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浜中島弁財天 岡谷市湖畔 22.12.12

 浜中島弁財天の境内は、葉をすべて落としたイチョウとケヤキが長く影を延ばしていました。残照と言える時間帯も後わずかとあって、より寒々しさを感じました。

浜中島弁財天

 道向こうの「御社宮司神社」を取り込んだ構図にしたので紛らわしくなりましたが、白い鳥居は浜中島弁財天の“もの”です。写真に一部写っている火の見櫓と御社宮司神社に加え、近くには下浜区民センターがありますから「旧下浜村の中心地」という場所です。因みに、撮影場所の背後は湖畔公園で諏訪湖へと続いています。

浜中島弁財天「絵」 覆屋の中を覗くと、何と、本殿に弁財天の絵がはめ込まれています。“こんな状態”ですから、すでに例祭が絶えて久しいのでしょう。好意的に「本来納められる御神体の代わり」としましたが、やはり違和感はあります。結果的に、これがあったからこそ「ここは弁天様」とわかりましたが…。比較的新しい鳥居なので、「浜中島弁財天」の鳥居額を懸ければ「こんなこと」をしなくて済むのにと思いましたが、寄進者にも都合があるのでしょう。

 鳥居は諏訪湖(岸)を正面にしていますが、社殿はかつて鎮座していた弁天島ではなく「変な方向」に向いています。人家で遮られて見通しは利きませんが、諏訪湖の中心か対岸にある高島城のように思えます。「神社探訪には必携」と言っても、最後に使ったのが何時だったのか全く記憶がないコンパスを取り出して、目測ですが125度とメモしました。35年前に登山用として買ったオモチャのような「EVER NEW」製ですが、シンプルが故に壊れることもなく今でも重宝しています。

浜中島弁財天本殿 “お題”は、「覆屋の扉に空いている、穴二つ」です。正面寄りの丸穴は、かつて使われた「賽銭投げ入れ用」と想像できますが、右隅の長さ30cm程の穴には首を傾げてしまいました。鍵穴状に整形してありますから、何かの用途があるのは間違いありません。目を凝らすと切り株(後述)のようなものが見えますが、この穴とは無関係のようです。「キツネ穴なら理解できるが、ここは弁天様だし」と、ポッカリ空いた穴の分だけ頭の中に疑問の出っ張りができたような思いを持ちながら帰路につきました。

浜中島弁財天の雑学

弁天様はどこを見詰めている

 「大画面のデスクトップでは足が冷えるので、今はバックアップ用のノートパソコンを“コタツトップ”として使っています。コタツにノートの相性はピッタリで…」という私事(わたくしごと)は置いて、ディスプレイに表示させたネット地図に、125度にロックしたコンパスの「N」を合わせました。ところが、「高島城」は期待外れで、茅野市役所方面を指していました。
 なぜ高島城としたのかは、弁天島が家老の千野氏の領地だったからです。千野氏の発祥地は茅野市であることは間違いありませんから、現在の本殿を造営するときに、「当時の家老家の本家筋」の方角「茅野市役所方面」に向けて建てたとしました。

謎の穴は、ヘビ穴か!

 諏訪では実見したことはありませんが、ネットで、稲荷神社の祠の下や背後にある「(眷属が出入りする)キツネ穴」の写真を見たことがあります。「弁天様の眷属はヘビ」ですから、これに倣うと、「扉の最下部(床面近く)に空けた穴」なので「これは、ヘビ専用の出入口」となります。さらに「鎌首をもたげたままても通れる形」と考えると、妙に納得してしまいます。「ヘビ穴」(と言うものがある)なら、覆屋を造った人に盛大な拍手を送りたいのですが、事実は如何に!

ケヤキの根っこ(切り株)

弁天島のケヤキの切り株 「弁天島に生えていた大ケヤキを売却した。残った根を八艘の舟に吊り下げて持ち帰ろうとしたが湖中に落ちてしまった。何とか引き上げて運び出すことができた。今でも、その根で作った餅臼や広蓋(ひろぶた)が残っている」と伝える文献があります。ただし、“鍵穴”から覗ける「木の何か」が、弁天島にあったケヤキの切り株と同一のものなのかは(現時点では)わかりません。

弁天島の変遷

 下の絵図は、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』にある「岡谷村 新屋敷 間下 上浜 下浜」の一部です。わかりやすいように(天竜川が左へ流れるように)90°回転させ、名称などを書き加えました。享保18年(1733)の作成とありますから、この頃には島が二つあったことになります。内に「三狐神」と書かれているのが、現在の御社宮司神社です。

弁天島 日根野高吉が高島城を築造するには、諏訪湖の水位を下げる必要がありました。唯一の流出河川が天竜川ですから、ネックとなる下浜村に堀を開削して(1)流出量を増やしました。文献上では「慶長10年(1605)頃」だそうです。この工事によって島となった場所に弁天社があったので、「弁天島」と呼ばれました。
 その後、洪水対策で弁天島を二分する水路が開けられ(2)、新たに浜中島が出現しました。天保年中には「浜中島」が取り払われ、残った弁天島も慶応4年(明治元年)に取り払われて消滅しました。これが、名勝「弁天島」の誕生と消滅の歴史です。

御社宮司神社の境内社「厳島社」

 岡谷市『復刻平野村誌』があります。原本は「諏訪郡平野村役場編纂並発行者」とある昭和七年発行の本です。ここに載っている「御社宮司神社の境内社」ですが、初めは「厳島社」なので読み飛ばしていましたが、内容から現在の浜中島弁財天社とわかりました。

 境内社厳島社は元無各社であったが、大正十年五月三十日本社(※御社宮司神社)へ合併を認可された社である。この社は祭神市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)で、明治以前は尾尻辨天島にあり、辨財天と称し、島の名もこれによったものである。
 「小社神号記」には中島社ともかいてある。この社元小口治良右衛門の祝神で、天正(元和か)年中尾尻堀割の時東山田村へ移住した後も社は尚同島にあった。
 「小社神号記」によれば寶暦年中三ノ丸(※高島藩家老家千野氏の別称)より石宮寄進あり。寛政十二年九月藩宰(※家老)千野氏の心願により同氏の支配となり、分霊して小口氏の祠は別に島尻に社地を築いて祀った。
 明治元年弁天島取払の際後者はこれを東山田字小田野に移し、舊来の社は御社宮司社前の字(あざ)辨天今の地に移座したのである。

弁天社は二つ

 同書の『平野村誌』から、笠原岩太郎氏蔵「岡谷村古地図の一部分」を転載しました。
弁才天宮 初めは「島が二つ」程度の認識だったのですが、ルーペで拡大すると「鳥居が三つ」あることに気が付きました。これで、古図からも弁天島には二つの弁財天社があったことがわかりました。
 その後の明治元年に弁天島を取り払うことになり、小口氏の祠は「旧東山田村」に移され、一方の千野氏寄進の祠が、ここで取り上げている「浜中島弁財天社」として移転されたと理解できました。

弁天嶌 寛政から文政年間(1800年頃)に作成された『甲州道中分間延絵図』にも、二つの弁天社が描かれています。ここでは、「東京美術」が出版した復刻版から「上諏訪宿」の一部を転載しました。「字(あざ)弁天嶌」と読め、各鳥居の左側に「弁天」と書いてあります。

弁財天社の元宮

浜中島弁財天元宮 『小社神号記』には「石宮寄進あり」と書いてあるので、境内社と思っていた小さな祠が、浜中島弁財天の「元宮」とわかりました。今の木造の社が建造された時に引退したのでしょう。
 高島藩の家老千野氏がなぜ弁天島を自領としたのか興味を引かれますが、詳細はわかりません。

図絵に描かれた弁天島

 諏訪湖の風景の中に弁天島が描かれた絵が何枚かあります。
『信濃奇勝録』から「諏訪湖」 井出道貞著述『信濃奇勝録』にある「諏訪湖」から「弁天嶌(島)」だけをカットしました。「弁天島は長さ60間(110m)・幅10間」とあるので、かなりデフォルメした形で描いてあることがわかります。
 浜中島の撤去は天保年代とされていますが、『信濃奇勝録』の編纂が天保5年(1834)なので、それ以前に浜中島が消滅したことになります。

『諏訪八勝詩』から「尾尻」 通常はお目にかかれない吉田鵞湖編『諏訪八勝詩』にある「尾尻」の絵を探してきました。上部が天竜川の流出部ですから、岡谷市側からの眺めになります。
 天保9年(1838)の作なので弁天島になりますが、石祠ではなく木造の社殿として描かれています。時代から見ると、小口氏の祝神という可能性があります。また、かなりの流れがあるような印象を受けますが、「波線」は単に水の流れを表現しただけかもしれません。

弁財天の石像 24.10.11

浜中島弁財天24.10.11 新聞に「弁天様の石像が納められた」と載っていました。
 10月になってから駆けつけると、白い弁天様が本殿の前に鎮座していました。石造りの重さと大きさから本殿内に納めることができないのでしょう。丸い基台の上に座っていました。
 本殿内に新しい幣帛が見えます。こうなると、どちらが“主祭神”になるのかと悩んでしまいます。


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