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八龍神社 諏訪市中洲 15.9.28

 八竜神社や八立神社の名で書かれていることがありますが、長野県神社庁の表記に従って「八龍神社」で進めます。その八龍神社を初めて訪れたのは、御柱年前年の平成15年9月でした。八龍神社の氏子が祭主となって「古御柱祭(ふるおんばしらさい)」を執り行うことを知ったからです。

 狭いうえに片側が用水という道です。その用水側にガードレールの類がないのは、道幅がさらに狭くなるのを嫌ってのことでしょう。散策するにはまことに風情があって良いのですが、凍結時のスリップを“想定”すると…。
 「八幡神社」の標識は労せずに見つかりましたが、今日は、同じ「八」でも「龍」の方です。神社に付きものの杜も見えないので、後は地元の人に訊くしかありません。対向車の邪魔になっては、と八幡神社に向かう脇道に車を駐めました。タイミングよく現れた男性に「八龍神社は」と尋ねると、「はちりゅうさんは…」と、親しみを込めた言い方で前方を指し示しました。

八龍神社 拝殿は唐破風付きの入母屋造りで、案内板では明治41年再建とあります。祭神が建御名方命の孫にあたる八立命であることから、別名として八立神社の名があるのでしょう。
 境内の左隅に石祠が幾つか並んでいます。年号などの彫り込みをチェックしていると、自転車や歩行者の動きから、拝殿の背後に坂道があることに気が付きました。この辺りは、大字(あざ)「中州」とあるように、かつての諏訪湖岸です。平地の“はず”なのに、と先を見通せない坂を上ると、何とその頂点は橋で当然ながら下は川でした。
 私の頭の中にある地形図ではここに川はありませんが、それに相当するのは「宮川」しかありません。八龍神社までの道幅が狭いのを嫌って、大回りして戻るという道行きがその原因でした。思い込みはともかく、八龍神社は宮川の堤防直下にあることを知りました。今でこそ治水が行き届いていますが、洪水で流されるおそれがあるこの地に何故神社なのでしょうか。現在の地形を見て「立地云々」と言っても意味がないかも知れませんが、「八“龍”」から、元々は川を鎮める神社だったのかもしれません。
 帰りは直接車に戻らず、少しだけ「水路のある道」を歩いてみました。冬季に限ればやっかいな存在と思えますが、まだ9月の強い日射しの下での用水の存在は、初めて歩く私には心地よいものでした。庭や生け垣に咲く花や屋敷神の祠を囲む小さな御柱に目をやりながら、のんびりと歩いてみました。

御柱休め

八龍神社「御柱休め」

 この写真は、平成16年6月5日の八龍神社境内です。諏訪大社上社本宮で役目を終えた四本の御柱がここに安置されています。この風景は6年に一度で、しかも限られた期間でしか見ることができません。
 拝殿の左に見えるガードレールが、宮川を渡る「宮川八竜橋」です。前述の「堤防直下」がよく分かるので、ここで改めて補足しました。

八龍神社の石本殿

八龍神社本殿 平成19年4月、冬にため込んだ運動不足の足慣らしの足任せという成り行きで、諏訪大社上社前宮から本宮、さらに上金子の「御頭御社宮司社」を経て、結果としてはこの「八幡神社」まで歩いてしまいました。最近は、散歩でも旅行でも(何でもかんでも)神社がらみとなっています。その途中で八龍神社を思い出し、多分、と思える橋と緑の塊に向けて進路を変えました。当たれば、逆方向からの再々訪となります。
 神社の裏は高みとなった堤防上とあって、拝殿の裏を見下ろせます。黒塀の上に本殿の屋根が見えました。何と石造りです。望遠鏡代わりのカメラで覗くと、大棟が分割してあることからかなり大きなものと見受けました。しかし、どんなに背伸びしても屋根しか見えません。例祭時には(多分)見られるチャンスが、と写真のみで引き揚げました。

 本殿の詳細を知ろうと調べましたが、「石の祠」では関心が薄いのか中々見当たりません。ようやく、中洲公民館編『中洲村史』の〔村を行く〕の項に見つけました。「石壇は縦2.17m・横2.13m・高さ1.32mで、その上に高さ1.92mの石祠がある。石工は堀田梅重で171円余を要した」「見事な神宮寺石で体部に明暦元年(1655)、屋根形に寛保元年(1741)の文字が刻まれている」とあります。
 基壇と祠の大きさは分かったのですが、「171円」が時代と合いません。単なる通貨単位の誤植としても、171両では大金過ぎます。正誤表があれば確認できますが、不特定多数の人が手にする図書館の本とあって見当たりません。それにしても古いものです。神宮寺石製ともわかり、ぜひ間近で拝観したいとの思いを強くしました。改めて写真を見ると確かに特徴ある小豆色で、当に神宮寺石でした。

八龍神社本殿 平成22年になって、ようやく“御開帳”に立ち会う機会がありました。6月20日に「御柱休め祭」があったからです。
 逆光であることと、拝殿前からでは距離があるので「神宮寺石」本来の色を写し取ることができませんでした。
 後日、石祠の身舎(本体)が、諏訪では「籃塔」と呼ばれる供養塔の形であることに気がつきました。身舎と屋根に90年の開きがありますから、何らかの事情で、籃塔の身舎に「流造」の屋根を組み合わせた可能性を考えてしまいました。


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