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有賀の七御社宮司 諏訪市豊田有賀 28.7.11

■ 御社宮神と御社宮司が混在しますが、同じと考えてください。

 中世の嘉禎期編纂と伝わる『祝詞段』では、「大熊(おぐま)七御社宮神・大天白・十二所権現」などと、「七」社にまとめた御社宮神が登場します。ところが、同書の有賀村には、

有賀之郷に ニウリニウタイ(女躰社)・チカト(千鹿頭社)・若宮・小式原渡リ御社宮神、
諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書第二巻』

とあるように、「七」の名はありません。また、時代は下った江戸時代の『諏訪藩主手元絵図』にも「七御社宮神」の表記がありますが、有賀村には見られません。
 古文献や古絵図には“グループ分けした七社”は残っていませんが、村内では、特別な存在とした御社宮神を「七御社宮神」と呼称していたことは間違いないでしょう。

 諏訪史談会編『諏訪史蹟要項二十 諏訪市豊田篇』の〔有賀村〕から、「有賀村の七御社宮司」を並べました。

・御頭御社宮司社 ───── 現在は千鹿頭神社の境内社
・赤石社 ───────── 千鹿頭神社の十三神社へ合祀
・不聞社 ───────── 千鹿頭神社の十三神社へ合祀
・島ノ御社宮司社 ───── 千鹿頭神社の十三神社へ合祀
・小敷原社 ──────── 千鹿頭神社の十三神社へ合祀
・胡桃沢社 ─────── 有賀村の飛び地として旧北真志野村にある
・千鹿頭社 ──────── 現在の千鹿頭神社

 これに対して、『豊田村誌 下巻』は、千鹿頭社の代わりに「千鹿頭社の内のおくはざま社」を挙げています。


おくはざま社・伊雑皇大神・御鍬様

濁点がない「オクハマ」 明治11年の長野県庶務課『諏訪郡村誌』の草稿本〔豊田村〕には、「右御社宮司社以下ノ六社ニ村社千鹿頭社ノ一小社 オクハマト云 ヲ合セテ御頭七御社宮司ト云」とあるのを見つけました。また、(文出にある)御社宮司社も「里人之(これ)ヲ伊雑皇大神(オクハマト云)…」と書いています。

 私が手引きとしている一書に、小口伊乙著『土俗より見た信濃小社考』があります。〔御社宮司社〕では、『豊田村誌』を引用した結果「伊雑皇大神」に(おくはざまおおかみ)とふりがなを付けています。これを宛字として読み流すこともできますが、私は、この「オクハサマ(オクワサマ)」は諏訪の各地にある「御鍬様」ではないかと考えました。
 江戸期に流行(はや)った「御鍬様信仰」は伊勢の伊雑宮(いぞうのみや)が発信地で、祭神は天照大神(伊雑皇大神)です。「御鍬様」では頼りないし、「伊雑」では(いざつ)と読んでしまうそのジレンマが「伊雑皇大神」と「おくわさま(御鍬様)」双方の名が残ったということでしょう。
 ここに「おくはざま小考」として入れてみましたが、いずれにしても、ミシャグジとは相容れない郡外の神になります。明治初期には、合祀したつもりが、いつの間にか主従が入れ替わっていたと言うことでしょう。


有賀の七御社宮司探訪

 千鹿頭社・御頭御社宮司社・胡桃沢社(くるみざわしゃ)はすでに紹介しているので、ここでは取りあげません。

■ 以降の引用文献は、豊田村誌編纂委員会『豊田村誌 下巻』〔第二節 暮らしの中の産土様〕です。

赤石明神

 赤石社は、有賀の字(あざ)中舟渡にある小さな社である。赤石明神とも言われ、諏訪明神が初めて諏訪の国に入ろうとした時湖水を渡ってこの地に上り、石の上で垢を落とし身を浄めて小敷原に赴かれたという。
 境内の大石はこの時垢をおとされた「あか石」で、また俗に武田信玄を諏訪湖に埋めた時その血がしみついて赤くなり、年々石が赤みを帯びてきたとも言われている。
 最近石の埋没が激しいので、平成二十二年嵩上げ整備された。

赤石明神 「北有賀」のバス停から小道に入ると、横位置となる玉垣と御柱が見えます。何年か前は「朽ちた鳥居があり、半ば埋もれた石があった」という記憶がありますが、全てが一新されていました。


赤石明神 「赤暗褐色」と表現した、長さ約1.2mと見た石の上に、幾つもの風化した貝殻が置かれています。玉垣内は雨に洗われて露出した石が散乱していますから、その中に貝殻があるのに気が付いた人が拾い集めたのでしょう。
 『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』には「有賀石船渡水中に三ツ石夫婦石赤石。赤石大明神御頭七社之内也」とありますから、かつての諏訪湖は、この辺りまで水が浸いていたことがわかります。

赤石 一部、地の色がわかる箇所があります。この時は「誰かが色を確認するために…」と(悪しき)想像をしましたが、後日、整備するときにワイヤーか何かでついた傷と理解しました。
 紹介文には「年々石が赤みを帯びてきた(とも)」とあります。鉄分が多ければ徐々に赤くなることが考えられますが、私の代では確認できません。誰か…。

小敷原(甑原)社(こしきばらしゃ)

 赤石の次は道順で千鹿頭神社へ行ったのですが、案内文の流れがあるので先に紹介しました。

 小敷原は、通称三本松といい祠はない。この社は鎌倉時代の嘉禎年間に書かれたと伝わる『祝詞段』や『根元記』にも見える。※1
 明神様が赤石から座生されたことから出来た社と伝えられる古い神社である。今は三〇坪余の境内に芭蕉や地元俳人の句碑もある。一本松(神送り山)甑原(小敷原)が上社神域(内県)の北端であると考えられている。※2
※1「小式原渡り御社宮神」とある。
※2 嘉禎の『物忌令』に「罪科人を誅(ちゅう)する南は鳴沢をこし(越し)、北はコシキ原をこして可被誅也」とある。(茅野市の)鳴沢と小敷原の間は諏訪神社上社の聖域だから、死刑はその外で執行しろということになる。

 中央自動車道下のトンネル内で、汗が吹き出た体を冷やしてくれる風をしばし楽しみました。ここから出たくありませんが、行くしかありません。側道をたどると、遠目にも「三本松」が望めました。

小敷原の三本松

 「物置を撤去し、案内板と句碑の代わりに小敷原社の祠を置けば、“有賀八景”の一つになる」と考えてみました。

三本松(小敷原) しかし、逆方向から眺めると、新有賀配水池の巨大な建屋が…。
 それでも、ここでは高速道路の存在を忘れることができます。ただし、左方の一段高い畑の端に立つと、諏訪湖サービスエリアが見下ろせます(下写真)。

不聞社(きかずしゃ)

 不聞社は、有賀町屋集落にある二〇坪ばかりの社である。「祭神を出早男命。聾(ろう)者椀に穴して糸につなぎ、これを社前にかけて祈っていわく、聾耳をして益々聾ならしめよと。不日にして聾治す」という。
 参拝者が絶えないので、今も小さな木祠が残されている。建てられた御柱は通常の逆に向って建てられている。願掛けは反対のことを祈れば成就するというのである。

不聞社 ネット地図をプリントアウトして、『諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)』にある不聞社の場所を書き込みました。
 突き当たったら左・次のカーブを…と歩くと、地図通りの場所に小さな木祠がありました。
不聞社 何年か前に見た記憶がありますが、今日不聞社と知りました。案内文にあるように、現在も祠は健在でした。
 珍しいことに、御柱がありません。今年は御柱年ですから、早めに撤去したのでしょう。

不聞社の御柱 御柱は、“諏訪の常識”では秋の小宮で必ず建てられます。“その通り”になっているのかと11月4日に再訪すると、その通りで「1・2・3・4」が左回りに立てられていました。


島ノ御社宮司社

島ノ御社宮司社
『諏訪史上巻』〔諏訪市史跡・文化財地図(古代・中世篇)〕

 不聞社に祠があったことから、「ここも」と期待しました。
 しかし、凡例の大きさに見合った範囲を歩いても、何も見つけることはできません。反対側(南)の道からも眺めましたが、無駄でした。社跡も消滅したと考えて引き返しました。

 一年後、畑中に立っているお年寄りを捕まえ、「島ノ御社宮司社はどこに」と問いました。しかし、反応がありません。「この辺りなんですが」と続ける中で、「神社跡ならある」と引き出すことができました。案内してもらうと、10mも離れていない場所に方形の空き地がありました。

島ノ御社宮司社跡 「子供のころでも何もなかった」と言いますから、千鹿頭神社へ合祀された以降は、社地だけが残ったのでしょう。
 改めて見直すと、境石()が2本見つかりました。その一辺から推定した場所を注視すると、崩れた[]が頭だけを出していました。

『諏訪藩主手元絵図』

 この絵図に載る「神社」を拾い、対応する現在の社名を並べてみました。

・「くるミ沢鎮守」───胡桃沢社
・「千鹿頭産神」────千鹿頭神社
・「御社宮神」─────島ノ御社宮司社
・「不聞神」──────不聞社
・「若宮」───────御頭御社宮司社
・「こし原御社宮神」──小敷原社
・「赤石」───────赤石社

神送り山(一本松)

 七御社宮司ではありませんが、「小敷原」の紹介文にあるので取りあげました。こちらは、 上巻にある〔豊田の遺跡と遺物〕の一部です。

神送り山遺跡 通称「神送り山」と呼ばれる標高八三五mの丘陵を中心とした起伏に富んだところに神送り山遺跡はあった。現在の中央道諏訪湖サービスエリア一帯である。(中略)
 神送り山は神無月に諏訪に集まった神々がそれぞれ帰国する際この地で見送った地とも伝えられており、内県の最北にあたる。歴史的に重要な場所と考えられており、神送り山の西南部の高台には古字で「お天井(てんじょう)」という地名も残っている。
神送り山
一本松