建った(28.9.16)

 これで、七御社宮司は全て制覇しました。「いやー、面白かった」と、湖南青年団大熊支部の皆さんに謝辞を捧げずにはいられません。
 それにしても、大熊の地は、御社宮司社の他にも巻の祝神が至る所にあることに驚かされました。諏訪では一番神口密度が高い土地かもしれません。

鎌倉街道(七御社宮司道)

 地図上に並んだ七御社宮司を眺めると、同じ標高上にあることがわかります。国土地理院の地図で調べると、榧木782m・廻目770m・神田久祢779m・南方(796m)・小林(800)m・御頭800m・北方795mでした。参考までに、本宮三・四の御柱が780m、前宮805mを挙げてみました。
 また、中央自動車道が、諏訪大社上社を避けてから同じラインを通過していることもわかります。鎌倉街道と高速道路が、その時代の実情に合わせて最適のラインを取っていることが何とも面白く感じました。